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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第1話 翡翠の宮殿 第3章

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03 翡翠の血筋

 「祭り」は次第に賑やかになっていった。三十ラクトはゆうに離れているだろうに、それははっきりと判る。

 使用人たちは日々の仕事からつかの間ながら解放され、彼らだけの時間を満喫していた。いつもより少し多めの酒と、いつもより手間のかけられた料理、いつもよりも賑やかで楽しい夕べ。昨夜、宮廷に招かれた吟遊詩人(フィエテ)のようにとはとてもいかないが、楽器の音や歌声も聞こえてくる。興が乗れば踊り出すものもいることだろう。

 だが騒ぎと言うほどの音はエイルとシュアラの元までは届いてこない。少年はそれに安堵するべきかがっかりするべきか決めかねていた。滅多にない祭りに参加できないのは寂しい気もするが、シュアラとこんな場所でこんなふうに話ができる機会など、作ろうと思っても作れるものではない。

 彼らは厨房の片隅に置かれていた木の台を即席の卓にし、椅子とは名ばかりの木箱の上に座っていた。エイルにしてみれば座る場所があるだけ上等だが、王女殿下にしてみればこれに腰掛けろと言われて何の冗談だと思ったはずだ。

 しかしシュアラはほんの少しの躊躇いののちに木箱を椅子と心得、その座り心地に文句を言いはしなかった。差し出された木皿とそれに注がれた茶褐色の煮込み料理にも、これまたほんの少し眉をひそめただけで何もけちをつけなかった。それを食べ物と認識し、口にするにはかなりの勇気が要ったことだろう。

「見た目は酷いけれど」

 シュアラはその綺麗な細い指に粗野な木の杓子を持って言った。

「味はなかなかね。初めて食べるわ、このようなもの」

 そうだろうな、とエイルは思った。彼の方でも、初めて食べる味だ。シュアラとは逆――だろう――に、こんなに美味いものは食べたことがないと思う。だがそんなことを言い争っても仕方がない。彼は首を振った。

「まあ、これは、あるもんをみんなぶち込んで煮込んだだけみたいな単純なもんだからなあ。シュアラが見るのも初めてでも当然だろうし、だいたい、これを大喜びしたりしてたら、ミーリが泣くよ」

「誰?」

「ミーリだよ。上厨房の料理長の」

「知らないわ」

「知らないって」

 エイルは、彼にとっては最高級の美食をがっつく手を止めて、王女を見た。

「料理長だってば。シュアラの飯をいつも作ってる」

「ああ……そう。そうね」

 王女はどこか驚いたように言った。

「そうね。誰かが作っているはずだわ。私……気づかなかった」

「何、馬鹿なこと」

 ついそんな言葉を口にしても、シュアラは怒らなかった。

 先ほどから、ずっとそうだ。エイルはほぼ完全に普段通りの口調になっているし、姫さん、という最低限の呼び方すらしていない。なのにシュアラは、一度もそれを無礼だと言ったり、そう感じているような顔は見せなかった。我慢していると言う様子もない。

 これは何故なのだろう。ほんの一日の間にシュアラの考えや価値観がとんでもなく変わったか――そうは、思えないが――そうでなければ、やはりこの場所のせいだろう。

 彼が訪れる彼女の自室――のうちのひとつ――となれば、そこは彼女がもっとも「王女殿下」である場所だ。少女が王女以外の存在であったことなどないだろうが、それにしても王宮の内部へ行けば行くほど、シュアラ・アーレイドは個人よりも王女となる。

 となれば、敷地としては城内だが、ここは彼女の知る城の「外」だ。エイルの方もまだここに完全に慣れたとは言い難かったが、どちらかと言うならばやはりここは彼の場所なのだ。

 侍女もなく、騎士もなく、ひとりで暗がりに立っている少女は王女でありながら――シュアラ、と呼ぶことが自然であるように思えた。少女の方では、どう思うのか。

「私は、お前が無知だと思っていたけれど、そうでもないのかしら」

「あのさシュアラ。そう言うのも、『失礼』っていうんだぜ」

 城下でも評判と言う絶品の麺麭を手にしたエイルは、それを料理につけて食べる、といういささか品のない方法で食事を続けながらそう言う。

「まあ」

 シュアラは口に手を当てた。

「……そうね、そうだわ」

「気づいて、なかったのかよ」

 エイルは呆れた。シュアラの言葉が全て意図せずにこぼれ出たものばかりなのだとしたら、馬鹿にされたと腹を立ててきた彼はまさしく馬鹿みたいだ。

 優雅な物腰、丁重な言葉遣い、溢れる気品――それらを持っただけの、彼女は幼子であるかのようだ。子供の無遠慮な物言いに腹が立つことがあっても、それはその場限りで治めるもので、いつまでも引きずるものではない。

「言い方を変えるわ。私は、お前の知らないことをたくさん知っていると思っていたけれど、もしかしたら、お前から見ても同じなのかしら。私は宮廷のことと本の中のことしか……知らないと」

 全くもって、その通りだ。

 これが昼日中、王女の部屋でのこれまでのような対面であれば、エイルはその言葉に大いにうなずき、王女がそれを理解したことに拍手をし、感激の礼などしてシュアラの憤りを買いでもしたかもしれない。

 だが、いまここで言われた言葉は、彼をそのような気持ちにはさせなかった。

 場所のせい、薄闇のせい、夜のせい、何でもいい。

 その言葉はどこか寂しげで頼りなく聞こえ――少年の心をどきりとさせるに充分だった。

「んなこと、ねえだろ」

 エイルは呟くように言う。

「んなこと、言うなよ。そりゃ仕方ないっつーか……当たり前のことじゃんか。俺の知ってることをお前が知らなくて、お前の知ってることを俺が知らないのなんか。世界中を全部知ってる人間なんかいないんだし」

「私は」

 少年は顔を上げた。小さな即席の卓に置かれた角灯がその横顔を照らす。きめの細かい白い肌が少しだけ紅潮して見えるのは灯りのせいか、はたまた王家の娘の舌には耐えられないのではないかとエイルが心配した、安物の葡萄酒(ウィスト)のせいだろうか?

「知りたいわ」

「何を」

「世界を。全部」

 エイルが驚いて口をぽかんと開けると、少女は少し悪戯めいた顔をした。

「夢よ。ねえエイル。私はこれからもずっと、アーレイドを出ないでしょう。あと何年もしないうちに、会ったこともないどこかの第二王子とでも結婚して、その男がこの街を支配するのを横で眺めるのよ」

「そう、なのか?」

「そうよ」

 そんなことも知らないのね――とは、言われなかった。

「少し、悔しいわ。ここを離れられないことじゃなくて。ここが、知らない誰かのものになること。アーレイド。私の――翡翠(ヴィエル)

 少年の鼓動が早くなったのは、どちらのせいなのか。少女の、これまで見たことのない大人びた表情のせいか、それともヴィエル、の一語なのか。

「エイル? どうかして?」

 少年の動きが止まったことに気づいたのだろう、王女は問い掛けた。

「あ、いや」

 何を話そうか、と悩むことはなかった。悩む間はなかった、と言うべきだろうか。その言葉はすべるように、少年の唇から出たのだから。

「ヴィエル――エクス」

「あら」

 シュアラは目をぱちくりとさせた。

「どうしてその言い方を……ああ、あの吟遊詩人が歌ったのだったわね」

 翡翠の姫、即ちシュアラを褒め称えた歌を思い出して少女は少しはにかむようにし――これまでからは思いもよらぬほどその顔は可愛らしく、「お姫様」めいていた――クラーナと言ったかしら、と続ける。

「あの歌のあとだったわね、お前が退いたのは」

「よく、覚えてるな」

「それは当然でしょう、珍しい給仕がいれば自然と目が行くもの。お前がどこにいるのか、食事をしながらも気になっていたわ」

「そりゃ、どうも」

 礼の仕草をする。下町のそれが王女に通じたかは、判らない。

「なあ、シュアラ」

 エイルは麺麭の最後のひとかけらを口に放り込むと、少女の目を見た。

「あのさ。何なんだ?……翡翠の宮殿、って」

「何、とはどう言う意味?」

 姫君は美しく首を傾げる。

「ヴィエルはヴィエルよ。ああ、知らないのね? アーレイドと言うのは、翡翠(ヴィエル)の意味を持つ言葉なの」

 エイルにそう教えるシュアラの口調に見下した雰囲気はなく、だがエイルはそういう態度を学習したらしい姫君に感心する前に首を振る。

「それは、聞いたんだ。でもさ、別にこの辺りでヴィエルが採れるなんてこともなけりゃ、加工業が盛んってこともないだろ。だいたい、ほとんどの人間は聞いたことないと思うぜ、そんな魔術の言葉なんて。なのに」

「――ああ、お前は、何故アーレイドが翡翠の名を持つかが知りたいのね?」

 得心がいったようにシュアラはうなずく。

「まあ、そういうことかな」

 曖昧にエイルもうなずいた。

「何か伝説でも、あるんか?」

「伝説、というものではないけれど、伝わっているものはあるわ」

 シュアラはうなずく。

「城の宝物庫には、アーレイド建都の礎となった翡翠があるの」

「何だって?」

「行事のたびに出してきて、それに祈りを捧げるのよ。とても美しいの」

「聞いたこと、ねえぞ」

「それはそうでしょう。城内だけで行われる儀式だもの」

 シュアラは肩をすくめた。あまり王女様らしくない動作で、エイルは苦笑した。彼がたびたびやるそれが伝染ったのだとしたら、あまりよくない傾向だ。

「拳ほどの大きさもある、それは美しい(ぎょく)よ。お前にも見せてやりたいけれど、駄目ね」

「そりゃそうだろ、俺なんかそんな儀式に立ち入れるはずないんだから」

「それだけじゃないわ」

 シュアラは言った。

「アーレイドの翡翠は……この言い方はおかしいわね、翡翠の翡翠、と言っているようなものだわ」

 でもそれしか言い方がないわね、と王女は品よく笑う。

「あれは、翡翠の血筋にしか、見せられないものだから」

「翡翠の血筋」

 エイルは繰り返した。

「そう」

 シュアラはうなずく。

「つまり、アーレイド王家のことね」

違う(・・)

「――え?」

「だから、アーレイドというのは翡翠のことだと言ったでしょう。お前も知っていると言ったじゃないの」

 エイルの当惑した表情にシュアラは首をかしげた。それを取り繕うように何か適当なことを呟きながら、少年は自身の内に浮かんだ声を――反芻する。

(違う)

(翡翠は――のもの)

(――が再訪するその日まで守護者がその眠りを守る)

(〈時の月(・・・)()また巡り来るときまで(・・・・・・・・・・)

「エイル?」

 少年がびくりとすると、木皿に乗せたままだった木杓子が音を立てて落ちた。

「ああ、俺、片づけて、くるよ」

 食器は集まってくる使用人の全員分などない。空いた皿はどんどん厨房に戻すのがここでの常識だ。エイルはそうすることで浮かんだ言葉を振り払おうとした。


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