07 惑わされるな
目が回るような――思いだった。
自分に腹が立って仕方がない。
何故、伝言を受けたときにすぐに戻らなかったのか?
いや、戻ったところで事態は変わらっていなかっただろうと理性は言う。それどころかもっと悪くなっていたかもしれないと。
だが、それでも。
レイジュの話はいささか支離滅裂なところがあったが、トルスの話よりもファドックがずっと危うい状況であることを彼に教えた。一年前は「レイジュが語るファドックのこと」は話半分に聞いておけばよい、くらいに思っていたが、それでは済まないように思った。たとえ、半分だとしたって、トルスの話以上にただ事ではない。
レイジュが、ファドックのことを語って、涙が浮かぶのを懸命に堪えるなど――悪夢よりも酷い話だ。
心臓が、こんなに速く鼓動を打ったことはなかった。
一刻も早くファドックのもとへ向かうべきだという意見はレイジュと一致しており、そうなれば王女付きの侍女は下厨房の料理長よりも権限もあれば城内にも詳しかった。使用人の制服を手にするも容易ければ、もちろん新近衛隊長の部屋もはっきり把握している。
エイルに制服を投げ渡したあと、レイジュはファドックの在室を確認してくると言って部屋をあとにしていた。
懐かしいお仕着せに何となく笑みなど浮かんだ――瞬間だった。
雷 に撃たれたかの如く、全身に激痛が走ったのは。
それは夢の――悪夢の――ように一瞬で彼から去ったが、激しい動悸は残された。ばっとその瞳が緑色に輝くと、少年はそれ以上、友人を待たなかった。
探さなくとも、〈守護者〉の居所はリ・ガンには知れるはずであったが、何とも怖ろしいことに、エイルは一度たりとファドックがいるという感覚を掴んでいなかった。
アーレイドの翡翠は、変わらず宝物庫にあり、人知れず〈時〉を待っている。そこに問題はない。
ならば、いまのは何であろう?
少年の全身を鷲掴みにしたこれは――恐怖であろうか?
「ハイ、ブロック」
きれいな侍女がにっこりと手を振ると、少年は少し赤くなってお辞儀をした。
「この前は、あなたの仕事を取ってしまってごめんなさい。でもファドック様にお話があったものだから」
「ぼ、僕はいいんです、レイジュさん。その、近衛隊長はちょっと、肩の凝る人ですから、茶を運ぶのにもいまだに緊張するし」
レイジュはその台詞を大上段から訂正してやりたいのを堪えてにっこりと笑った。
「ファドック様はご在室ね? お話、いいかしら」
「……でも」
少年は躊躇った。
「すみません。王女殿下のご指示でない限り、侍女を取り次ぐなと……言われまして」
レイジュは心臓を射抜かれたかのような痛みを覚えた。それは侍女全般ではなく、レイジュ自身のことに相違ないからだ。
「いいの、よ」
声を震わせないようにしながら、彼女は続けた。
「私じゃ、ないの」
「は」
「私は案内をするだけだから。ファドック様のご都合がよければ、お客様が、あると」
「お客様が多いですね」
それがブロックの返答だった。
「普段はそんなことないのに、今日に限って重なるんだなあ」
「――誰かお客様があったの?」
その問いにブロックは肩をすくめてから、うなずいた。
「見たこともない人でした。ちらりと見ただけですけど、船乗りみたいな感じでしたね」
「いまも、いらっしゃるの?」
どんな客がファドックを訪れているのか内心で不思議に思いながら――ブロックが言うのは、浅黒い肌の若者、と言った程度の意味だったが、レイジュがその言葉から城下で偶然に出会ったリャカラーダの様子を思い出すことはなかった――侍女は尋ねた。
「はい」
「――そう」
あっさりとした返答にレイジュは肩を落とした。
「それじゃ、お客様がお帰りになったら連絡をもらえる? 私は――」
娘の台詞はそこでとまった。視線の端に飛び込んできた影に気づいたからだ。
「ちょ……エイル!?」
「ええいっ、最初っからこうすればよかった!」
駆け込んできた少年は自身に呪いの文句を吐いた。何を真っ当な手段に拘っていたのだろう。城内を歩いて――実際は、走ってきたが――誰何され、疑われれば、ささやかな魔術で使用人や兵の目を眩ますことも、彼には――簡単ではないが――できるのではないか!
「ふたりとも、行け!」
「何、言って」
「いいから!」
エイルは心でレイジュとブロック――だろうと推測できた――に謝罪をして、ふたりに術を使った。ふたりがきょとんとした顔をして、何故自分はこんなところにいるのだろうとばかりに背を向けるのを見れば、どうにか成功したことが判った。
だが、いつまでもは保つまい。かけ慣れない術が上手く行っただけでも奇跡的なのだ。それに、ブロックはともかく、緊張状態にあったはずのレイジュにかかった術は浅いはずである。
だがそんな考察よりも先に、エイルは扉の取っ手に手をかけた。勢いよくそれを回してなかに飛び込む――ことはできない。
がちゃ、がちゃ、と取っ手だけが醜く音を立てた。
「クソッ」
鍵など、かかっていないはずだ。
もちろん内部からはかけることができるが、物理的な意味での鍵はかかっていない。
もちろん、それは、魔術だった。
「クソッ、開けろ! アスレン!」
すぐ近く――壁を挟んで何ラクトもないところにあの王子がいることには確信があった。彼の心臓を跳ね上げさせたのは、アスレンの存在、それとも、その魔術である。
「しばし、待て」
アスレンのその言葉をシーヴは奇妙に感じた。脈絡のない台詞だった。来訪者が名を告げれば内部に簡単に伝わる程度の薄い壁の向こうで叫ぶ少年の声は、アスレン以外のふたりには届いていないのだ。
「なかなかに――よいところなのだからな」
アスレンは、固まったように動かぬ〈守護者〉と〈鍵〉を見据えながら言った。
「やめろっ。ファドック様に……手を出すな!」
エイルはばんばんと戸を叩いた。
「面白い」
それがアスレンの返答だった。
「生憎と、その望みは遅すぎるようだが」
「誰と……話している」
シーヴはアスレンを睨みつけてやりたかったが、考えるようにじっとシーヴを見つめるファドックの目線から瞳を逸らすのは――危険であるように思えた。
「何、我のことは気にするな。楽しく見物をしておる。……いったいどちらが先に、剣を抜くかとな」
「――ほかにも誰かいるのか」
エイルは言った。シーヴの声もまた、彼には届かぬ。
「何を企んでる! やめろ!」
「お前の思い通りになぞ、なってやらん」
シーヴは苦々しく言った。
「そうだな、ソレス。よく考えろ。俺はお前の敵じゃない。お前が剣を向けるべき相手がいるなら、あっちだぞ」
「ファドック様!」
エイルは扉に身体を叩きつけはじめた。無駄だとは判っている。アスレンが魔力でこの戸を閉じたのならば、屈強な戦士が蹴破ろうとしても叶わないだろう。
「面白い」
アスレンは繰り返した。
「実に、面白い」
「シーヴ殿」
ファドックはゆっくりと言った。
「あなたの、お望みは」
「とりあえずは」
シーヴは歪んだ笑いを浮かべた。
「お前に正気に返ってもらうこと、だな」
ここで翡翠などと答えれば、本当にファドックが剣を抜くやもしれぬ、くらいの推測は立った。だが、口に出した言葉も本気である。
戸の外で、エイルはじりじりとしていた。仮に大斧でも持ってきてこの閉ざされたものを叩き壊そうとしても巧く働きはしない。魔力に対抗するならば、魔力である。だがエイルにはそれだけの力はない。アスレンに対抗できたのは、リ・ガンに力を貸した〈女王陛下〉だ。
彼は叫ぶ心臓を鎮めようと深呼吸をし、そのようなことで留まらぬ鼓動に理不尽な怒りを覚えながら、だが一歩を下がってじっと扉を見た。
いつか閉じこめられた陣で、魔力の編み目が見えたように――何かが見えぬだろうか。
「正気」
ファドックは繰り返した。
「私が、正気ではないと言われるのですか」
「自覚のない者にそうだと言ったところで、理解してもらえるとは思わんが」
シーヴは三度、そう返すとすうっと大きく息を吸って声を出した。
「しっかりしろ、ファドック・ソレス! お前は、守るべきものを見誤る男か!?」
ファドックの目が、微かに揺らいだように見えた。アスレンは眉をひそめる。
「無駄なことをするな」
アスレンは静かに言った。
「そのように叫んだところで、ソレスには届かぬ」
「悪いが」
シーヴは言った。
「俺は、意味がなくて無駄で馬鹿げたことをするのが大好きなんだ」
「ソレス」
アスレンはシーヴには答えず、ファドックを見た。
「油断をするな。その翡翠は――お前のものだぞ」
「いいや」
シーヴが遮った。
「いいことを言ってくれるじゃないか、アスレン」
「……何」
「おかげさまで思い出したよ。お前たちが繰り返し、俺に言わせようとしていたことを」
砂漠の青年は、覚悟を決めてアスレンを振り返った。
「翡翠が誰かに属するとしたら、それは俺でもソレスでもない。そう」
シーヴはにやりとした。
「翡翠は、リ・ガンに属するものだ」
これが、〈鍵〉の意志だと――シーヴははっきり言った。
その、瞬間。
ぱあんっと何かが弾けるような感覚があった。
瞳を緑色に燃やした少年は躊躇うことなく取っ手にしがみつき、時機を逃すことなく扉を開け放った。
「アスレン!」
叫んで飛び込み――絶句する。目にするより前に気づいていたろうか。アスレンの封じていた場が破られたと同時に飛込んできた、彼の〈鍵〉の気配。彼がリ・ガンに力を――与えたのだ。
「シ」
砂漠の青年の姿に虚をつかれた、そのときには彼の身体は後方に吹き飛ばされていた。
「その程度の魔力で、よくも、我が術を」
アスレンの目に暗い怒りが灯った。シーヴはほとんど反射的に刀子を引き抜いてレンの王子に続けざまに放ったが、それらはアスレンに届く一ラクト以上前で炎と煙になって消えた。
それに歯がみしたシーヴははっとなって振り返る。その左腰の剣を抜いたファドックが、向かっていた卓を踏み越えようとしていた。青年は椅子を横倒して後方に飛び、そして知った。
再び部屋の外に追いやられた少年は、しかしふらつく足で可能な限りに素早く立ち上がると、両手を前に向けて差し出した。アスレンはリ・ガンの無造作な、しかし大きな力を払おうと言うかのように左手を振るい、その結果として――ファドックの攻撃範囲にその腕を収めたことになった。
駆け込みながらの一撃は、人の腕を切り落とすには重さが足りずとも、深く斬りつけるには充分だった。
アスレンは痛みよりも驚きに目を見開き、切り裂かれた白手袋からのぞく双頭の蛇が自身の血に塗れたことを知った。
「――ソレス!」
怒りに満ちた声はその魔力の支配下にあった男を一瞬押し、次の踏み込みを防いだ。
「惑わされるな!」
叫んだシーヴは残された刀子を再び投げ、その内の一本が炎を逃れてアスレンの頬をかすめるのを目にし、レンの王子に余裕がなくなってきたことに気づく。
「――ファドック様!」
「ファドック!」
ふたつの声に促されるまでもなく、躊躇いのない二撃目をファドックが振り下ろそうとした刹那。
――魔術師は、姿を消した。
「……クソッ、便利なもんだな」
「シーヴ殿」
呪いの言葉を吐く第三王子を振り返って、ファドックは声を出した。
「このまま、こちらでお待ち下さい」
「何?」
「すぐに戻ります。私は――彼を医務室へ」
そう言ったファドックの進み行く先には、崩れ落ちた少年の姿があった。シーヴはそれを確かに目にとめ、心臓が音を立てるのを感じた。
「それは」
誰だ、とシーヴが続ける前に、ファドックは部屋を出ると戸を静かに閉めた。
シーヴは半ば呆然とそれを見送る。
彼はその少年を知っているように思った。
しかし、思い当たる節はなかった。
それは彼が「エイル」を知らぬというもっともな事実に起因するのか、それともやはり彼の〈翡翠の娘〉の姿がその内に蘇ってはいなかった――せいだろうか。




