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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第2章

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05 偶然でしょうか

 ちらりと兵士に目をやると、見覚えはないが先の男でもない。

 学習をした少年は、いまや近衛隊長であると聞いた護衛騎士の名を出すことはせず、このところ忘れがちだった、かつて叩き込まれた礼儀作法を引っ張り出した。

 即ち、「以前に下厨房で働いていたエイルと申しますが、トルス料理長にお目にかかれないでしょうか」とばかりにやったのだ。

 となれば対応も暖かい。こういう取り次ぎのときのために控えている使用人が伝言を携えて厨房へ走れば、「戦」の合間の時間帯であったから、その返答も早い。

「――エイル! 本当にお前か、このクソ坊ずがっ」

 驚きと喜びを満面に浮かべて、料理長は自ら通用口までやってきた。

「トルス!」

 エイルもまたぱっと駆け寄って、差し出された右手に自身の右手を勢いよく打ちつける。ぱあんっといい音がした。

「何だ何だ、協会をクビになって、また俺様に雇ってくださいとでも言いにきたのか?」

 にやりと言う料理長に同じように笑い返す。

「俺としちゃそうしたいのも山々なんだけど、なかなか人生、思うようにいかなくってね」

「この野郎」

 頭をくしゃくしゃとやられた。文句を言おうかと思ったが、できなかった。

 と言うのも、エイルはこんなやり取りがどうにも懐かしくて嬉しくて、苦い顔をする「ふり」ができなかったのである。

 トルスに身分を保証されて、少年は城内へと足を踏み入れた。厨房の面子がみな会いたがっている、とトルスは彼を仕事場へ先導しながら、いたく当然の疑問を口にした。

「何か城に用があるのか?」

 用がないのにくるな、と言うことでは、無論ない。顔を見せにきた、という回答でもトルスは満足するだろう。

 だが、もちろん彼には会いたい――会うべき相手がいた。

「実はさ。俺、ファドック様にお会いしたいんだ。その、話をしなきゃならないことがあって」

 笑われるかと予測したエイルは、トルスの足がぴたりととまるのに、嫌な予感を覚えた。

「そいつはちいとばかり面倒だぞ」

 料理長は口調を変えずに言ったが、その目に浮かぶ懸念は隠しきれなかった。

「何が、さ」

 少年は鼓動が早まるのを感じながら問うた。トルスは下顎をかく。

「あいつが近衛隊長になった話は」

「聞いた」

 少年はうなずいた。

「忙しい、んだ?」

 その問いはうなり声で迎えられる。

「忙しい。確かにな。だがあいつは前から忙しかったさ。何ともこすっ(・・・)からく(・・・)調整してみせてたがね」

 その言いようにエイルはトルスらしさを感じて懐かしくなり、同時に次の展開が予測できるように思えて、笑みを浮かべることはできなかった。

「信じられるか、エイル。あいつが姫さんのもとに、一旬以上も平気で顔を出さんのなど」

「まさか!」

 エイルは即答したが、トルスは肩をすくめるだけだった。

「前から頑固な男じゃあったが、変な方向に磨きがかかってるみたいだなあ」

「どういう、意味だよ」

 少年の言葉に、トルスはまたうなった。

「姫さんの婚約については?――そうか、それも聞いたか。まあ、あいつはもちろんシュアラ様に懸想して云々、って言うんじゃないが、それでもな。護衛騎士としてやってきた十年……十五年近くなるのか? それが根底からひっくり返されるってのは、まあ、その、何だ。『誰にでも誠実でお優しいファドック・ソレス様』の仮面を保ち続けるのもきついってなとこなんだろうが、ううむ」

 何とも曖昧なトルスの言い様は、そうして無理矢理に理由をつけてみても本当は彼自身、友人の態度に納得していないことを物語っていた。

「何か、あったのか?」

 エイルは心配になって――ずっと、心配し続けているのだが――問うた。トルスは天を仰ぐ。

「何かあったって? 何もないさ。同時に、いろいろありすぎる」

「そんな答えじゃ訳が判んないよ」

 少年は抗議をした。トルスはにやりとするが、その笑みには複雑なものが混じっているようだった。

「お前なら、どうにかできるかもな、坊ず。ブロックに言って、あの馬鹿近衛隊長に伝言を送っておこう」

 ふと、何かが引っかかった。

 だがそれが何なのかは掴みきれぬまま、エイルは聞き覚えのない名について問う。

 そして、ファドックが使用人を使っていること、下厨房にも姿を現さず、トルスもろくに顔を見ていないことを聞き、心に暗い影が落ちるのを覚えたのだった。


 礼儀正しく叩かれる戸の音は、その外にいるのが誰であるのかもはや部屋の主には判るようになっていた。

 許可を出すようにひとつうなずくと、初老の執務官は仕方がなさそうにそれを開けにいく。マルドはこの新しい客人に対して何も悪い感情を持っていなかったが、それにかまける伯爵が執務をおろそかにするのは好まなかった。ただ、ゼレットは決して職務を放棄するような真似はしなかったから、これは執務官の杞憂(ゲルダ)であったが。

「お仕事中にすみません」

 クラーナはまずマルドにそう詫びた。丁寧にされれば、マルドは礼儀を重んじる方だったから、業務への心配はとりあえず脇に置いて青年を伯爵の執務室に招き入れる。

「どうした、クラーナ。珍しいではないか」

 ゼレットは意外そうに青年を見た。彼がわざわざ伯爵を執務室にまで訪れることは稀であったし、いまのように夕刻も近くなってくれば、彼が城下へ行って歌うことを好んでいると知っていたからだ。

「どこぞの酒場へでも行ったかと」

「行きますよ」

 背にした弦楽器(フラット)を指差して、クラーナは言った。

「その前に、閣下にお願いが」

「何だ」

 ゼレットは身を乗り出した。

「俺に、お前の歌を聞いてほしいと?」

「僕は、いつ何時、誰にだって聞いてほしいですよ」

 クラーナは真顔で言った。

「でも生憎と、お誘いではないんですね」

「何と」

 ゼレットは肩をすくめた。

「惜しいことだ」

 彼は、エイル少年相手のときのようにはこの吟遊詩人にちょっかいをかけることはなかったが、この程度のやりとりは伯爵閣下にとっては挨拶のようなものである。

「では」

「教えていただきたいと思いまして」

 クラーナは澄ました顔で続けた。

「カンベル家の場所を」

 ゼレットの目が細められる。

「――ほう」

「確認したいことがあるんですよ」

「先にそれが何なのかを聞かせてもらおうか?」

 ゼレットの言葉にクラーナは肩をすくめた。

「閣下には関わりのないことです。お耳に入れるようなことでも」

「そう言うな」

 ゼレットはまっすぐにクラーナを見た。

「関わりがあるかどうかは、俺が決める」

 声は決して強くはなかったが、その意志の強さを伝えるには充分だった。吟遊詩人は息を吐いた。

「どうやらまだ僕は、あなたを掴みきれていませんね。エイルやシーヴの扱い方なら、慣れてきたんだけど」

 クラーナが言うとゼレットはにやりとした。

「それは是非、ご教授いただきたいものだ」

「やりませんよ」

 彼らに恨まれるのはご免です、などと言ったクラーナは、かちゃりと戸の閉まる音をきいた。見れば、マルドが黙って姿を消している。

「申し訳なかったか、な?」

「魔術だのサズ(・・)だの話には関わりたくないのだろう」

 気にするな、とゼレットは言った。クラーナは曖昧にうなずいた。

 クラーナはサズに関わる話を大まかに聞いただけであったが、それでもその名がカーディル城に落とした影についてはよく理解していた。

「それで、何を確認する」

「――カーディルの青年とレンの王族の娘の恋物語について」

 クラーナは弦楽器をつま弾く真似をした。

「もちろん、歌の題材になるような劇的な物語があるとは思っていませんよ。ただ、気になるんです。……何故、レンはカーディルの翡翠について知ったと思いますか」

 ゼレットは片眉を上げた。

「王妹殿下……当時は王女かもしらんが、とにかくその女がうちの若者をたぶらかして、俺の爺様から彼の父親に伝わる話を聞いたからではないのか」

「それは、偶然でしょうか」

 クラーナは言った。ゼレットは眉をひそめる。

「何」

「彼女がサズの父と巡り会ったのは、偶々かもしれない。でも、いったい彼女は何のためにカーディルへきたのです?」

「……エイルもそれを気にしておったな」

 彼は首を振った。

「だが、我が家系に翡翠に関わる話以外、魔術師が好みそうな伝承はないぞ」

「判りません。でも何かがある、それともあったんです。レンの興味を引くようなことが」

 クラーナは考えるように黙った。

「しかし、俺が知る話と言えば、翡翠と」

 ゼレットは繰り返した。

「そのほかにはお前と――その〈鍵〉の話だけだ」

 レンが翡翠を狙いだしたのはこの年になってからである、という見解にはクラーナも賛同していた。翡翠に関わる話ではないようだと。

「判りません」

 クラーナはまた言った。

「だから、聞きに行きたいんです」

 吟遊詩人が肩をすくめてまとめると、ゼレットはにやりとした。

「成程」

 言うとゼレットは立ち上がる。

「ではご案内するとしよう、吟遊詩人殿(セル・フィエテ)

 クラーナはゼレットの行動と台詞に片眉を上げたが、エイルのように「誘ってないと言ってるでしょうが」とは言わず、従者のように「伯爵閣下」に礼をしてみせた。


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