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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第1章

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10 こんなことで死なれては

 がちゃん、と陶器の割れる音がした。

 倒れこむまいと飾り棚に支えを求めた腕が、花瓶を床に落下させたのだ。

 その、予想以上に強い反応に、アスレンは――珍しくも――驚いた顔をしていた。

 アスレンを室内に認めたファドックが、「レンの第一王子」に対する丁寧な礼をとったあと――術を解いてやれば、男の目がまたも怒りに燃えて彼を見る、そのはずだった。

 だからレンの青年は、ファドックがまるで背後から大きな石で殴られたかのようにぐらりと身体をふらつかせたのを見て――驚いたのである。

 ファドックは視界が真っ赤になるのを覚えていた。瞬時に戻る感情はあまりにも強く、彼の内で爆発するかのようだった。花瓶が割れたことにも――もしかしたら、すぐ近くにアスレンの姿があることにも、気づいていないかのようだった。

 岩肌を削り取るほどの勢いで岸壁に打ちつける波の如く、彼の内にそれらが蘇った。

 アスレンに術をかけられて以来、彼が為してきた様々な判断と行動――感情を排すれば、どこにも間違ったところなどない――が、どれだけ彼の周辺を戸惑わせ、不審を覚えさせ、哀しませ、そして傷つけたか。

お帰り(・・・)、ソレス」

 冷ややかな声に怒りを覚えることも、彼にはできなかった。立っているのが精一杯であるかのように、彼は卓に手をついた。

「此度はずいぶんと、余裕がなさそうだな」

 アスレンは一(リア)の驚きを鎮めると、ファドックをそう評した。

「我に怒りを向けることもできぬようだ」

 その声がファドックに届き、その嘲弄が心に伝わるまではずいぶんと時間がかかった。すぐさま伝わったところで、確かに彼はアスレンに怒りをぶつける前に、疲労感と悔恨で――自身に押しつぶされそうになっていることに変わりはない。

「このような術で死んだ者がいると聞いたことはないが」

 アスレンは淡々と言った。

「お前は最初のひとりになれるやもしれんな、ソレス」

 ファドックはその言葉を聞いていなかった。耳に、届かなかった。

 身体が重い。

 まるで鉄球を乗せられているが如く。

 それでも、もし現実の重みならばどうとでも対処ができよう。

 これは、違う。

 どんな屈強な戦士も、夢魔を叩き切ることができないのと同じ。

 幻の重石を肩から取り去ることは、できない。

「何か言ったら、どうだ」

 王子は感情のこもらない声で言った。

「ソレス」

 アスレンはその名を呼んだ。

「そこまで……つらいものか?」

 何かの色が、その声に混じった。

「自分のために他人が傷つくと言うことは、そこまでつらいものか、ソレス? それも、誰ひとり、身体が傷ついたものはないと言うに?」

 ファドックは答えず――答えられず、アスレンは続ける。

「俺にはよく判らぬようだ。俺はお前が判らぬ。だから知りたいと思うのか――知りたくない故にその黒い瞳を濁らせたみたくなるのか」

 アスレンは、肩で息をしながら懸命に呼吸を整えようとするファドックをじっと見た。

「俺はまだ、お前に入り口を見せただけに過ぎないのに、もうお前はそうして崩れ落ちてしまうのか? 俺はお前を買いかぶりすぎているのか? それとも」

 言葉はそこでとめられ、続きは発せられなかった。

「ソレス」

 ファドックは、その声が近くなったのに気づいた。すぐ、真横に気配があるのが判った。だがファドックの重い身体は視線をそこに向けるだけのことすら、尋常ではない労力と時間を必要とした。

 だから、彼はアスレンがその白い手袋を外すのを見なかった。彼に見えたのは、双頭の蛇を飼う左手が、真横からすっと彼の右手に向けて――伸ばされた、こと。

 瞬時に、重量感は跳ね飛んだ。

 彼はほとんど何も考えることなく、反射的に右手をあげてその手首を掴んだのだ。剣など持ったこともなさそうな、白く美しく、禍々しい絵が刻まれた腕を。

 正直――掴むことができるとは、思わなかった。

 あの日、人気のない小路で、王子は三度(みたび)彼の腕をかわした。

 このときも同じだろうと思った。いや、そのようなことを考える前に身体は動き、触れたあとで気づいたのだ。

 その驚きと、微かに覚えた既視感は、彼の次の行動をほんのわずか、まばたきひとつの間だけ、遅らせた。だが、レンの王子にはそれだけあれば充分だった。

 ぱん、と小さな破裂音のようなものがして、ファドックはその右手を跳ね上げさせられた。火で炙られたかのような熱を掌に覚えたが、苦痛は感じなかった。それよりも重いものが彼を苛み続けていたから。

「驚いたな」

 王子は、今度はその思いを口にした。

「お前がいつも俺の期待を裏切ることは判っているが」

 ゆっくりと続ける。

「いつも、俺の予想をも裏切るのだな」

「何を……」

 ファドックはようよう、声を出すことができた。

「……言っている……」

「何。ただの戯れ言だ」

 アスレンは肩をすくめた。

「――ロジェス閣下に……何を吹き込んだ」

「ロジェス?」

 アスレンは繰り返すように言って、くっと笑った。

「ああ、次期王陛下か。言っておくが我はあやつには何も関わっておらん。下手な勘繰りは止せ」

「お前の言葉を簡単に信じると、思うか」

 ファドックは食いしばった歯の間からようよう、言葉を発する。身体を締め付けるほどの自責の念は消えずとも、アスレンの術下にあった彼に刺した唯一の光――翡翠(ヴィエル)に関わるロジェスとのやりとりを考えることは、彼に少しだけ力を与えるようだった。

「思わぬが」

 アスレンはファドックの思いの内に気づくのかそうでないのか、ただ肩をすくめた。

「ならば、我に何かを尋ねるような真似はせぬことだな。還ってくる答えをはなから疑ってかかると言うのでは、問う方も答える方も時間の無駄にしかならぬ」

 ファドックはアスレンの言葉とその口調を計るように押し黙った。アスレンがファドックにいまさらそのような嘘をついても、何にもならぬようにも思う。だがアスレン以外に、翡翠と彼との関わりを知る者がアーレイドにあろうか? アスレンが何を言おうと、彼の内には確信があった。こうしてレンの第一王子が〈守護者〉を翻弄する理由はひとつ。

 霞む視界をどうにかしようときつく目を閉じると、またも身体が重くなった。ファドックはそのような様子を見せまいと懸命に両足を踏ん張るが、彼を凝視するふたつの薄灰色の瞳はそれを見逃さなかった。

「――余所にかまけて、お前を放っておき過ぎたかな。こんなに簡単に、お前が限界に近くなるとは思わなんだ」

 まるでファドックを気遣うかのように、アスレンは言った。

「もう少し、気をつけてやるべきだったか。こんなことで死なれては、面白くない」

 アスレンの左手が再びファドックに伸びた。彼はそれを振り払おうとしたが、のろのろとした動きはそれを果たせず、彼は右の手指をレンの王子に掴まれた。その温もりに、ぞっとするような嫌悪が走る。いっそ、氷のように冷たければさもあろうと思うのに――アスレンが血肉を備えた人間だと示すその体温は、彼にとって、却って不気味すらあった。

「罵声であろうと嘆願であろうと、口にするにはいまひとつ体力が必要だな」

 その言葉とともにふっと身体が軽くなったように思った。どんな術を使ったのだとしても、まるで血のなかに墨を入れられたような気分になったファドックは、しかしどれくらい動けるようになったものか不確かなままで、ばっと右手を引くとそこを掴んだままでいたアスレンの上体を前のめりにさせた。と同時に王子の腕を左手で再び掴み返し、利き腕を自由にさせる。そして次の瞬間に苦痛に顔を歪ませるのは――ファドック・ソレスの方となる。

 アスレンを捕らえた左掌が燃えるように熱くなった。だが、その腕を放せと言う本能の指令を懸命に無視して、ファドックはそのまま王子の左肘を掴んで捻り下ろそうとした。と、まるでよく熱した鉄板に触れでもしたような激痛が彼の右掌をも襲う。

 手を離そうとする反射に無理に抗おうとしたが、不意に足下をすくわれたかのように、均衡が崩れる。彼の身体はそのまま、見えぬ手でぐいと後方に押しやられた。

「無駄なことは承知であろう」

 アスレンはそう言って、放された左腕を払うようにすると嘆息をした。

「無論」

 ファドックは低く言った。

「承知」

 そう言った男の手が短剣に伸びるのを見たアスレンはまた息をつく。同じことを繰り返すのは面白くない、と言うようなことを言おうとした彼の目がすっと細められるのを見たファドックは、その手を止めた。

 いや、彼の手を止めたのは目に入ったものだけではない。

 耳にも――届いたのだ。小さな手が戸を叩く音。

「お掃除に、まいりました」

 アスレンの唇の両端が上がった。

「まずはそこな花瓶を片づけさせるがよい、隊長(キアル)

 その声音に含まれたものは、何だったであろうか。

「誘惑に折れて、可愛らしい掃除娘を破片の上に横たわらせる羽目になる前にな」

 ファドックが短剣を引き抜いたときには、アスレンの耳障りな忍び笑いだけが――部屋に残っていた。


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