01 探しにきたの
少年の眠りは健全なもので、彼はこの夜、夢も見ない熟睡をした。
それとも、夢は訪れていたのに彼はそれを覚えていないだけだったかもしれない。
翡翠の宮殿。
何かに近づいた。
そしてまた、判らなくなった。
何を予言され、何が成就し、それとも成就しようとしているのか?
翡翠の宮殿。
ふたつの心。
もうひとつの――心?
(ああ……よく寝たな)
いつも通りの時刻に起床して、少年は伸びをする。
太陽が明るい。夏を迎えようとするアーレイドの、何とも爽やかな朝だ。
(今日は忙しくなるって言ったっけ)
(歓迎だね、要らんことを考えずに済むや)
昼前から夕刻の仕込をしていれば、食堂の方にもその雰囲気やら匂いやらは伝わる。どうやら、ささやかなる宴会が行われるらしい、という話は太陽が天頂に上がる前に全使用人に行き渡っていた。
この日、たいていの者は宵に一刻からそれ以上の休みをもらうことができていた。必ずしも使用人全員が昨日の夜会に関わった訳ではないが、主人たちの方は関わっている。つまりこれは、使用人たちへの寛大なる処遇であると同時に、主人らの、いつもより一刻からそれ以上早く休もうという魂胆にもよった。
正直なところを言えば彼らが楽しみに待つそれは、「宴」などと言えるものにはほど遠く、普段の食事が少し豪勢になるくらいのものだ。普段は一杯だけのライファム酒が三杯まで許され、給金から引かれることを承諾すればそれ以上の酒も許される習わしだったが、誰もが翌朝にはぴしっとして仕事に戻らなければならないことを判っているから、そうそう飲んだくれることもない。
これはまさしく、ちょっとした息抜きだった。
「俺にゃ、きついなあ」
裏の倉庫から芋の箱をとってこい、と命じられたエイル少年は、夕闇に落ちつつあるアーレイド城の裏庭で息をつく。厨房の熱気から逃れてくると、すっかり暖かくなった初夏の宵でも涼しく思え、心地よい。
半日がかりの煮込み料理はほぼ完成し、あとは昨晩トルスが急いで手配した焼き立ての麺麭が届けられるのを待つばかりだ。
少しずつ「客人」たちも集まってきて、今日は食堂が満杯になるだろう。こうして一時に集まれば座りきれないことは判っているから、今日は特別に、隣接した裏庭にまで椅子や卓が持ち出されている。エイルが出てきた裏口からは少し離れているが、それでも普段よりも外が賑やかなのが判った。
少年は、何となくそちらへ参加したいようなむずむずした思いを覚える。おそらく、トルスもほかの調理人たちも、エイルがそうしたいといえば彼を好きにさせてくれるだろう。だが、新米であること、或いは「特殊な位置にいること」に甘えて仕事を放り出すのは彼の自尊心に関わった。エイルは頭を振ると、倉庫の方に視線を戻した。
(――お?)
(誰か、いる?)
太陽はすっかり姿を隠し、夜の女神が辺りを覆う。誰かがいるようだが、よく見えない。
そろそろ外灯に火を入れなければ足元も見えなくなってくる時間帯だが、それを仕事にする使用人がここへ回ってくるには表の「野営地」を通らねばならず、そうなると間違いなく足止めを食らうだろう。台所から火を持ってきて、入れた方が早いかもしれない。
「誰かいんのか?」
そんなことを考えながら声をかけた。薄闇に覆われたその影は、まるでエイルが山賊か何かでもあるように、びくりとする。
「んなとこで何」
「――エイル」
少年は――口をあんぐりと開けた。
そこに立っていたのが、街の少女リターだったとしても、それとも、若い頃の母が幻影で現れたのだとしても、彼はこれほど驚くまい。
「シュ――シュアラ!」
あまりの驚きに、敬称をつけることを忘れた。
だが少女はむっとする様子は見せず、無礼だとも言わなかった。その様子はずいぶんとおどおどとしていて、まるで小さな村しか知らぬ娘が、いきなり豪奢な城へ連れてこられて驚いているような――実際には、その逆さまと言うことになるだろうが――態度である。
「……よかった、それじゃここで合っていたのね。私、こんなところへくるのは初めてだから」
「ちょちょ、ちょっと。ここへ? こんなとこへわざわざきたんすか? 何か間違えちゃいません? 迷ったってんなら部屋へ送ってやってもいい――」
驚いたままの頭で言って、失敗したと思った。レイジュから受けた教育が、水の泡だ。
「ああ、もう、いいや」
エイルは呟いた。
「ファドック様ならこっちじゃ見てませんぜ」
「誰がファドックを探しにきたと言ったのよ。私はお前を探してきたの!」
「何で、また」
叱責だか文句だかを言うのに、次の面会まで待ちきれなかったとでも言うのだろうか。
「……ファドック様は?」
「いないと言ったのはお前でしょう」
「ちょいっ、護衛騎士がそんなことでいいのかよっ。姫さんをひとりで……ファドック様らしくないっ」
「だって、私は何も言わずにきたのだもの。ファドックはほかの仕事をしているのでしょう。侍女は下がらせたし、今日は近衛の者たちの交替が遅れたのよ」
だから誰も気づかなかったんだわ、と姫君は満足そうに言い、エイルは呆然としながら、そうか、あれのせいで浮かれた兵士がいた訳か、と賑わいの方に目をやる。
使用人たちのささやかな宴に便乗しようと言う兵士はいなかったが――と言うのも、兵の方が給金も待遇も、休暇にも恵まれているのだから――兵士のなかには、侍女や下働きの娘を恋人に持つ者もいる。となればこのような小さな祭りの日は格好の逢い引きの機会でもある。そんな訳で若い兵士が姫君の部屋に詰める時間を少しばかり早めに切り上げた、というところなのだろう。
エイルはそれを咎める気にはならないし、そんな立場でもなかったが、問題は――シュアラがわざわざその隙を狙って、出てきたということだ。
「俺を探して、だって? 何で、俺がここにいるって?」
「ヴァリンに聞いたわ」
こともなげにシュアラは言う。
「ヴァリンのおばちゃんが、シュアラをひとりで俺のところにやるとも思えないけどな?」
「おばちゃ……?」
「おばサマとでも言えばいいかい」
「まあ」
エイルがにやりとして言うと、シュアラは少年の聞き慣れた感嘆詞――呆れた感のあるそれを口にするが、そのあとに憤然とした言葉は続かなかった。
「言ったでしょう、誰も気づかなかったと。ヴァリンは知らないわ。まさか私が部屋を出るなんて思っていないのでしょうし、近衛だって――ファドックだって同じよ。これまでこんなこと、したことはないもの」
「なら、何で」
エイルはまた同じ台詞を繰り返した。
「言ったでしょう、お前を探しにきたの」
シュアラも同じように繰り返し、何度言わせるの、とようやく不満そうに言った。
「昨日……私が声をかけるのも待たずに、いつの間にか姿を消したでしょう。夕餉の時も顔色を悪くして下がったようだったし……どうしたのかと、思ったのよ」
「それって」
エイルは呆然として言う。
「心配したんすか、俺を?」
「そうよ」
どんな否定の言葉が返ってくるかと思いながら尋ねたエイルは、あっさりとした肯定にがくりとなる。
「何で、また」
芸のない同じ言葉の連続となるが、エイルとしては不思議で仕方がない。
「何を言っているの」
お得意の台詞が出たが、少年をむっとさせるつんとした感じは見られない。
「お前の様子がおかしければ、私が気にするのは当然でしょう」
「王女殿下の務めですかい?」
「そうよ」
皮肉のつもりの台詞は、またもあっさりと肯定された。
「その前は……お前らしくない話し振りだったでしょう。それも、気になっていたの。今日は違うようね」
言うと、王女は笑った。その笑みは安堵のもののようで、少年は少し複雑な気分になる。彼はシュアラに軽い仕返しをしたつもりだったのに、それは少女を「心配」させたと?




