09 謝ってなんかほしくないよ
休むと言っても、リ・ガンは眠らない。
確かに横になればエイルの身体は楽になったが、隣室でクラーナがしているように夢の世界には訪問できない身である。
悪夢は見ないで済むが、不安と苛々ばかりが募るくらいならば、悪夢の方が余程ましと言うものだ。
〈宮殿〉で見続けた夢の数々を思い出した。穏やかで幸せな夢は記憶を去り、鼓動を激しくさせるものばかりが残っているというのは、何だか理不尽だ。
だが思い返してみれば――あれは全て、彼自身の不安が現れたものであったように考えられる。同時にそれが現実であったことはただの偶然、「嫌な予感が当たった」という程度のもののようにも思えた。
エイルは寝返りを打った。そんなことを思い出していても何にもならない。考えるべきは、これからのことだ。
クラーナの前にカティーラは姿を現すだろうか。彼は隠されし〈翡翠〉を解放できるだろうか。そうして魔力で隠されていた翡翠に対しても、アーレイドのときと同じように目覚めさせることができるだろうか。
アーレイドのときと同じように――アスレンに見られはしないだろうか。
(見られたからって、何だ)
少年は強気にも、そう考えることにした。
(あいつに見られたからって、俺のやることに変わりはない。翡翠を呼び起こし、この城に集まったものを払って、再び正しい眠りに戻すんだ)
彼にはその力がある。そのはずだ。
(見たけりゃ、見てればいいさ。邪魔はさせるもんか)
心を決めれば力が出てきたように思ったが、ふと思い返せばどうしても気になるのが〈鍵〉のことである。シーヴに魔力の靄がかけられていることなど彼は知らない。だが、スケイズがクラーナをここへ寄越したのだとしたら、同時にレンの手がシーヴに迫っていても何の不思議でもないと、知らないままで事実に思い至っていた。
彼がいまでもリ・ガンである以上、〈鍵〉が生きていることは間違いない。それは判っていた。
だが、もしレンに捕らえられてでもいれば――。
エイルは、「エイラ」がレンに攫われたと知ったシーヴが彼の知る数少ない手がかりであるとして〈翡翠の宮殿〉と〈魔術都市〉に向けてすぐに旅立ったという話を思い出した。
しかし彼にはそれができない。レンに捕らえられているという確証がないこともあるが、何より翡翠が彼を留めるのだ。シーヴが翡翠よりも強く「エイラ」を呼ばない限り、彼――でも彼女でも――はこの地を離れられないだろう。
(そうだ、翡翠が先決さ)
エイルは思った。
(こいつにさえ片が付けば、シーヴを探して……〈時〉の月にまたここと、アーレイドへ戻)
ずん、とまた胸が痛んだ。少年は声を殺して痛みを堪える。
〈鍵〉は見つからない。だが、生きている。
ならばアーレイドとファドックを思ったときに訪れるこの痛みは――西の〈守護者〉がいない、と言うことにはならないだろうか?
(――まさか)
浮かんだ不吉な考えを振り払おうと、少年は固く目を閉じた。
(まさか。大丈夫だ。あの人は、心配は要らないって言った。戻れば俺と翡翠が危ないと、そう言ったんだ)
(無駄な心配はよそう。きっと平気だ、ファドック様は)
大丈夫。心配は要らない。呪文のように唱えた。護衛騎士とのつながりは、やはり感じられなかった。
「――馬鹿か、俺は!」
エイルは叫んで、飛び起きた。
(ファドック様が――自分が危険にあると言うはずがないじゃないか!)
(護衛騎士にして〈守護者〉。シュアラと翡翠だけ守ってりゃいいってのに、あの人は何でもかんでも守ろうとするに決まってる)
(自分……以外は)
その閃きは全身から血の気を失わせた。
(まさか)
いますぐアーレイドへ飛んでゆきたい。幸か不幸か彼にはその力がなく、同時に、やはりカーディルの翡翠に留められている。
気が焦った。早く、ここの翡翠を目覚めさせなければ。彼を留める力を解放しなければ。
だが、彼には何もできない。クラーナの協力を待つしか、いまの彼にできることはないのだ。
(――エイル!)
ばっと少年は寝台から飛び降りた。感じかけた目眩は無理矢理に無視をする。
「後輩」の苦悩を感じ取ったかのように時機を得て聞こえたクラーナの声に、少年は扉まで走るようにたどり着くと乱暴にそれを開けた。隣室を見れば、その戸は――開いている。
「クラ」
「しっ」
飛び込んで叫びかけた少年は、鋭い制止の声を食らう。それに違和感を覚えた理由は、すぐには判らなかった。
「――カティーラ」
見れば、寝台に腰かけたクラーナは女性の姿をしており、先に少年が腰かけていた椅子には、ちょこんと乗る白猫の姿があった。
この大当たりに少年は少し複雑なものを覚えたが、すぐにそれは忘れることにする。自分が為せなかったことを他者が簡単に成し遂げたことに対する子供じみた嫉妬など、状況を打破できる喜びに比べたらあまりにもくだらないし、ちっぽけだ。
「当たり、だよ、エイル」
クラーナは少年の心を読みとったかのように、いつもより高い声で言った。
「思った通り、オルエンの仕業さ。何が魔力を失った魔術師、だ。言うに事欠いて。六十年も平気で保つような術を使いやがって」
クラーナは白猫を見ながら、見えぬ誰か――オルエンに話しかけるように言った。
「これが僕らを……彼をどんなに混乱させたか判ってるのかい? 謝ってなんかほしくないよ、君の謝罪には誠意がないもの」
誠意がなくて悪かったな――という、エイルの知らない男の声が聞こえたような気がした。
エイルは眩しい光を堪えるかのように目を細めて、片手をかざした。
そこに現れ出たのは光ではなく、彼の知らぬ魔力だった。
その波動、その流れ、その力が一陣の強風のように彼を襲い、部屋が――城が一瞬、揺れたように思った。
だが実際にはどんな振動も起きてはいない。
部屋は変わらず静かで、猫が跳んで逃げるようなこともない。
エイルはゆっくりと手を下ろした。
「……オルエン」
「……クラーナ?」
少年はそっと声をかけた。
「大丈夫か?」
「エイル」
クラーナは驚いたように少年を見た。まるで、彼がそこにいることを忘れていたかのように。
彼はそうっとクラーナとカティーラの方へと歩を進めた。振り返った猫は、ニャ、と短く一声鳴いた。慌てて彼から逃げ去ろうとする様子はなかった。
「困った爺さんが、迷惑をかけたね。……はい」
先代のリ・ガンは自身の〈鍵〉であった男をそう表現すると、現在のリ・ガンに右手を差し伸べた。その上に――濃緑の翡翠輝石をおいて。
「これが……カーディルの翡翠」
少年はおそるおそるそれを受け取って、じっと見つめた。
生まれたての赤ん坊の握りこぶしほどの大きさをしたそれは、しかし宝玉という響きから想像していた美しい曲線を持ってはいなかった。
緑色に発色した、それは石だった。
削り取られたままの姿から年月を経て、かつて鋭かったであろう角は丸みを帯びている。それでもごつごつとした感触は残るままの、それは原石だった。
エイルはそれに魅入られたように石を見つめ続ける。アーレイドでは目にしなかった現実の〈翡翠〉は、彼の心を――いや、全身までも掴んだかのようだった。
絶対的な安堵感と自信。
まるで、かの〈宮殿〉にいるときのような。
「――エイル」
クラーナに声をかけられた少年ははっとなった。
「行くんだ。急いで。レンは、もう知ってる」
少年はうなずいた。踵を返すと部屋を飛び出て、彼は走り出す。
〈守護者〉の力を借りて、これを呼び起こすのだ。この城の〈守護者〉がどこにいるのかは、リ・ガンには探さなくとも判ることだった。
少年は急いだ。
レンは、もう知っている。――翡翠が現れたことを。
その軽い足音が走り去っていくのを聞きながら、クラーナは息を吐くと目を閉じた。
「まさか……でも、もしかしたら……」
彼女は小さく呟いた。
「エイル、もしかしたら……」
クラーナは目を開いて、ぼんやりと中空を見た。
椅子の上に座り込んでいた猫が、身体を伸ばしながら起きあがると床にぴょんと降りた。吟遊詩人はそれにはかまわなかった。
「オルエンは……生きているのかもしれない」
自分の発した言葉が誰かに聞かれでもしなかったかというように、彼女ははっとなって辺りを見回した。もちろん、そこには誰もおらず、クラーナは再び深く息を吐くと両手で顔を覆った。
隠された瞳の奥にあるのは、自身の思いへの困惑と、有り得ないはずのことへのわずかな期待、だっただろうか。




