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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第1章

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08 対極

 警戒をしながら寝台から降りた王子は、激しい頭痛が戻ってこないことを確認した。

 強張った身体をほぐすように手足を伸ばすと、右腕に痛みが走った。彼は顔をしかめて袖をめくる。汚れ出した包帯は、しかし浅黒い肌の上でその白さを十二分に目立たせた。ほどけかけているそれをそのままぐるぐると外して無造作に床に落とし、白い布の下の腕を見て、また顔をしかめた。

 彼の浅黒い肌にもはっきり判るほど、そこは紫色に色づいている。ヴォイドの言うように記憶を失うほどに酒を飲んだとは思わないが、この怪我に心当たりはなかった。思い出そうとすれば――霞がかかる。

「クソッ」

 彼は王子らしくない罵りの言葉を吐いた。

 魔術的なものを感じる。魔術をかけられたのだと思う。だが誰に、何のために。それが判らない。同時に知っていると思う。判っていると思う。それが思い出せないもどかしさに苛立った。

(俺に何があった?)

 こうしてヴォイドの家で目覚めるより前の記憶を思い出そうとすれば、鈍い痛みだけが返ってきた。はっきりした記憶は、彼がシャムレイを出てから少しの頃まで――ランドに出会う以前まで遡った。それから長く、密度の高い月日が流れたことは判っている。隣に誰かがいたことも――彼の〈翡翠の娘〉がいたことも判っている。それなのに――全ては思い出せない夢のようにぼやけていた。何とも気に入らぬ感覚に、呪いの言葉を続けざまに吐く。

 ぼんやりとした思いの数々は、彼に焦燥感を覚えさせ、同時に重い頭痛をもたらす。それを打ち破る力は、何の魔力も持たない彼には、ない。

 不意に感じた人の気配に、シーヴは反射的に腰に手をやった。そこに刀子はない。彼を寝かすのにヴォイドが外したのだろう。だが、武器を持たずとも警戒に燃えた黒い瞳の先には、若い召使いが驚いた顔をして立っていた。

「あの、殿下。風呂(ウォルス)の支度が整いました」

「ああ……そうか」

 彼は肩の力を抜いて答えると、判ったと言うように手を振った。びくついた召使いに悪いことをしたと思いながら、何をこんなに警戒しているのだろうと自身で訝った。

「案内を頼む」

「は」

 なるべく穏やかな口調で言うと、召使いもほっとしたように礼をする。召使いの少年を怖がらせたなどとヴォイドに知れたら、何を言われるか判ったものではない。

 彼は部屋を見回して、予想した通りに自身の装備一式が棚の上に置かれているのを見ると、それを持ってくるように指示をした。「シーヴ」ならば自分で持っていくが、「リャカラーダ」ならばそうしないものだ。使い分けている自覚は、彼にはなかったが。

 風呂場に着くと召使いは礼をして去ろうとし、彼は許可しようとして、ふとそれをとどめた。

「頼みがある。この類の」

 そう言って彼は自身の右袖をめくった。

「怪我にいい薬と包帯を用意してくれ。……ヴォイドには言うな」

 召使いは判りましたと礼をして――特に後半部分を判っておいてほしいとリャカラーダは望んだ――踵を返した。

 服を脱いで汚れを流し、熱い湯に浸かれば吐息がもれた。そうして自嘲をする。手の届くところに剣を置いている自分自身に向けて。

 この警戒の対象は判らない。だが同時に確信がある。彼には――敵がいる。

「クソッ」

 何度目になるか呪いの言葉を吐きながら、ぱしゃりと湯面を叩いた。それは乱された彼の記憶のように揺れる。

(こんなことなら――)

 何かを考えかけて、言葉が続かないことを忌々しく思う。こんなことなら吟遊詩人の忠告に従ってきちんとした神殿の護符とやらを手に入れておけばよかった――というところまでは後悔は続かず、従って、そんなものは役に立たなかったかもしれないが、という乾いた笑いも浮かばなかった。

 心は乱れたままでも身体はどうにかほぐれた。風呂を出た彼は新品の衣服が用意されているのを見る。ヴォイドには息子はいないし、まさか召使いのものを彼に着せる訳にもいかないだろうから、急いで用意されたであろうことは想像に難くない。

 質のよいそれは彼の身体にぴったりと合い、青年の心を少しだけ落ち着かせた。肌触りよく、湿度を逃す生地。植物を翻案したよく見る柄刺繍。――これは東国に属する、懐かしいものである。

「殿下」

 衣服の上に刀子と細剣を身につけ、まだ湿っている黒い短髪に布を当てていると、先の召使いが戻ってきた。

「お薬です」

「ああ」

 リャカラーダはひとつうなずいて召使いを招いた。袖をめくると、薬の蓋を開けた少年が慣れぬ手つきでそれを主人の主人に塗ろうとする。彼は苦笑をして、自分でやる、と言いだすのを堪えた。「リャカラーダ」ならば召使いにさせるべきだ――と言うよりも、彼が片手でそれをやるよりは、このようなことを全くしたことがなくとも両手の方がましだろうと考えたのだ。

 少年が覚束ない手つきでそれを終えると彼は上出来だと召使いを褒めて、ヴォイドに言わぬように再び釘を刺した。王子殿下の命令に少年は真剣に大きくうなずくと、思い出したように、お連れの方が戻っております、と彼に告げた。

「どこにいる?」

「中庭です、扉を出て左の突き当たりになります」

「判った」

 彼はそう言うと召使いを去らせ、もう一度黒い髪に手を当てて、これくらいならばまあよいだろう、と久しぶりの頭布(ソルゥ)を巻いた。戸を開けて言われた通りに進めば、シャムレイではある程度以上の家にはたいてい造られている、日当たりのよい中庭が姿を現す。

 彼が太陽(リィキア)の下に足を踏み出すと、その気配を感じたか、彼の「連れ」が振り返った。

「成程、砂漠の王子、か」

 頭布(ソルゥ)を見て面白そうにそう言った姿を彼は知らなかった。いや――知っているのだろうか?

 光のもとで透けるかのような白金髪。

 陶器のような白い顔。

 薄灰色の瞳は、珍しいものを見るように彼を上から下まで眺めた。

「息災そうだな、リャカラーダ」

 シャムレイの第三王子の対極にあるような姿をしたレンの第一王子はそう言って――唇の両端を上げた。

 名を呼ばれた彼の心臓は大きく音を立てた。彼はこの男を知らない。いや、知っている。同じ思考が巡る。

「――おかげさまでな」

 ようやく、それだけを返した。その声に隠された色を読みとって、アスレンは笑う。

「警戒しているな。私が誰だか、判らないのか?」

 もちろんアスレンはシーヴが陥っている状態を知っており、彼らが初めて顔を合わせたことも知っている。アスレンはシーヴを惑わすつもりではなかった。それはただの、皮肉だった。

「判らんね」

 シーヴは認めた。

「だが、判っているとも――思うが」

「さもあろう」

 アスレンはうなずいた。

「お前は知っている。私の名を」

 シーヴは目を細めた。霧がかった記憶のなかに手を突っ込んで、彼はその名を探した。

「――アスレン」

正解だ(アレイス)

 〈魔術都市〉の王子は感心したように少し目を見開くと、わざとらしく手を数度叩いた。

「大したものだな。魔力も持たぬのに。褒めてやろう」

「そいつは、有難うよ」

 シーヴもまた、自身が確信を持ってその名を発したことにいささかの驚きを覚えていたが、それは見せなかった。

 だが同時に、その名が意味するところは判らなかった。それがレンの第一王子にして、彼の――彼らの敵の名であることは、混合酒のようにかき回された彼の頭では、判別できなかった。ただ、これが――彼の連れ――でないことだけは、間違いないように思ったが。

「気分はどうだ、リャカラーダ」

「最上とはいかんようだ」

「何か、物足りないと?」

 アスレンは首をかしげてシーヴの心を代弁した。シーヴは無反応のままでいたが、それを肯定と取ったアスレンは続ける。

「俺がそれを与えてやろうか」

「……何を知っている」

「全てを」

 警戒するシーヴに、アスレンは簡潔に答えた。

「では」

 シーヴは言った。

「お前の望みは?」

 その問いに、アスレンの目は面白そうに細められた。

「お前はそれも、知っているはずだ」

 レンの王子は言った。

「確かなところは、知らんようだ」

 シーヴは肩をすくめた。

「ただ、俺の望みとは相容れない、ようだがね」

「面白いな」

 そう言いながらアスレンは、シーヴの方へとまっすぐに歩みを進めはじめた。砂漠の王子はぴくりとするが、そのまま作り物のような美しい青年を待つ。

「ろくに覚えておらぬくせに、そうやって俺に反抗する。不確かさと不安で全身が満たされているくせに、そうではないふりをする」

 アスレンはシーヴの目前で立ち止まった。二人の背はほぼ同じくらいであり、そうして並ぶと彼らはまるで〈ゾッフルの魔鏡〉に映したかのようだった。

 彼らは全く正反対で、とてもよく似ていた。砂漠で孤高に生きる黒き野生の貴猫(シャオキン)と、飼い主を下僕と見なす白長毛の、やはり貴猫のように。

 黒い髪と白金髪。浅黒い肌と真白い肌。警戒に満ちた黒い瞳と笑いを含む薄灰色の瞳。剣士と術師。動と静。炎と氷。

 それは対をなした。まるで、〈呪われし双子〉明星チェルと宵星ソムカのように。

「お前もまた、愚か者たちの仲間か」

「生憎と」

 シーヴはまっすぐにその瞳を見て言った。ふたつの視線は、間近でぶつかった。

「それは、言われ慣れてるな」

 アスレンは、挑発した訳ではない、と言うようにゆっくりと首を振った。

「お前の仕業か」

 シーヴは何についてか言おうとしなかったが、アスレンもそれを問い返そうとはしなかった。

「いや」

 ただ、アスレンはまた首を振った。

「断じて、私ではない。誓ってもよい」

 シーヴはその言葉に不審を覚えたが、特に反論は控えた。

「だが、知っているな」

「もちろん」

 アスレンは答えた。

「知っている。お前の混濁した記憶も、誰がお前にそうしたかも」

「誰だ」

「答えたところで、いまのお前には意味があるまい」

 言われたシーヴは口の端を上げた。確かに、記憶にない名前を教わったところで仕方がなかった。思い出せば、判ることだ。もし、思い出すことができれば。

「不安か」

 それを見て取ったかのようにアスレンは声を出した。

「治してやっても、よい」

「但し条件がある、と言うんだろう」

「それが何だと言うのだ?」

 アスレンは、ふっと笑った。

「当然の(ことわり)だ。私は聖人ではない。お前に何かを与えるのならば、その代わりに得るものがなくては」

「一方的に奪っておいて、返してほしければ(ラル)を出せと言うのか。それは〈損得の勘定〉に合わないな。ただの、性質(たち)の悪い盗賊(ガーラ)だ」

 もちろんシーヴは、目前の男が金など欲しがっていると思うのではない。彼が口にしたのはただのたとえであり――それよりもっとややこしいものを要求されることは予測がついていた。

「私が奪ったのではない、と言っているだろう」

 アスレンはそう、返した。

「だが取り戻してやることはできる。お前のために」

「〈夢魔の言葉は心地よい〉」

 シーヴは言った。

「俺のためじゃない、お前のためだろう」

「両方のためになるとも。それに」

 アスレンは続けた。

「お前の大事な女のためにも、なる」

「――何だと」

 ぱっと脳裏に閃く姿は、あまりにも曖昧だった。

「お前は『彼女』を守ろうとして、この状況に陥っているのだ」

「彼女」

 シーヴは記憶を探った。彼は知っている。彼の〈翡翠の娘〉。探し求め、巡り会い、そして掴みきれない、感情。

「そうだ」

 アスレンは言った。

「お前が俺に協力するのなら、俺は彼女を安全な場所へ留めておこう」

 〈鍵〉が翡翠をアスレンのものと認めるならば、抵抗の弱まるリ・ガンを陣につなぎとめておこう、というこの台詞の真実が砂漠の王子には伝わらないことを――もちろん、魔術師の王子は知っている。

「俺に手を貸すか、リャカラーダ」

 シーヴの瞳に迷いが生じた。

 目の前のこの男は危険だ。彼には、それは判っていた。

 だが彼の〈翡翠の娘〉への憂慮は、記憶のなかの姿が曖昧であっても大きく、その安全は、この状態にあってさえ彼の最優先事項であった。彼は、アスレンが示した安全が全くの逆を表すことを知らぬのだ。

 砂漠の青年の躊躇いを魔術師の青年は黙って面白そうに、見ていた。


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