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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第1章

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06 霞んだ世界

 ゆっくりと戻っていく視界は、しかしぼんやりとしていた。

 彼は何度も目をしばたたき、霞んだ世界と重い身体をどうにかしようとした。

「……ようやく、気づかれましたか」

 聞き覚えのある嘆息まじりの声に、彼の鼓動は跳ね上がった。

「――ヴォイド!?」

 シーヴは驚いて跳ね起きようとしたが、思うように動かぬ身体はふらつくだけである。彼はやはりため息混じりの第一侍従に身体を支えられる羽目になった。

「無事のご帰還、とは言い難いようですね。それに、ずいぶんとお早いではありませんか? あなたのことだから、たとえ用件がさっさと片付いても、今年の終わりまでふらふらと放浪を続けるだろうと思っておりましたのに。第一」

 シーヴ――リャカラーダは耳に届く言葉の意味を理解しようと意識しなければ、声がろくに頭に残らないことに気づいた。まだ、頭が痛い。

「城ではなく、私の家の前で倒れこんでいるというのはどういう了見なのです」

「……待て」

 彼はようよう、言った。

「何だと? それじゃここは……お前の家か?」

 呆然としながら彼はそう尋ねた。第一侍従はうなずく。

「あなたのご事情などに気を使って差し上げては、あなたを調子付かせるのではないかとも考えましたが」

 ヴォイドの顔はまだよく見えなかったが、顔をしかめていることは彼には簡単に想像がついた。

「わざわざここにこられたということは、城へ行かれたくないということなのでしょう。と言うことは、殿下はまだ帰ってこられたつもりではないということです。ならば、城の者には知られぬ方がよいと、そういうことなのでしょうね?」

「……そう、とうとうと述べるな。俺は頭が痛くて、お前の言っていることが半分も判らん」

「頭痛なんてなくても、同じでいらっしゃるでしょうよ」

 ヴォイドはずけずけと言った。リャカラーダは頭が痛いのに加え、侍従の台詞に耳が痛くもあって、目を閉じると額を押さえるようにした。

(何が――あった?)

 彼は自身に起きたことを思い返そうとした。

(クソ……よく、思い出せん)

 痛みともどかしさに顔をしかめた。彼に記憶にぼんやりと残るのは、女の声で何かを囁かれたことと、その身体の甘い香り。

「何をしに戻っていらしたのです」

 ヴォイドは非礼を詫びる仕草をしながら、主人に飲み物の杯を差し出した。東の地では、飲み物を勧めるのは地位階級が上の者の仕事である。

「ここがお前の家なら、お前が主人だろう」

 第三王子はそう言って臣下の謝罪を打ち消しながら杯を受け取り、続けた。

「何をしに……と言ったか」

「ええ」

 ヴォイドはうなずく。

「〈変異〉の年はいまだに終わっておらぬではありませんか。まさかとは思いますが、お心を入れ換えて馬鹿げた旅を終わらせるおつもりになったのなら、まっすぐご居城へ戻られればよいだけのこと」

 お得意のようにこっそり(・・・・)であっても――などと第一侍従はつけ加えた。

「それがだな、ヴォイド」

 リャカラーダは少しずつ治まってきた頭痛に、しかしまだ痛みを堪えるように目を細める。手にした杯の香り水はほどよく冷えており、その東の香りは彼を懐かしさで満たした。

 ふと、キイリア酒の風味を感じ取って彼は驚く。言われもしないのにヴォイドがこうして第三王子気に入りの杯を差し出してくるというのは――侍従は余程に安堵したか、喜んだか、案じたか。何にしても口で言うほどには、彼の突然の帰還――なのかどうかよく判らない事情――を苦々しく思ってはいないと言うことだ。

 それに気づいたリャカラーダは、言葉を続けることを躊躇った。だがヴォイドに促され、渋々と口を開く。

「それがだな、ヴォイド」

 彼は繰り返した。

「よく、判らんのだ」

「……では」

 侍従の声色に怒りはなかったものの、主人は臣下がそれを隠しているだけなのを知っていた。

「泥酔をされて、記憶のないまま、人の家の玄関前に転がっていたとでも言われるのですか?」

「酒に酔った訳ではない」

 リャカラーダは手を振って侍従の皮肉を打ち消してから、にやりとしてつけ加えた。

「覚えてはいないから、おそらくは、だが」

「……殿下」

 ヴォイドは諦めたように首を振り、持ったままだった盆を寝台の脇の棚に置いた。

「まだ頭痛がすると言うのなら、休んでいればよろしい。起き上がれるようでしたら、風呂(ウォルス)の支度をさせましょう」

 生憎と我が家に風呂付きの召使いはおりませんが、とヴォイドは続けた。風呂は歓迎だが女は要らん、とリャカラーダは手を振る。侍従は少し意外そうに眉を上げ、余程飲んだのだろうとでも思ったか、また顔をしかめた。

「空腹でいらっしゃるなら、何か持ってまいりますが?」

「ああ、いや、それも要らないようだ」

 リャカラーダは深く息を吐いて、頭の後ろに両手をやると首筋を伸ばすようにした。頭痛は、だいぶよい。

「ヴォイド、俺は……本当に、お前の家の前に?」

「ええ。何のたとえでも、大げさな物言いでもございません。文字通り、我が家の玄関の前に、放り出されるように。見つけたのが私でなければ、どこの酔漢かと思われて、通りに捨てられてもいたし方ありませんよ。それどころか、少しおかしな者に見つかれば、身包みを剥がれたついでに殺されていても」

「判った、判った」

 余計な確認をして〈蜂の巣の下で踊る〉真似をした、とリャカラーダは降参するように手を上げた。

「全く、こんな王子殿下にお仕えできて私は幸せです。いったいいつ、シャムレイにお戻りになったのですか。昨夜、以外の返答でしたらただではおきませんよ」

「それがな、ヴォイド」

 リャカラーダはまた言って肩をすくめた。

「判らんのだ」

 王子の繰り返しにヴォイドは嘆息した。

「何でもお好きなことを言っていなさい。そういう態度を取られるのなら、私はもうリャカラーダ様にご説明をいただくことは期待いたしません」

「恍けている訳では、ないのだが」

 王子は苦笑した。

「俺も説明をしてほしいくらいなのだ」

「では、説明していただきましょう」

 ヴォイドの言葉にリャカラーダは片眉を上げた。

「何だと?」

「お連れの方にお話を伺いましょうと言っているのです」

「――連れ(・・)?」

 リャカラーダは片目を細めた。

「誰だ?」

 疑うようなその口調に、ヴォイドは口を曲げた。

「それが誰かも判らないくらい、飲まれたのですか」

 全く情けない、と侍従は首を振った。

「そうではないのだ、と言ったろう」

 返しながらリャカラーダは――警戒を覚えていた。

「この辺りではあまり見かけない、白い肌の若者ですよ。西の者であることは間違いないでしょう。礼儀正しく、姿を消したあなたを追ってきたと言うので部屋に通しましたが、何か用があると言って先ほど出ていきました。少しすれば戻ってくるでしょう」

「西の若者」

 リャカラーダは繰り返した。少し考えるようにして、息をつく。脳裏にひとりの吟遊詩人の姿が浮かんだ。彼は首を振る。

判らん(・・・)――な」

 呟く主人にまた肩をすくめ、第一侍従は休むよう、言った。リャカラーダはそれに従うことにする。

 霞みがかった記憶と甘い芳香は、彼を捕まえたままだった。


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