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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 第1章

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04 お礼をしたくて

 取り立てて、噂になってはいなかった。

 と言うのも、それに気づくとすれば少年ブロックくらいであったが、彼は邪推をして言いふらすような性分ではなかったからだ。

 だから、その掃除娘が近衛隊長の部屋に仕事に行くときだけ、赤い石の首飾りをはめていることに気づく者もいなければ、部屋の主が不在のときよりも在室しているときの方が明らかに娘の滞在時間が長いことにも、テリスンにとって幸いなことに、気づく者はいなかった。少なくともまだ、と言うことになったやもしれないが。

 レイジュの脅しのせいか、ネレディスの嫌がらせはやんでおり、娘はいつもファドックのもとを訪れることを──在室していようがいまいが──楽しみにしているようにブロックには見えた。彼には、それはずいぶんと不思議なことだったのだが。

 掃除にきました、とのいつもの声にブロックが戸を開ければ、か細い娘の姿がファドックの目に入る。彼はいちいち掃除女に挨拶などはしなかったが――たまたま目が合えば、軽くうなずく程度である――テリスンの方は常に、深いお辞儀をしていた。

 そうなるとブロックもまたお辞儀をして部屋を出るのが習慣になっていた。別に少年は娘に気を使うとかそう言うことを考えているのではなく、冷たい近衛隊長とふたりで部屋に残される時間がつらくてたまらなかったのである。テリスンがやってくる時間は、少年のささやかな休憩時間ともなった。

 娘はその石を制服の内側も隠していたから、薄鼠色の長い髪を頭の上でひとつに結い上げられているために見えている首筋にのぞくのは銀の鎖だけと言うことになった。

 ファドックはテリスンが身に付けたそれに気づくのか気づかないの何も言わず、以前のようにふと不思議そうに彼女を見ることもなかったが、それでも時折何かを彼女に――それとも、胸もとに隠された赤い石に――感じでもするかのように、仕事の手をとめることがあった。

「すみません」

 テリスンは小声で言うと、彼のごく脇におかれている屑籠に手を伸ばした。娘はもうすっかり業務に慣れたかに見えるのに、いまでもファドックに近く寄ればその頬を染めた。

 かさかさといった紙のすれる小さな音が背後ではじまり、そしてやんでも彼は特に気にしなかった。しかし数(トーア)ののち、右方から細い腕が卓の上に向かって伸びるのが目に入った瞬間――ファドックはほとんど反射的に、その簡単に折れそうな手首を掴んでいた。

「――何だ」

 ブロックが聞けば顔を青くして身を震わせかねない口調は娘の目をまん丸くさせたが、怖がらせることはなかったようである。

「あの……お皿を」

 見れば、確かに少女の伸びた手の先には、簡素な陶皿が空になっておかれている。

 一時は「努力」をして下食堂に食事に下りていっていた彼だったが、使用人がついてからは多くの場合において食事をこの部屋か、または兵士の詰め所などで済ませていた。トルスはそれに難色を示していたが、忙しい料理長が忙しい近衛隊長と会って話をする時間はほとんどなかった。

「それはブロックの仕事だ。あなたがこれを片付ける必要はない」

「そ……そうですね、すみません」

 テリスンは顔を赤くして言ったが、それは出過ぎた真似を指摘されたせいか、それともファドックに手を掴まれたままであるせいかは、判然としなかった。

「あの……すみません。痛い、です」

 娘は消え入りそうな声でそう言った。ファドックはようやく気づいたと言うように彼女の手首を放したが、特に謝罪はしなかった。

 ただ、彼は考えていた。

 いま――彼女に触れたときに覚えた、何かについて。

 それは、彼の内にある明瞭な――明瞭すぎるほどの――思考と、黒雲に覆われたような感情との間では判定のつけがたいものだった。

 いまの彼に抽象的な考えはあまり浮かばなかったが、浮かんだそれはただ漠然としていて、どうにも掴みにくかった。言うなれば、それが光であるのか闇であるのかすらも、判らない。

「あ、あの、何か」

 娘は、近衛隊長にじっと見上げられていることに気づくと可哀想なほどに顔を赤くしていた。

「……いや」

 ファドックは小さく首を振ると視線を手元に戻す。――戻そうと、した。

 だが彼はその娘から目が離せなかった。灰色の髪に薄青い目をした、痩せた掃除娘。

 印象的なところない顔立ち。だが彼の前で、色が変わるように瞳を一喜一憂させる姿は、背後で憧れのため息を聞き続けてきた騎士には新鮮でもあっただろうか?

 彼はもう一度首を振ると、無理矢理に視線を外すと筆を取った。娘がほっとしたように仕事に戻る気配が判る。

「……あなたは」

 少しの()ののちに、彼は再び口を開いた。手にした筆は、先から一文字も綴っていない。

「はい?」

 娘は驚いたように作業の手をとめる。彼が仕事中の彼女に声をかけるのは稀である。――様子がおかしかろうと、そうでなかろうと。

「言わぬのだな」

「何を……ですか」

 テリスンは目をしばたたかせた。

「私が忙しいであろうとか……様子がおかしいだとか」

 その声のどこにも、皮肉や苦々しい調子はなかった。

「え、でも……」

 娘は少し迷うようにして、続けた。

「ファドック様は、ファドック様じゃないですか」

「そうか」

 彼は奇妙なものを感じていた。

 この状態にある彼は、滅多に疑問を持つことがない。アスレンが言った通り、ただ「判断」をした。

 王に仕え、アーレイドに仕えること。そのために、いちばんよいであろうこと。

 王女との時間を持つことは、特にアーレイドのためになるとは思えず――それは、彼がこの術を解かれるわずかな()に、最も彼を打ちのめす「判断」であった――、レンの第一王子の存在が歓迎し難いことは変わらなかったが、そこに怒りや嫌悪はなく、ただ〈魔術都市〉を怒らせれば厄介だろうと思うだけであった。

 〈翡翠〉やリ・ガンのことは、ほとんど彼の内に浮かばなかった。だが彼はそれを忘れているのではなく、〈守護者〉とかいうものは彼の常態ではないのだから、そうであっても当然だろうと考えていた。アスレンが翡翠を狙うことについてもまた、かの王子が宝玉を盗もうとでもしない限り、彼には問題があるとは思えなかった。

 彼の反応にシュアラが落胆することも、レイジュが傷ついたことも知っていた。

 ブロックが彼を怖れていることも、イージェンがどうにか彼と話をしようとしはじめたことも判っていた。

 だが、それに対する感情は全て黒雲の背後に隠された。それを不思議にも思わなければ、苛つくこともなかった。

 だから、奇妙だったのだ。

 こうしてテリスンに何かを覚え、声をかけることは、いまの彼の「規則」のなかにはないことだ。

「あの……ファドック様」

 躊躇いがちな声に、彼はまた娘の顔を見た。

「私、考えたんですけど、巧いことが思いつかなくて」

 彼女が何を言い出したのか見極めようとするように、彼はそのままじっとテリスンを凝視した。

「その、当たり前ですけど、ファドック様は私なんかよりずっと質のよいものを手にされるのだし、何かお渡ししてもご迷惑だとは思うんですけれど」

「……何の話だ」

「あの」

 娘はまた言った。

「先日のいただきものの……お礼をしたくて」

 テリスンは完全に真っ赤になっていた。

「不要だ」

 笑いもしなければ、眉を微かに上げる程度の表情の変化も見せぬままで、彼は言った。

「処分する代わりに、あなたにやった」

「でも、私は嬉しくて、あの、それにそれだけじゃないんです」

 それを口にするのに、彼女はたいそう頑張っているように見えた。

「あの、ファドック様。明日……ご誕辰……ですよね」

 これには、彼は驚いた顔を見せた。

 言われてみれば確かにその通りであったが、アーレイドでは、王侯貴族でもない限り、生誕の日を特別に考える習慣はない。キド伯爵は、十五の成人や二十歳といった節目の年には彼がいくら断ってもささやかなる会を持つことをやめなかったが、毎年にその日を祝うということはなかった。

 当人も忘れていたそれを指摘されたことにも驚いたが――驚いた自分にもまた、驚いた。

「あのっ、差し出がましいってことは判ってるんですけど……その、何か感謝の気持ちとお祝いを……お贈りしたくて」

 不要だ、という台詞は近衛隊長の口から出なかった。彼はただ、初めて彼女を見た頃と同じような不思議そうな視線を向けた。

「テリスン」

 その名を呼ばれれば、娘は目に見えてうろたえた。

「は、はいっ」

「テリスン。あなたは――」

 その続きは、発せられなかった。

 浮かんだ言葉が、あまりにも曖昧で抽象的だったせいもある。

 だが、それが出てくるよりも先に、湧き上がったものに言葉を失ったのだ。

 いまの彼には感情がなかった。

 それに疑問を挟むこともなかった。

 ただ彼は、そうあるべきだと思うことをした。そこに疑問は、なかったのだ。

 だが、彼女に何かを覚えた。

 それは現れたと思うとすぐに去っており、雑多な感情が心に巻き起こる通常の状態であったならば、おそらくは掴み損なうだろう。

 ただ、それは、欲情に――似ていた。

 自身への驚愕や不信は特に感じなかったが、奇妙だとは思った。彼は王宮の娘たちにそのようなものを覚えたことはなかったし、テリスンは格別に魅惑的という訳でもない。形のよい胸に目をとめる男もいることだろうが、肉感的と言うにはほど遠かった。

 なのに何故、そのような気が湧いたものか、不思議に思っていた。

 また、不思議に思うことも――不思議に、思った。

 その思考が破られたのは、躊躇いがちに叩かれた扉の音によった。

 ファドックはその黒い瞳を瞼の裏にほんの数(トーア)だけ隠し、それを開いたブロック少年が入ってくるのを見た。

隊長(キアル)

「何だ」

 ブロックは彼付きなのだから、予め指示のない限りは、この部屋に入る許可を得る必要がない。それがわざわざ戸を叩いたのは、少年がテリスンと主の「邪魔」をすることを告げなければ、と気を使った訳ではなく――主の気を引く必要があったということになる。

「何か緊急の要件か」

「ロジェス・クライン閣下がお召しです」

「判った」

 ファドックの返答は早かった。

 奇妙な感覚は脇に置く。答えが出ないであろうことは予測がついていた。答えの出ないことを考えたところで何の役にも立たないと、そう判断をした。


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