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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第1話 翡翠の宮殿 第2章

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07 それでいいじゃないか

 立ちつくしてしまったエイルは、再び先の「先輩」に促されて現実へと帰ってきた。

 「吟遊詩人殿」と何を話していたのかなどとは幸いにして訊かれないが、「彼ら」が動かずにじっとしていれば客人と語らうよりも目を引くことになる。それを理解したエイルは、何度か目をしばたたくと仕事に戻った。

 しかしその足取りは半刻前よりも危なっかしく、心配をしたほかの少年は――エイルを心配したのではなく、彼が何か派手な失敗をして、彼らがまとめて叱責されることを心配したのだが――エイルにもう下がるよう、言った。

 エイルはほっとするとそれに応じることにした。

 やり遂げろとファドックに言われた言葉を果たせないことにはなるが、また心配をされて背後から声をかけられでもしてはたまらない。次こそ、悲鳴でもあげそうだ。

「おう、エイル、休憩か」

 下厨房のそれよりもいささか広い休憩室に入ると、役目をほとんど終えたトルスが座り込んでいた。

「慣れてないのはもうすっ込んでていいってさ」

 そう言うと、トルスとその向かいにいたミーリが笑う。

「何かやらかした? 貴族様に酒でもぶちまけたなかな?」

「さすがにそれはないよ」

 そうなる前に引っ込めってことさ、とエイルは続けた。

「それじゃもう上がれ。体力がまだあるようなら、下厨房を手伝ってこい」

「こっちの片づけは?」

 エイルが問えば、ミーリが首を振った。

「こっちには人手があるよ、安心していつもの場所にお戻り」

「そいじゃ、そうさせてもらおうかな」

 自室で休めなどと言われなくてよかった、とエイルは考えた。いま、ひとりになれば、クラーナに聞かされたことを延々と考え続けてしまうこと間違いなしだ。それよりはもっと働けと言われた方が余程「休憩」になると言うものである。

「俺も少ししたら戻るからな」

「トルスの方こそ、休んだら?」

「馬鹿言え。あいつらだけに任せておいたら、どうなるか」

 トルスは大げさに顔をしかめると、ソースやら油やら野菜屑やらが取り散らかされたままの厨房を描写してみせた。だが、彼が彼とともに働く男たちを信頼していないと言うのではない。これはトルスなりの責任感の現れだ。

「食事は?」

「戻ってからだ」

「おや、食べていかないのかい。せっかく、僕が腕を振るおうと思っていたのに」

「そいつは魅力的なお誘いだが、ミーリ。ひとりだけ贅沢な食事をしてきたと思われたら連中につるし上げだ」

 上だろうが下だろうが、賄い食にそうそう格差などない。ただ、使う材料が上質なら同じものを作ってもどちらが美味いかは自明の理だ。「腕」だけでは追いつけないものがあるし、ましてやミーリは料理長をやっていけるほどの料理人なのだから。

「それじゃ伝えとくよ。最高級の調理をしてきた料理長が、腹を空かせて凱旋するってね」

「おう、言っとけ」

 少年の軽口をさらりと受け止め、トルスはエイルを追い払うかのように手を振った。

 それに手を振り返して、エイルは言われた通りのことをすることにした。より上等なお仕着せをいつもの使用人のものに戻し、より上等な空間からいつもの場所――と言えるようになってきた――に戻るのだ。

(翡翠の宮殿)

(アーレイド)

(ヴィエル)

 しかしそれでも、蘇る言葉をとどめる術はない。

(望もうと望むまいと、そこへ行くだろうと言われた)

(望まずにここへきたことが、俺の運命だと? それに)

(ふたつの心)

(クラーナ……あの吟遊詩人)

(やめろやめろ、考えるな、エイル)

 自分に言い聞かせる。

(んなこと、考えたって何になるってんだ。俺が訳も判らずここに連れてこられたことは本当だけど、それは「運命」なんてご立派なもんじゃないや)

(それに、翡翠の宮殿がここだってんなら、それでいいじゃないか)

(意味が判らないままで悩んできたことが、いっこ、判った)

(そうさ、判ったんだ。そのことに何の問題があるってんだ?)

 問題。問題なら、山積みだった。

 このアーレイド城が占い師の言った翡翠の宮殿で、あの老人の予言が当たったのだとすれば。

 心の色がどうの、ということもまた、真実だ。

 そして。

(大切なものを捨てる日が――くるかもしれない)

 それもまた、予言の言葉だった。

(俺の大切なものって、何だろう?)

 母。仕事。ファドック・ソレス――?

(……ファドック様はともかく)

 少年は自らの内に浮かんだ名前を否定した。

(母さんを捨てるなんて、そんなこと)

 仕事は、もちろん自分のためであるが、母のためでもある。母と――大切な存在、との思いは否定してみたが――ファドックならば、彼は母を取るだろう。だというのに。

(捨てる日が)

(……くるもんか)

 少年は首を振り、気分を変えるように気合いを入れると彼の仕事場へと飛び込んだ。


 エイル少年の「出張」は、厨房で格好の話題となったが、幸か不幸か彼はその話題を盛り上げるような活躍も失敗もしておらず、彼らの感想も「面白いもんを見ることができたんだなあ」と言う程度のものであった。

 こうして城に日々勤めていたところで、厨房で過ごしていれば王だの王女だのとはほとんど縁がない。実際に側仕えをする侍女や下男――そしてエイル――とは違うのだ。

 ファドックはイージェンに、彼自身のいる位置が特殊であると告げたが、エイルのそれもまた同じだった。

 それに気づいてレイジュのように「わあ、同じですね」と喜ぶようなことはないが、少し複雑な気持ちは覚えた。それは、彼には仲間と呼べる人間がいないと言うことにもなるからだ。

 それを寂しがるというのではなかったが、歓迎したい思考でもない。ファドックが同じだと思ってみたところで慰めにならなかった。ファドックはその状態を受け入れており、もし孤独だと思ったことがあったとしても、そんなことはとうに乗り越えている。少なくともそのように見える。

「大丈夫かい、エイル。少し疲れているんじゃない?」

 気の利くユファスが、厨房の片隅でこっそり息をつくエイルを見つけた。

「いや」

 エイルは首を振る。

「お上品なところで疲れたってのはなくもないけどさ、やってる仕事はただ立ってたり、ちょっとうろついたりする程度だぜ。気力が疲れたくらいでへたばる体力は持ってないさ」

「そう?」

 ユファスは言う。

「少し、顔色が悪いようだよ」

「んなこと」

 この台詞は最近聞いたことがあるような気がする、と思いながらエイルは返した。

「……ねえよ」

 ふと思い出した。トルスに言われたのだ。ファドックという存在に、それまで以上の衝撃を覚えたあの夜。

 今日は彼に何があった? 考えるまでもない。吟遊詩人クラーナと、その言葉。

「さあ、仕事仕事。もう、片づけに入っても大丈夫じゃねえかな?」

 だがそんなことを思い返している暇はない。エイルは元気に声を出した。

「そうだね。ディレントにお伺いを立てようか」

 トルスがいない間の「料理長代理」の名を口にすると、ユファスはエイルのもとを離れた。

 夜会のような催しがあると、使用人がやってくる時間や皿の数は普段に増して読みがたいが、それにしてももう「客人」の姿はまばらだ。本日の仕事を終了させる方向に向けることに、ディレントをはじめ、厨房の男たちには異論なかった。

 毎日と同じように片づけや掃除、翌日の仕込みなどをやっていると、彼らの料理長が姿を現す。

「よう、俺がいなくても元気にやってたか」

「いつもよりはかどったくらいだよ」

「この野郎」

 にやりと言った若者の頭を大きな手ではたき、トルスは持ってきたいくつかの大きな袋を調理台の上に置く。

「戦利品だ。明日はちょっくら、忙しくするぞ」

 覚悟しておけよ、てめえら──などと、トルスはまるで山賊(イネファ)首領(ジェレン)か何かのように言い、対する男たちも呼応するように大声を上げた。

「……何をおっぱじめようってんだ」

 エイルが呟くと、近くにいた男が笑う。

「我らが(セラス)が、上等な食材を掠めてきたのさ。明日の朝は普段の仕込みに加えて、夕刻の分まで準備するぞ。──俺たちのささやかな宴会って訳だ」


 そのあと、翌日に備えて、厨房ではもう一度仕込み直しが始まった。

 いつもより仕事時間が多くなれば身体は疲れるはずだが、気分が高揚すればその程度の疲労などは吹き飛ばされる。

 トルスが上厨房に行ったあとの、こうした余録。

 調理人たちの仕事は増えることになるが、彼らにしてみれば見慣れぬ食材、高級なそれらの調理は変わり映えのしない普段の日々に刺激をもたらすものであり、言うなれば立派な息抜き(・・・)だった。

 増えた仕事に文句を言う者はいない。もし口には出さずとも不満を抱くものがいればトルス料理長はそれを見抜いてさっさと厨房から追い出すだろう。それで手が減ったとしても、余興の準備を嫌々ながらするような人間なら却って邪魔だという訳だ。

 幸いにしてこの日の厨房から追い出される者はおらず、普段より一刻ほど遅れて迎えた終業時刻は、疲れよりも明日への期待に満ちていた。

 とは言え、誰も彼も自室に帰れば風呂に行く手間を掛けずにそのまま寝台に倒れ込んだことだろう。

 エイルも同様だった。

 だがこれは何とも、彼には有難い話だった。気力体力が残っていれば、この日の出来事を考えて眠れぬ時間が、続いたはずだから。

(翡翠の宮殿)

 それでも眠りに落ちるまでのわずかな間、静かな夜をその言葉が覆う。

(アーレイドは、翡翠)

(ならば、俺のいるここは翡翠の宮殿)

(馬鹿げてる)

 アーレイドに暮らす少年がアーレイドの城に行く。こうして、雇われて仕事をするという意味ではなく、訪れるというだけの意味ならば城門の前に立つだけでも訪れたことになるだろう。

(ここが、あの爺さんの言った翡翠の宮殿なら)

(爺さんの予言は当たったかもしれない。だとしても――別に相手は俺じゃなくたって当たっただろうってことになる)

(だから――違う)

(ここは翡翠の宮殿じゃない)

(俺が予言された場所じゃない)

俺の翡翠の宮殿(・・・・・・・)じゃ(・・)ない(・・)

 そんなふうに考える自分を奇妙だと思う前に、堪え切れぬ睡魔が少年を襲ってきた。

 言葉の上でどんなに馬鹿にし、否定してみても、彼はその予言を信じつつある。

 ファドック・ソレスに覚える感覚。

 そして、よく似た衝撃をクラーナにも覚えた、その意味は?

 翡翠。アーレイド。

 クラーナとは何者だろう?

 その疑問が言葉になる前に、少年は眠りに国へと落ちていく。

 何者だろう。

 ――エイルという名を持つ、この少年自身は。


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