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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第7話・最終話 暁の宮殿 序章

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08 必要などない

「何だ」

「あの、殿下(ラナン)がお返事をいただいてくるようにと」

 これは、勝手なつけ加えだったが、言わなかったとしてもシュアラはそう望んでいるはずだ、とレイジュは拡大解釈をすることにした。

「――判った。返書をご用意する。少し、待っていろ」

「……はい」

 レイジュはしかし、何だか打ちのめされたような気分になった。いつものファドックならば、ここで必ず――シュアラの元に出向く、と言うだろうに。

「あの……ファドック様」

 再びレイジュは声を出し、ファドックは封を切る手をとめた。

「何だ」

 同じように返される言葉。面白がる様子も苛立つ様子もない。

 何を言おうと思ったのか自分でも判っていなかった。ただ、話しかけたかった。

 そうやってこちらから気を引かないと、自分が部屋の隅の綿ぼこりにでもなったような気がする。そしてもちろん、いままでのファドックならば、侍女や使用人にそう言った居心地の悪い思いをさせることは――なかった。

「近頃、お忙しくて大変なんじゃないですか」

 レイジュは心で自分の頭を殴りつけた。こんな、誰でもが言いそうな話にはファドックだってうんざりしているに決まっている!

「そうでもない」

 近衛隊長の答えは簡潔だった。そこには繰り返される話題に飽いたという様子こそなかったが、彼を気遣う侍女への礼も無論、なかった。

 もうちょっと言葉が続くかと待ってみたレイジュだが、ファドックの返答はそれでおしまいのようで、侍女はもどかしいものを覚える。

「ファドック様っ」

 三度目の呼びかけに顔を上げた近衛隊長の目は、今度は苛立ちを帯びて――いただろうか?

「何だ」

 少なくともファドックは変わらず丁寧に、侍女の呼びかけに答えた。

「あの、いまお時間、よろしいですか」

 いったい自分は何を言おうとしているのだろう、と頭の中をぐるぐるさせながら侍女は言った。

「シュアラ殿下への御返事が遅れれば、あなたが困るのではないのか」

 もっともな返答にレイジュは詰まった。同時に、カリアから聞いたブロック少年の話を思い出す。

 少年は――彼を怖いと言ったらしい。

 ファドックは多少辛辣なことを言っても、そのあとでは必ず笑って冗談であることを示すか、それとも真剣な忠告であるか相手に伝わるようにした。

 だがいまの言葉にはそれはない。こうやって淡々と言われるとただの指摘のようにしか思えないが、それはファドックらしくなく、また、もう少し鋭く言われれば、たいていの者はこれを痛烈な皮肉だと思って身を縮ませるだろう。

 ファドックを知るレイジュですらこう思うのである。新任の少年の不安たるや、いかばかりのものか。

 誰も気づいていないはずは、なかった。

 ある程度以上ファドックと親しい者ならば、彼のこのような反応を奇妙に思わぬはずがない。だがイージェンもトルスも、これをファドック・ソレス流の強がりであるかのごとくに考えていた。彼らは上官の、友人の複雑な立場とその心情について心配をしたものの――まさか、彼を襲う真実については知る由も、なかったのだ。

 しかし、女の勘と言うのはなかなか侮れないものである。しかも彼女は恋する乙女ときている。

 レイジュは、彼に近しい男たちよりももっと強く訝っていた。

 絶対に、おかしい。

 そうなれば彼女は――自分で考えているほどには――黙って影から見守っていることなどできないのだ。

「ファドック様」

 四度目の呼びかけには男はもう顔をあげなかったが、彼女の言葉を聞いていることは判った。侍女は深呼吸をして続ける。

「何があったんですか」

「何の話だ」

 護衛騎士は、彼の姫君からの伝言に目を通しながら返した。

「お忙しくてお疲れで……それは存じてます。でもファドック様は笑顔を忘れる方じゃ……ありません」

 ファドックは顔を上げた。だがそこに、侍女の台詞に心を動かされた様子はない。

「あの、私……いえ、私たち、心配なんです」

 レイジュはうつむいた。何故そこでわざわざ、侍女たちの総意であるかのように言い直すの、とのカリアの怒声が聞こえた気がした。

「私は、笑わぬか。レイジュ」

 レイジュははっとなって顔を上げると、またもファドックと視線が合った。先のようにちらりと見るのではない。まっすぐにレイジュを見ている。彼女の鼓動は突然の全力疾走を開始する。

「ならばそれは――笑う必要などないと、言うことだな」

 だが続く言葉は、彼女の期待したものからはほど遠かった。

「そん……」

「殿下には、承りましたとお伝えしろ」

 そう言うと近衛隊長は、返書を書く手間を省いたことを侍女に告げた。その方が早く、シュアラのためになるし、レイジュならば任せられる、と言った判断ではなく――まるで、本当に面倒だとでも、言うように。

 レイジュはそうは思わない、或いは――思いたくない。だがブロックが見ればそう考えるだろうことは予想がついた。

 このまま帰ってはいけない、何でもいい、何か言おう――と考える娘の心は、しかし何も言葉を思い浮かべることができない。

「あの……」

 出たとこ勝負とばかりに思い切って声を出したレイジュは、しかし扉を叩く音に遮られた。

「お部屋のお掃除に参りました」

 レイジュは訳もなくどきりとする。

「入れ」

 ファドックは掃除娘に向けて短く言うと、もう侍女などそこにいないかのように卓の上の書類に手を伸ばす。かちゃり、と開いた戸の先でテリスンが、レイジュを認めて驚いたような顔をしているのは見なかった。

 侍女はうつむき、自分が何を見、何を聞いたのか思い出せなかった。思い出したく、なかった。掃除娘が彼女に会釈などするのに曖昧な笑顔を返したレイジュは、重い足取りを気づかれまいと――その相手がファドックとテリスンのどちらであるのか、自分でも判らなかった――娘が遠慮がちに身を引いている部屋の出口へと向かう。

「レイジュ」

 かけられた声にはっとなって振り向いた。この訪問の間、彼の方から彼女に声をかけたのは初めてである。

「いかに使用人がおらずとも、部屋に入るときはその場の主の許可を得てからの方がよいな」

 レイジュはかっと赤くなった。確かに、もしほかの武官や貴族を訪れることがあれば彼女はもちろんそうしただろう。少しばかり――ファドックと親しく話ができていると考えた、これは侍女としては失態だ。

 その言葉はもしかしたら、侍女の身を慮っての忠告であるのかもしれなかった。彼女が姿を現す直前まで部屋にいた存在は、この上なく危険なものなのだ。もし、かの王子が彼女を邪魔だと思えば、それとも実際に口にしたように、ファドックを苦しめるためだけに誰かを傷つけようと思えば、一侍女など格好の標的だ。

 だが、その目に「忠告」がもたらす誠実な光はない。ファドック自身、忠告の意図があるのか判らなかっただろう。そしてレイジュにとってすら、それはやはり皮肉にしか感じられない言葉であった。

 レイジュは涙がこみ上げるのを必死で堪えながら失礼を詫びる仕草をし、もうそれ以上ファドックの顔もテリスンの姿も目に入れずに部屋を出た。

 何故、泣きそうになるのか――ファドックへの心配のためか、自身の失敗のためか、テリスンへの謂れのない敗北感のせいか、それともその全てなのか――彼女にはやはり、判らなかった。


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