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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第6話 秘められしもの 第3章

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09 最大の禁忌

 気にかかっていることは、やはりこの新しい地位のことだった。

 アルドゥイスが彼を後任に推したのはアスレンの魔術とは関係のないことだ。あの王子の手出しなどなくともいずれ彼はその地位に就いたかもしれない。

 だが彼は、人々が祝福を述べるこの「昇進」にべっとりとついている黒いものを一(トーア)とて忘れることなどできなかった。忘れることができればよいのにと思い、忘れる訳にはいかないと思う。

 久方ぶりの休日に――定められた休みにも、ずっと仕事をする日々が続いていた――新しい制服を脱いで城下を行くファドック・ソレスの目的地は、このように幾たびも足を運ぶことになるとはついぞ思わなかった場所、魔術師協会(リート・ディル)であった。

 彼が近衛隊長(コレキアル)の任について少し経つが、彼にそうするよう「命じて」以降、かの王子の再訪はなかった。

 正直、助かるところだが、気になることもある。 

 アスレンの興味がファドックに向いていないということは、ほかの何かに向いていると言うことになるかもしれないのだ。

 〈守護者〉よりもアスレンの興味を引くのは翡翠そのもの――それとも、リ・ガンではないのだろうか?

 なれば彼は、アスレンの姿を見ないで済むことに単純に安堵をする訳にはいかないのだ。

「――隊長殿(セル・キアル)」」

 しかしそのとき、人混みを抜けて静かな小路に入ると、声が追いかけてきた。

 ファドックはまだ「隊長(キアル)」という呼びかけに慣れきっておらず、自分ではなくアルドゥイスが呼ばれたのだという感覚を抱いてしまうことも多かった。その錯覚は少しずつ失せてきていたが、いまの声に関しては聞き誤りようもなかった。

 それは、確かにファドック・ソレスに呼びかけていたのだし、彼は、忘れてしまいたいその声を決して忘れてはいなかったのだから。

「どこへ、行く?」

 彼はゆっくりと振り返った。

 薄灰色の瞳を細くして背後から騎士を呼び止めたのは、紛う方なきその姿――しばらく現れずにいて彼を複雑な心境に陥らせていた、白金髪の美しい青年であった。

 太陽(リィキア)の下に見るその顔は青いほどに白く、病的にも見えた。それとも、そう感じるのはその中身(・・)が持つ捻れたものをファドックが知る故か。彼は、その男に跪こうと湧き上がる忠誠心を懸命に押しのけた。

 いったい何を思ってこのような――人気(ひとけ)は少ないと言えども、表通りには賑やかな往来のある場所に姿を現したのか。

 ほかに誰もおらぬ彼の部屋でならば、魔術の強制に逆らえずに頭を垂れても、それはファドック個人の屈辱にしかならない。だが、いかに新たなる近衛隊長の顔かたちがまだ街びとにそう知られておらぬにしても、城を守る責任者のひとりが、城下でまるで下僕のように膝をつく姿を見られる訳には。

 彼個人の恥ならばよい。だがいまではそれは城の、王の、アーレイドの恥となろう。相手がレンの第一王子であろうと。

 かつて彼がリャカラーダ第三王子に自らそうしたときとは状況も立場も――意思も全て、異なっていた。

「我の問いに答えぬ気か?」

 エイル少年の思うところの「氷でできた」王子は、ゆっくりとファドックの方へと歩を進めた。ファドックは表情を殺し、全身を駆けめぐる畏怖と尊敬に抵抗する。

「答えずとも判っておるが。お前の行く先は魔術師協会(リート・ディル)だな」

 馬鹿馬鹿しい、と王子は言った。

「何を黙る」

 ファドックの身体が小刻みに震えるのを見て取ったアスレンは、騎士が何に堪えているのかを知った。

「そうだな、何も目立つことはない。立ったままでかまわぬぞ」

 アスレンはファドックの内心に去来するものを見て取って、くっと笑うとそう言った。その「寛大なる許可」は〈ライン〉に跪いて敬意を表そうとする強制から彼を放ちはしたが、それが彼にもたらしたのは、わずかばかり呼吸が楽になった程度のことであった。

「魔術師協会などに行って何をするつもりだ、ソレス? 幾度かそうしてあの場所を訪ねていることを我が知らないとは、思っておるまいな?」

「――ライン」

 ファドックは静かに言った。

「アーレイドの行政などには、興味はございませんのでしょう」

「――は!」

 アスレンは笑った。

「巧いことを言うものだ! 下らぬすり抜けを覚えたな、ソレス。我が問いの意図を敢えて曲解し、正当に答えたふりをするか」

 王子の言葉は咎めているかのようだったが、口調は面白がっていた。ファドックは何も答えない。ただ、そういった「すり抜け」も可能なのか、と心に留め置く――だけだ。

 アスレンはファドックをじっと見ながら、その目の前までくると騎士を見上げた。

「もう一度尋ねよう。ファドック・ソレス、お前は何を求めて、魔術師協会へ行く?」

 はっきりと言われれば、それをごまかそうなどとは――「そうする」以前に「そうしようと思う」だけで首筋まで粟が立つ。〈ライン〉の言葉に異を唱えるなど自らに刃を突き立てることよりも愚かしいことである、という感覚に対して、アスレンの言いなりになどならぬ、と怒りが湧けば、絶対の主人に逆らうことの恐怖が覆い被さる。

「……それは」

「それは?」

「――警告を」

「警告だと?」

 一言ごとに問い返されれば、耐えようという意志は風神(イル・スーン)の一吹きに舞う木の葉のように散らされた。ファドックは息をつく。

「――マザド王陛下に、協会から、警告を送ってもらおうと。新任の近衛隊長は信が置けぬと、いうことを」

「我が術の支配下にある故か。面白い」

 アスレンの口の端が上がった。

「考えたな。それならば我の命令に逆らうことにはならぬ。王宮内のことには関わりたがらぬ協会も、依頼をされれば受けような。……だがソレス、お前は幸運にも城内でずいぶんと大きな信を得ている。協会の曖昧な警告などで簡単に解雇はされまいよ」

「影を投げることができれば――充分と」

「全面的な信頼が重いか」

 面白い、と王子はまた言った。

「翳りなく王女とアーレイドに仕えていたお前にとって、我の術はそれほど重いのだな」

 ファドックは黙った。

 エイラに(・・・・)警告(・・)を送ろうと考えたのがこの日でなかった幸運を彼はヘルサラクに感謝した。そうであれば、彼は告げてしまったに違いない。エイラ、リ・ガン、エイル。みな、隠せず。

 だがその安堵を〈守護者〉は完璧に隠して見せた。ファドックの沈黙をどう受け取ったのか、アスレンは不意に視線を逸らすとそのまますっとすれ違うように動いて――騎士の左横に立った。

「いつまで、そうして我に怒る」

 アスレンは静かな声で、騎士に囁いた。

「お前は」

 その声は笑いを含む。

「どうしてそんなに、俺を楽しませる?」

 言葉に、何か特殊な術がかけられていたと言うことはなくとも――その言葉が頭に届くより先に、ファドックは全身が瞬時に縛りつけられたかのような感覚を覚えた。それはまるで槌で殴られたような衝撃、それとも無数の針に刺されたかのような痛み、或いは、吐き気を(・・・・)覚えるほ(・・・・)どの喜び(・・・・)、であっただろうか。

「顔色が、悪いようだな」

 レンの青年は満面に笑みをたたえてそう言った。

「街なかで気を失われでもすれば俺も困る。少し、楽にしてやろうか」

 ファドックの肩がぴくりとした。

 アスレンがいつだか言った台詞を彼は忘れていない。この魔術師があと少しでも彼にかけている術を強めれば、彼は楽になるだろうと。彼はそれを望まぬだろうが、と。

 やめろ、というような類の、どんな言葉もファドックの口からは出なかった。「出せなかった」ということもあったが、それよりも。

 何かを言おうとするよりも早く、彼の身体は動いていた。

 鋭い音をたてて、右腰から短剣が引き抜かれた。

 躊躇いなどはどこにもなかった。あるはずがなかった。いつ何時でも、そうできるならそうするつもりでいた、その機会がようやく訪れただけであった。

 ファドックは一(リア)と経たぬ間に身を反転させるとレンの王子に向けて刃を振るった。致命的になるはずの一撃は、しかし空気と――黄玉の首飾りを切り裂いただけで終わる。

「面白い!」

 騎士の攻撃範囲からわずかばかり下がった位置に身を置いたアスレンは、叫ぶように言った。

「お前は実に面白い、ソレス!」

 ファドックは言葉を返さず、短剣を握り直した。帯剣をしてこなかったことを悔やんだ。いつもの剣ならば、確実にこの王子を両断したことだろう。それとも、やはりアスレンは僅差で逃れるのだろうか――?

 だがそのような考えを進めるより先に、ファドックは再び踏み込んだ。その瞬間、右手に衝撃が走って刃が音を立てて砕け散る。だが彼はそれにかまうことをしなかった。痺れた右手をすぐに諦め、刀身の失われた柄を投げ捨てると左から踏み込み直し、彼はアスレンの白い首筋を掴んだ。

 その、はずだった。

 彼の手は空を掴み、崩れかけた均衡を整える間に、気配が目前から消えたことを知る。素早く右足を引いて再び反転すると、そこにいたアスレンは――笑っていた。

「街なかで剣を振るえば、重罪ではないのか、近衛隊長(コレキアル)

 もはや、ファドックがとても一歩では踏み込めぬ距離に立ったレンの第一王子は、笑ったままで言った。

「――近衛隊長にはその権限がある」

 ファドックは戦闘態勢のままで静かに返した。

「成程」

 アスレンは両腕を組んだ。

「なれば、いまばかりはお前が騎士のままであった方が面白かったな。禁忌を破ってまで俺に刃を向けられたかどうか」

「私は既に一度、最大の禁忌を侵した」

 それがファドックの答えだった。

「もはや私に、侵さざるべき禁忌はない」

 この上なく楽しそうに見えていたアスレンの表情がすっと笑みが消える。

「面白い」

 しかしそう言った王子の顔に、これまでファドックにたびたびそう言ったときに見せていた歪んだ喜びは、なかった。

「俺を怒らせる気だな」

 アスレンは組んでいた腕を解く。ファドックは答えなかった。

「俺を殺したいか。やってみろ。続けろ。お前に何もできるはずなどないのに。そうして俺に殺意を覚えても苦しまずに済んでいるのは、俺が術を弱めてやったからだけにすぎないと言うのに」

 やはり、ファドックは答えない。戦い手(キエス)の瞳で彼の敵をじっと――見るだけだ。

「最大の禁忌と言うか。我は、お前がそれを知っているとは思わぬ。お前がどんな領域を侵したのだとしても、それは初めの一歩に過ぎぬのだ」

 アスレンは言いながら、何かを呼び寄せるような仕草をした。刀身を持たない短剣が静かに宙を舞い、王子の手に納まる。その柄は、かつて騎士が少年に与えたものと同じ造りをしていた。それを見、声を聞きながら、だがファドックはその距離を測るのみ。

「我がお前に教えてやろう。本当の」

 そう言ったアスレンの足がすっと動いた――ファドックの方に。

 騎士は、無駄であろうと思うことは敢えてせず、ただ勢いよく地面を蹴った。

「獄界をな」

 ファドックの腕は三度(みたび)、空を切る。

 もはやその小路に、レンの第一王子の姿はなかった。


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