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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第6話 秘められしもの 第2章

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06 まだ終わっていない

 少年は部屋に閉じこもったまま、ほとんど出てこない日が続いた。

 まさか〈守護者〉よりもリ・ガンが穢れとやらに弱いはずもないと、そういう意味では伯爵が少年を心配することはなかったが、それでもやはり飯も食わないというのはいささか気になる事態だった。

 エイルが戻ってきたあの日以来、新たに倒れる人間が出ることはなかった。

 倒れた者たちが目覚しい回復を見せたということこそなかったが、まるで「本当の」病から治癒していくように、少しずつ彼らの熱は引き、少しずつ体力が戻っていった。

 その「病」の拡散が止まったのはサズが消えたためだと見ることもでき、そう推理した使用人の言葉をゼレットは否定しなかったが、〈翡翠〉のもたらしたものであるというサズの言葉を――エイルもまた、否定しなかった。

 エイルは、おそらくリ・ガンの不在がもたらした均衡の崩れが原因であろうと伯爵に説明をし、ゼレットも――サズが何かそれに手を加えたのではと疑っていたが――認めていた。

 そうして「どうにかする」と言った少年は、日常に戻っていくカーディル城に、白猫同様、しばらく姿を見せなかった。休んでいるのかもゼレットには判らない。眠らない(・・・・)のはリ・ガンの常態ではあったが、無論ゼレットはそのようなことは知らぬ。

 いい加減、強引にでも少年を引きずり出そうかとゼレット・カーディル伯爵が考え出した頃、エイルはふらふらした足取りで伯爵の執務室に姿を現し、〈兎を捕らえた狐を捕まえる〉ことができたとばかりにゼレットに抱きとめられる羽目になる。

「無事か、エイル」

 少年の反発を予想しながらゼレットが耳元で問えば、しかしエイルはそのままほうっと安堵の息をつく。

「やっぱ、全然違うや。ゼレット様がいるとこんなに――楽だ」

 〈守護者〉の力はリ・ガンを助ける。ゼレットはその言葉の意味を理解すると少しだけ顔をしかめたが、自分もエイルも嬉しいのなら喜ばしいことだ、と思い直したように本格的に抱き締めにかかった。

「……いまだけですからね」

 エイルはこのときばかりは抵抗する気にはならず、しかし陥ちたと思われても困るので、そうとだけ言い訳をした。

「うむ、判っとるとも」

 嬉しそうに言うゼレットはそのままエイルの顎に手をかけたが、これは抵抗に遭った。

「調子に乗らんでください」

「元気づけてやろうと言う俺の心が判らんか」

「んなことで元気が出ますか!」

 少年が叫ぶと、ゼレットはにやりとした。

「出たではないか」

 そう言って伯爵は少年をいささか惜しそうに解放し、エイルの足取りから怪しいところが消えたのを見ると、喜ぶべきかがっかりするべきか迷うような奇妙な顔をした。

「何が判ったか」

「巧く説明できるか、判んないすけど」

 少年はうーんとうなって頭をかいた。

翡翠(ヴィエル)はまだ隠れてます。でも本当に俺から隠れたい訳じゃないんだ。あの魔術師(リート)と対峙した怖れを引きずってるだけ。俺が呼びかければ答えるには答えるけど、何て言うか……まるで赤ん坊がぐずってるみたいだ。腹が減ってるせいなのか眠たいせいなのかさっぱり判らなくて若い父親が困るみたいに、俺は手をこまねいてるんです」

「だが」

 ゼレットは言った。

「泣き止ませたろう」

「そういうことに、なるんかなあ」

 エイルは腕を組んだ。

「あれは、本当に翡翠の仕業だったのか?」

 ゼレットが問うのはもちろん、彼の雇い人たちの不調についてである。その言葉は同時に、サズの仕業ではなかったのか――という意味でもあった。

「半分は、そうです」

 エイルは曖昧にうなずいてそう答えた。

「穢れを払うはずの翡翠は、俺が――リ・ガンがいないことでその力を半端に振るった。ゼレット様が、カティーラに何かを感じ取ったためかもしれません。目覚めのときが近いと翡翠は知り、なのに俺がいないから不満だったんだ。『遅い』と文句を言った、ってなとこですかね」

 この言い方はエイル自身よりもクラーナあたりが使いそうなたとえ方であった。

「でも、そのご不興(・・・)に穢れが集められたとしても、それは城中に漂うだけで……敏感な奴だったらちょっと疲れを感じる、くらいのもんです。ゼレット様の周囲にそれを集めて、不自然な場を作り出したのは、あいつじゃないかと思う」

 それを均等な状態に戻したのだ、というようなことをエイルは言った。

「やはり、大嘘つきであったな」

 ゼレットは口髭を撫でながら、少し前までの「恋人」をそう評した。

「あいつがどんな嘘をついたにせよ、レンのなかであいつが高位にあることは間違いないっすよ。……暗がりの中でゼレット様が、幻の角を見たんでなけりゃね」

「そんなはずはなかろう」

 というのがゼレットの答えだった。

「俺が何度、あの印に口づけたと思っとるんだ」

「……あまり考えたくないですけど」

 エイルが天を仰ぐと、ゼレットはにやりとして続ける。

「妬くな。お前のためにしたことだ」

「馬鹿言わんでください。妬きゃあしないし、何でそれが俺の」

 ためになるのか、と続けかけてエイルは黙った。

 ゼレットは、レンが「エイラ」を連れ去ったと思い――事実、その通りではあったが――サズがレンの者であると知っていた。

 伯爵は「彼女」の身の安全を図るため、レンの男を手懐けようとしたと言うのだろうか。もし、エイルがそれを問えば、伯爵はミレインを嘆息させたように、ただの征服欲だ、などと言いだしたかもしれないが。

 しかしエイルはそうは問わず、同じようににやりとした笑みを返すとこう続けただけだった。

「よく言いますね。俺は、ゼレット様が楽しんでそう(・・)してたことに、俺のキスを賭けてもいいです」

 エイルは、考えようによっては無謀と言える賭けを持ちかけたが、ゼレットは不機嫌そうなうなり声をあげると降参とばかりに両手を挙げた。伯爵がいまのエイルの発言を好機と見ないはずがないのだから、この態度はそれがあまりにも図星であったため、と言うところだろう。

「エイル、ですって?」

 最初に倒れたタルカスは、いちばん長い間〈穢れ〉に触れていたことになり、なおかつサズの魔術によって全身に打撲と肋の骨折などを負った彼はいちばんの貧乏籤を引いたと言えた。

 だが、鍛練を積んでいる青年の身体は強く、回復は早かった。まして「高熱と宿酔いを勘違いした」彼のことであるから、痛みにも強い、或いは、鈍い。寝台からは当分起き上がれそうになかったが、口と意識は達者であった。

「あいつが帰ってきて、あのクソ魔術師を追い払ったんですか? 驚いたな」

 伯爵は、執務官たちには真実を全て――カーディル家の伝承のことから、エイルがリ・ガンなる翡翠の操り手であり、自身がその守り手とやららしいこと、サズが狙ったのはそれであること、カティーラがそれに関わるらしいこと、翡翠が作り出した淀みが彼らを不調に陥れたが、エイルがそれを正しく直そうと試みていることまで、「エイラ」の正体だけを除いた全て――を話し、ミレイン以外から相当の抗議を受けた。

 「カーディル家の伝承」については、マルドは先代からちらりと聞いたことがあったがタルカスは初耳で、その手のことを「胡散臭い」の一言で片づける主が真顔で話をするのを悪夢の続きのように見ていた。

 なかでも彼らを最も怒らせたのは、サズが〈魔術都市〉レンの人間であると知りながらゼレットが黙っていたことだ。

 エイラという娘を攫い、それに関わった戦士を殺したのがレンである、ということは彼らも知っていた。だが、それはあのときのふたりの客人がもたらした事故のようなもので、ゼレット当人とカーディルにとっては通り雨のようなものだと考えていたのだ。

 それがいまさら、実は深い関わりがあったのだと知らされたふたりの執務官は、そんなに自分を信頼していないのかと心底、怒った。

「情けないですよ、閣下。先代からお仕えしている私をそうして蚊帳の外に置かれるとは」

 年齢の高いマルドは完全復帰には時間がかかり、横になる時間がまだ多かったが、それを伯爵が見舞えば礼よりも不満を口にした。

 ゼレットは、それらの抗議は甘んじて受けたものの謝罪はせぬまま、文句があるならさっさと身体を治して辞表でも何でも書け、と言い捨てた。もちろん彼らは前半にだけ同意し、この貸しは非常に大きなものである、というようなことをそれぞれの言い方で主人に告げた。

 だいたいの事情を知っていたミレインだけは声高にゼレットを糾弾することはなかったが、サズがレンの王甥――は自称だが、少なくとも高位ではあるらしい――と聞いたときだけはさすがに眉をひそめた。

「一伯爵には問題が大きすぎませんか」

「気にするな。奴らはわざわざ、陛下に図って臣下をどうこうさせようなどと考えぬさ。俺を殺したければ直接やってきて、殺すだろう」

 気軽に伯爵がそう言えば、またミレインは眉をひそめる。

「気にするなと言ってる。そうしたければ、もうしていると」

「お気楽に考えすぎですわ」

 ミレインは指摘した。

「この件は、まだ終わっていないのでしょう?」

「うむ」

 ゼレットは否定できなかった。彼は戦を終えたどころか、レン、それともサズ、或いはほかの誰かと戦端を開いたばかりとも考えられるのだ。

「――エイル次第だな」

「エイル」

 ミレインは繰り返した。

「不思議ですわ。あの少年に、そんな魔術的なところなど見えませんでしたのに」

 いまでも見えません、とミレイン。ゼレットはうなずいた。

「見えるものだけが真実とは……限らんな」

 そんなことを言う主をこそ、女執務官は不思議そうに見た。

 エイルは時折カーディル城の厨房を手伝ったが、以前にここに滞在したときのようには、日がな一日働き通すと言うことはしなかった。

 最初から彼は使用人ではないのだから、料理長のディーグがそれに不満を覚えることはなく、サズを追い払ったと思われている――事実では、あるが――エイルはこの城のささやかな英雄となり、誰しもが彼に仕事をさせるより、話を聞きたがった。

 もちろんエイルとしては真実を語ることもできないので、ゼレットの頓狂な作り話をいやいや補佐することにしたが、「どうやって」追い払ったのかという段には触れなかった。彼自身よく覚えていないことも多いからだ。もっとも、そこに魔術の臭いを感じ取った彼らがあまりしつこく尋ねることはなく、正直、助かったという辺りだ。

 ともあれ、使用人たちが彼ら自身の好奇心をほぼ満たし、久しぶりにエイルがひとりで食事を取ろうかとしていたときである。ミレインが彼を食卓に誘ったのは。

「あなたとは、あまり話をしたことがなかったわね」

 女性執務官はそんなことを言いながらエイルを見た。

 ミレイン・ダールはエイルより十以上は年上の女性である。すっきりとした顔立ちで化粧はごく薄く、柔軟さと鋭さを併せ持つ薄青い瞳は穏やかだ。優しく微笑まれたら、あくまでも健全な少年としてはにやりとしてしまうところであり、そうされた彼はやはりそうした。


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