08 新しい掃除女
注意力が散漫になっているような気は、していた。
こうしてこのままあの男の魔術の下にいれば、体力も精神力も消耗していくだけだ。
何とか戦う方法を探さなくてはならない。
しかし彼は魔術に対抗する手段を持たず、口のなかに苦いものを覚えながら、変わりゆく日常を送るしかなかった。
その日々は彼を苛み、疲弊させていったが、彼はそれを外には見せぬようにしていた。もし、彼の様子がおかしいと感じるものがあっても、それはロジェス・クラインの登城に伴う彼の位置の微妙な変化のせいだろう、と考えたことだろうが。
「――何をしている」
そうして集中力を失っていたファドックは、自身の持つ部屋の扉を開けたときに、なかに誰かがいるのを見て驚いた。普段の――以前の彼ならば、なかに誰かがいれば戸を開く前に気づいたはずだ。
「ひゃあ!」
ファドックの警戒の声は、おかしな悲鳴に迎えられた。
「ソ、ソレス閣下っ」
「……私にそのような敬称は不要だ」
彼は声から警戒を抜いて言った。こうして彼に言葉をかけられてばっと固くなるのは、新しい使用人によく見られる反応だった。
「では、ヴァリン殿が言っていた、ラスラの後任と言うのが」
「そっそうです、このお部屋を含む当階の清掃を担当することになりました!」
勢いよくお辞儀をしたのは二十歳前ほどに見える、痩せた娘だった。
「名は」
「テリスンと申します」
「この城へきてどれくらいだ」
「二旬ほどになります。それまでは前クライン侯爵閣下にお仕えしていました」
「そうか」
ロジェス・クライン新侯爵がアーレイド城に伴った使用人たちは、主に侯爵自身の身の回りを世話する人間だったが、ほかにも幾人か雑務に携わる人間が連れられてきていた。
王城で仕えるのは名誉だが、長年クライン家に仕える使用人の中にはいまさら職場を換えることを望まぬ者も多く、前侯爵の方でも熟練の人間を手放したくないということもあって、「まだ若いが新人と言う域は脱した」程度の者たちが新たな仕事場に放り込まれていた。どうやらテリスンはそのひとりらしい。
「何をしていた」
「……お掃除ですけど」
当たり前のことを訊かれた、と言うようにテリスンは目をぱちくりとさせた。
「あ、卓の上のものを少し動かしたりしましたけど、元通りにしてありますから!」
自分の行動の何が不審だったのかことに気づいたテリスンは慌てて言った。
「あの。もし、閣下に……」
「その敬称は不要だと言ったろう」
「……それじゃ、ファドック様ってお呼びしてもいいんですか?」
少し頬を染めて娘は言った。
「何でも、好きに呼ぶといい。ただ、『閣下』は誤りだが」
「わ、判りました……ファドック様」
娘は完全に顔を赤くしてそう言うと、続けた。
「もしファドック様に、ここはいつもきれいにしろとか、これには触れるなとか、そうしたご要望がありましたら、初めにご指示をいただけますか」
「いや」
ファドックは首を振った。
「特にない。書類の順序を入れ替えたりさえしなければ充分だ、やりやすいようにやってくれ」
「有難うございます」
テリスンはほっとしたように言った。慣れない場所であれこれ注文をつけられれば、やりにくかろう。
もっとも、彼女が新参だから気を遣ったと言うよりは、〈根菜は農民に抜かせろ〉というだけのことだ。注文をつけられるほど、彼は清掃のやり方など知らないのだから。
「あの、ご在室でいらっしゃる間はお邪魔いたしません。今日はちょっと……失敗しちゃいましたけど」
「かまわない」
ファドックは言った。
「私の職務は規則的ではないから、何刻から何刻まで在室しているということもない。いないことの方が多いが……」
この先はどうなるか、と言うようなことは口にしなかった。
「あなたの仕事は規則的だろう。私の業務を考えに入れることはない。出てもらいたいときはそう言おう。そうでないときは、私がいようといまいと気にするな」
「はい、あの。有難うございます」
娘は、ここで礼を言うのは正しかっただろうかと考えるように少しだけ首をかしげた。
ファドックを前にして明らかに緊張している彼女が彼の目前で仕事を滞りなく行うのは難しそうにも見えたが、どんな異なる環境にも人は慣れるものだ、というのが彼の考えだった。
「いまは、書類を取りにきただけだ。仕事を続けるといい、テリスン」
「はいっ」
テリスンは、名を呼ばれたためか、上ずった声で返事をした。この騎士は、彼に対する若い娘たちの勘違い――と彼は考えていた――には慣れていたが、それでもこのテリスンには何か異なったものを覚えた。
それは誰かを思い出させるようで――しかしその面影は杳として掴めず、彼は今後、この掃除娘を見かけるたび、その目にわずかな疑念を浮かべることになった。
「……何よ、あれ」
「何って、新しい掃除女でしょう」
「判ってるわよ、そんなこと」
「そう」
それなら訊かないで頂戴――と年上の友に返された娘は、恨めしそうに目を向けた。
「私をそんなふうに見たって仕方がないでしょう、レイジュ。文句があるのなら、何とかってその彼女を睨みつけてやったら?」
「テリスンよ。テリスン・レノード。二十三歳」
「あら、意外に上なのね。てっきり、行って二十だと思ったわ」
「それよ」
レイジュはカリアに指を突きつけた。
「まだ初々しいふりをしてるんだわ、ファドック様の前で」
「……あなたがそれを言う?」
カリアは呆れたように笑った。レイジュは首を振る。
「私はいつだって、自然体よ」
「まあ、そうかもしれないわね」
年上の侍女は真顔でうなずいた。
「どうしてラスラったら辞めちゃったのかしら」
「知ってるでしょう、辞めさせられたの」
「知ってるわよ」
レイジュは口を尖らせてから、嘆息した。
「あんなことする娘じゃ、なかったのになあ」
「〈恋の女神の力は絶対〉ってね。あなたも気をつけなさい、レイジュ」
ラスラはカリアよりも少し年下の真面目な掃除女だったが、少し前に、どこだかの部屋から金を盗もうとしているところを見つかったのだ。未遂であるとして罪には問われなかったが、当然、城は追われていた。何でも近ごろの給金は全て惚れた男に貢いでいたらしい、というのがあとで流れてきた噂だ。
「不思議よね。彼女は、ファドック様を見てるだけで満足って言う、私の仲間だったのに」
「……ふうん」
「……何よ」
ちろり、と見られてレイジュはたじろいだ。
「あなたは、満足なの?」
「ど、どういう意味かしら、カリア」
レイジュは嫌な雰囲気を感じ取る。
「いい機会だわ、はっきりさせましょ、レイジュ」
「カリア、その目が怖いんだけど……」
満面に笑みを湛えた友人の瞳はすっかり輝いている。
「あなたは、別に男におかしな幻想なんか抱いてないはずなのに、どうしてファドック様に対してはそうなのかしらね?」
「そう、って何よ。どうしてって、いいでしょう、私がファドック様を追っかけてたって」
「いいわよ、もちろん」
カリアは言った。
「でもあの騎士様だって生身よ? 正直に仰い。あなた、考えてみたことはないの? ファドック様に抱」
「やめてーっ」
レイジュは大げさに両耳をふさいだ。
「それ以上言ったら友だちやめるわよ、カリアっ」
「……レイジュ、あなた」
カリアはじっとレイジュを見た。
「……面白いわ」
「私のことなんかどうでもいいのよ!」
レイジュはきっとカリアを睨んだ。
「あの女、絶対にファドック様に気があるんだわ」
「城にいるたいていの女は多かれ少なかれ、そうでしょ。あなたほどじゃなくても、私だってファドック様にお声をかけられれば嬉しいもの」
「そうなのよ」
レイジュはうなずいた。
「でもね、シュアラ様は別として、私たちシュアラ様付きの侍女がいちばんファドック様に近い女の、はずでしょう?」
「それはまあ、そうね」
カリアはうなずいた。
「成程、その地位を奪われそうだと思ってるのね」
にっこりと、年上の侍女は言う。
「そうね、私たちはファドック様を鑑賞するにはいい位置にいるけれど、気軽にお話はしないものね」
「それっ、なのっ、よっ」
レイジュは泣き伏す――真似をし、カリアは慰めるふりをした。
「あの女はねっ、用がなくてもファドック様とお話ししてるのよっ。悔しいったらないわ」
「はいはい」
「それも、室内でふたりきりよっ」
「はいはい、そうね。でも見てるだけで満足なんでしょ」
「それは、ほかに近寄る女がいない場合よっ」
レイジュは小さな拳をふるふると握り締めた。
「取られたくないならどうにかしたらいいじゃないの。あなた、侍女のなかじゃいちばんファドック様に覚えがいいんだから。何度か逢い引きにでも誘って、その内に巧いこと」
「やめてよっ! 私はね、ファドック様をただ見つめていたいのよーっ」
シュアラ気に入りの侍女はそう言って泣き崩れる――ふりをする――が、年上の友人はもうつき合うのはおしまいだとばかりに、椅子から立ち上がるのだった。




