04 屈辱と畏怖
ひとりになるとため息が洩れるというのは、どうにもいい傾向とは言えなかった。
自ら背負ったものを苦痛に感じているのではない。礼儀上の敬意すらかけらも抱くことのできない相手に跪かなければならないのは屈辱だが、あの場ではそれしか方法がなかった。
ひとりになればこうして暗い気持ちになるのは、そこに他者がいれば、アスレンは決して新しい玩具を試しにやってこないと知っているからだ。
かと言って、それを避けるためにずっと誰かを脇に置いておく訳にもいかない。もしそのようなことをすれば、それはその「誰か」を危機に陥れるだけであることもまた判っていた。
目の前に突然その姿が現れても驚愕やほかの感情を隠し果せるものか判らぬまま、彼はその訪れを予感し、目を細めた。それはまるで、不意の頭痛をこらえるかのような。
魔術などに縁のない彼にも、判ってきたことがある。
そのとき、空気は冷たくなるのではない。
風も吹いてはいない。
ただ、静けさが訪れる。
完全なる静寂に突然包まれれば確かに驚くが、そうではない。
ほんの少しだけ周囲の雑音が静まる。まるで、興奮して喋っていた人がふと我に返って声の大きさを落としたような。
世界が、薄い幕で覆われたかのような。
いや、世界ではなく。彼が。
それが、暗く冷たく思わせる魔術の到来の前触れだった。
そう、まるで――いまのように。
「しばらくだな?」
不意にその姿が目前に現れることには、警戒をしていた。
しかし、こうしていきなり背後に気配を感じ、肩越しに囁かれれば身体がぴくりとするのを抑えきれない。
「――ライン」
彼は椅子から離れると、アスレンが彼に声をかけたのとは反対方向に立ち、すっと膝を折った。レンの王子の目に暗い喜びが灯る。
「どこまでがお前の意志かな、我が臣下よ」
もちろんアスレンは自身がかけた術のことを知っている。ファドックが術の強制ゆえにそうしてしまいながら内心で怒りの炎を燃やしているのか、それとも、抗いながらもこうしなければならないと判断して口惜しく思っているのか。
どちらにしてもレンの第一王子には心楽しいことだったが。
「シュアラ王女は、息災か」
レンの王子はファドックに立つよう促しながら、そう問うた。
「ご婚約が成ったそうだな。我がレンからも祝いをお贈りしよう」
「……そのような、お気遣いは無用にございます」
ファドックは立ち上がり、目線を合わせぬままで言った。
「何。一度きりとは言え、見知った仲だ。おお、アーレイドには宮廷付きの術師がおらぬな、有能なのをひとり、やろうか」
「――お戯れを申されましては」
巫山戯るなと叫んでやりたいのを堪え、同時に湧き上がってくる〈ライン〉の言葉は絶対だという思いと戦うことは、ほんのわずかな時間で彼の心と身体を消耗させる。アスレンはそれを知って、楽しそうに目を細めた。
「お前の翡翠は、どうしている」
アスレンは尋ねた。巧妙だった。ここで彼が、翡翠に対して所有したい意思を見せたなら、〈守護者〉の力はそれに反発するだろう。だがアスレンは、翡翠はファドックの――守り手に属するのだという態度を取った。そうされれば、守り手の抵抗力は強まることはない。
ことのはじめからアスレンが考えるのは「翡翠を手に入れるのならば守り手ごと手にすればよい」ということであった。翡翠がファドックに属していても、ファドックを押さえておけるのならば同じこと――否、楽しみはそれ以上となる。
「何も――変わることなく」
ファドックはゆっくりと答えた。アスレンはうなずく。
「変わることなく、力を放ち、淀みを払っておるか。馬鹿げたことよ。集めて、解き放つ。何のためだと? ただ、力の偏りをなくすためだ。馬鹿げている」
ファドックは返答をしなかった。魔術師の考えることなど彼には判らぬし、アスレンの方でも、このときは彼の反論を待っていたのではなかった。
「翡翠はリ・ガンとお前のもと。だがお前は――我のもと。さて、どちらへの愛が強いかな。守り手の本能から生まれる翡翠とリ・ガンへの繋がり。そして、そこから派生したに過ぎぬはずの、分を過ぎた保護欲。ファドック・ソレスが守りたがるものたち」
アスレンは黙ったままの騎士に目をやった。
「シュアラを守るためにリ・ガンに剣を向けろと言ったら、守り手殿はいったい、どうされるのか」
ファドックの内に、怒りが湧いた。
これ以上、この男に対して腹を立てることができるとは思わなかった。
そしてかけられた術が為す、ラインの命令に従うのは喜びであるという――怖ろしい強制。
「何が……いったい、何が望みだと」
ファドックは痛いほどに拳を握りしめながら言った。怒りを抑えるため。恐怖と戦うため。自身を保つ――ため。
「俺が欲しいのは、〈守護者〉であるお前」
アスレンは言った。
「翡翠を守るのだという思いが長じて為させている、シュアラ王女への忠誠心。関わり合った人間を全て保護しなくてはならないと感じている肥大した義務感。それらを持ったままのお前でなくては面白くない。俺の言うことを唯々諾々として従う人形ならいくらでもいるのだ。俺が死ねといえば何の疑いも躊躇いもなくそれに従う絶対の忠誠心を持つ――」
「それは忠誠ではない」
ファドックは――〈ライン〉にそのような口を利くことに対し、肌が粟立つような――畏怖を覚えた。
「忠誠ではない」
しかし騎士は繰り返す。
「それはただの、強制だ。お前は、誰からの忠義も受けたことなどないのだ、アスレン」
胸がむかつき、胃の腑がひっくり返ったのではないかと思えるほどの――怖れ。
目が霞み、息が止まるかと感じるほどに、心の臓が締め付けられる。
「愚かだな」
アスレンは楽しそうに言った。
「そうして必死で示して見せずとも、お前が俺に服従していないことなど判っている。恭順の意を示さずともただ黙っておれば、そうして苦しむこともないのだぞ」
第一王子は、先までファドックが座っていた椅子に優雅に腰掛けた。
「そのように無理を続ければ、誰かを守るよりも先にお前の寿命が縮まろうな?」
それは少し惜しいようだ――などと、魔術師は言った。
「お前には、それでも採るべき道はいくつもある。どの道がいちばん楽であるかは、教えてやらずとも判っておろう」
アスレンは続けた。
「お前はそれを採ろうとはすまい。だが、我に逆らうことに疲れてその道に倒れれば、我はお前に失望するだろうな」
アスレンは捻れた論理を語った。
「しかし、そうなっても単純にお前に飽いて捨てることはせぬ。我の期待を裏切れば罰が下ろうぞ」
アスレンがファドックに下す「罰」の内容ならば、問わずとも判りきったことだった。この眉目秀麗な王子が誰を傷つける気になるかは、判らぬとしても。
「――何故」
ファドックは低い声を出した。
「そうして矛盾することを――要求する。私の忠誠を求めたのでは、ないのか」
「無論」
「礼儀を失した」物言いにも、アスレンは怒りを見せはしなかった。
「言っている通りだ。俺が欲しいのは有能な〈守護者〉。愚かで忠実なる番犬だ。主人に媚を売る、牙のない愛玩犬などに興味はない」
アスレンはそう言うと肘掛けに頬杖を突いて、立ったままのファドックを見上げるようにした。
「苦しいか」
ファドックはただ、アスレンを睨みつける。そうするだけでも、息が詰まるほどの労力を必要とした。
「いいぞ、その調子だ。そういうお前を見ていると、俺はとても楽しい、ソレス」
そう言ってアスレンが浮かべた笑みは、いままで幾度となく見せていた冷たさも暗さもなく――優しいとさえ、言えた。
「俺がこうしてお前の前にいれば、お前は怒りと恐怖に挟まれて、苦しいな。どうする、楽にしてやろうか」
アスレンはするりと立ち上がると、ファドックの目前に身を置いた。長身の騎士の前で、第一王子は自らの「臣下」をやはり見上げることになる。
「心が騒いでおるな。相反する、我へのふたつの感情がせめぎ合っておる。我ながら、絶妙の術よ」
まるで自身の作った傑作品を眺める芸術家のような目つきで、アスレンはファドックを眺めた。
「我がもう少し術を強くしてやれば、お前は楽になるな、ソレス」
そう言うとアスレンは手袋をしたままの左手ですっとファドックの頬を撫でた。ファドックの全身が粟立つ。嫌悪と恐怖。怒りと――崇拝。
「無論、お前は楽になりたいとは望まぬな。愛する者たちのために耐えるであろう。とても愚かで、とてもお前らしい」
アスレンは視線を落とした。ファドックは両の拳を白くなるほど握りしめ、その手は微かに震えている。
「跪け」
抵抗を試みる間もなく、無理矢理に押さえ込まれたかのようにファドックの膝が折れる。屈辱と畏怖のどちらが、彼に吐き気すら感じさせたのだろうか。
「――近衛隊長に推されておるようだな」
床を見つめたままのファドックの目が細められた。
「受けろ」
その簡潔な命令は、騎士の視線を上げさせる。
「……何の、ために」
「何、簡単なことよ」
魔術師は笑みを見せる。
「近衛隊長ならば一騎士よりも簡単に宝物庫に近付けよう」
「何だと」
「そう、剣呑な顔をするな」
つらかろうに、と王子は言った。
「何も盗賊の真似をせよなどとは言わぬ。ただ、近しくあれ。いつでも、お前の翡翠を感じ取れるように、な」
言うとアスレンは、ファドックの視線を受け止める。
「お前もそれを望んでいるはずだ。ただの騎士では、王妃の警護には役不足というもの。お前がそれでもシュアラに張りついていたいと言うならば、もう少し他都市に通りのよい地位が要るであろう」
「……このままでも、私はシュアラ殿下を」
「守れると?」
アスレンはファドックの台詞を先取った。
「片腹痛いな、それができぬ故、お前はこうして我に」
第一王子は片手を出すと、顔をあげたままの騎士の頭をぐいと押して無理矢理に下げさせた。
「従うのだろうに」
触れられれば、目が回るようだった。吐き気がした。双頭の大蛇が、全身に絡みついてくるかの、ようだった。
「これは命令だ。よいな、ソレス」
特に強く発せられた訳でもない台詞は、しかし魔術の鎖だった。彼は次にアルドゥイスが――それともシュアラがその地位を彼に示したとき、この声を耳に蘇らせながらそれを受けるだろう。




