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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第4章

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08 後悔をすることに

 その夜の眠りは浅く、目を覚ましたのは〈翡翠の宮殿〉の入り口を求めるのに程良い時間帯だった。

 だが今日も宮殿は彼には道を開かないだろう。

 それに、最初から見張られていたのだとしても、ミオノールの目線を気にしながらあの場所を訪れるというのも気になる。女魔術師は宮殿のことは何も口にしなかったが、それなら知らないのだろうと呑気に思うことはできないし、もし本当に知らないのならわざわざ知らせる必要はない。

 シーヴは寝台から身を起こすと嘆息した。

 できることは、おそらく宮殿にいるエイラが帰ってくる徴候はないかと待つだけ。彼の方から行くことは、ふたつの意味でできない。「彼にはできない」と、「する訳にはいかない」。

(何もすることがないと言うのは)

(なかなかにきついな)

 彼はそんなことを考えた。

 思えばカーディルを出てから、最低限の休息だけでこのバイアーサラまで突っ走ってきていた。宮殿を見張る日々も、気は休まらないまま。ましてや、魔術によって果たされた砂漠行と帰還のおまけつきだ。彼の身体は疲れ切っているはずだった。

 だが、見張られているという思いは緊張を呼ぶのか、積もった疲労もなかなか彼を眠りの世界へ追い込んでくれない。

 シーヴはまた嘆息し、だがそうしたところで埒が明かないと寝台から降りることにした。今日も街を歩き、意味のない時間を過ごすしかないのだろうか。

(――ーヴ)

 ほかに何かできないだろうかと考えていた彼は、そのとき、はっと顔を上げた。

 声が聞こえた、ように思う。

(シーヴ)

 青年は目を細めた。幻聴などではない。声は確かに(・・・)聞こえた。

エイラ(・・・)

 間違いようのないその声の主は彼の〈翡翠の娘〉。

(俺を――呼んだか)

(〈翡翠の宮殿(ヴィエル・エクス)〉から)

 指針が見えれば、砂漠の青年はもう迷わなかった。

 見張られているから何だと言うのか? 躊躇いは瞬時に消え去った。

 エイラは、彼を呼んだのだ。いま、このときに。

 リ・ガンが〈鍵〉に対して魔術的に影響を与えると言うことは、ない。逆に〈鍵〉がリ・ガンに与える力は非常に大きかったが、〈鍵〉がリ・ガンに引っ張られることはないのだ。

 だから、彼がエイラの声を聞くというのは、いささか奇妙だった。

 しかしそれはもしかしたら、必要ならば自分を呼べと言う――〈鍵〉の思いにリ・ガンが応じた結果であるのかもしれない。

 だが、シーヴはそのようなことはほとんど知らず、考えもしない。ただ、ほかでもないエイラが彼を呼んだことについては疑いを持たなかった。

 青年は素早く衣服を身にまとうと、冬物を売って手に入れた薄手のマントをその上に羽織り、〈牛の尾〉亭を飛び出して厩舎へ向かった。

 すっかり新しい主人に慣れたカーディルの(ケルク)は青年の訪問に嬉しそうな声を出す。

「毎朝、悪いな」

 彼は馬の首をぽんぽんと叩くと馬具をつけてやる。昼間ならば馬の世話をして主人から小銭を稼ごうとする子供などがいるが、こう朝が早くては、専門の馬丁でもいない限りは無人だ。

(シーヴ)

 エイラが呼んでいるのは、〈翡翠の宮殿〉からであることもまた、間違いがない。彼は魔術に縁のないただの人の子で、こう言った〈啓示〉に触れることはほとんどなかった。だが、殊、エイラに関してだけは――その啓示は彼に疑いを抱かせない。

 彼は馬を連れるとまだ暗いバイアーサラの街の門へと急いだ。

「あっ、きたきた、旦那、こっち!」

 早朝の静寂のなかで響いた元気な声に、シーヴは思わず苦笑が出る。門の傍ではチェ・ラン少年がぴょんぴょんと飛び跳ねながらシーヴに合図をしていた。誰もいない静かな町並みでは、そのようなことをしなくとも充分に目立つのだが。

「やっぱり、今日も行くんだね。でもその前に、おいらの話を聞いとくれ」

「あとだ」

 シーヴは少年を制した。

「戻ってきたらな」

「ちょいっ、すぐに聞いてもらわなきゃ!」

 チェ・ランは憤慨したように言った。

「これは、旦那の助けになるんだから」

「すまんが、いまはお前の口上を聞いていられないんだ」

 〈翡翠の宮殿〉が開くのは一瞬だ。今日のそれを逃さぬよう、エイラは彼を呼ぶのだ。チェ・ランがどんな話を掴んだのだとしても、それはあとだ。シーヴは馬にまたがると少年の抗議の声に片手を振り、拍車をかけた。

「旦那っ」

 チェ・ランは必死と言う様子で叫んだが、シーヴにはそれは届かない。

「……ああ、行っちまった」

 少年は握りこぶしをしていた手を開くと、がっかりと肩を落とす。

「何を」

「ひゃっ」

 突然、耳元でかけられた声に少年は飛び上がる。

「そんなにがっかりしているんだい、坊や?」

 たったいままで隣には誰もいなかったはずだ――という思いは、しかし少年の内には浮かばないのだった。

「おいらの助言を聞かないで行っちゃったのさ。いまこの瞬間に、旦那の役に立つかもしれないってのにだよ」

「そう」

 女――それは無論、ミオノールであった――は薄く笑う。

「困った人に出会ったね、坊や。そうやって自分の行き先ばかりをまっすぐに見つめていれば」

 女の手が少年の頭に乗せられた。それはまるで母が自身の息子を可愛がる仕草に似ていたが、そうであると錯覚するには少しばかり冷たすぎただろうか?

「後悔をすることに、なるだろうにね」


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