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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第4章

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04 甘い香り

 女は決して豊満な身体とは言えなかったが、それでもやはり女性の身体にある曲線と丸みは薄手の衣装によって強調され、彼がこのところ見慣れていたエイラの細い身体よりは何倍も――それは「女」であった。

「殿下は、どうやら長期戦と考えておいでですか? 尊いお方が、まるで下々のように(ラル)の心配などされるとは」

「俺を見張るのは面白いか?」

「そう、申し上げました」

 ミオノールは初めてにっこりと、冷たいところのない笑いを見せた。

「殿下に応じていただけるのでしたら、いつでもわたくしの宿にご招待いたしますものを」

「レンへのご招待か。冗談にしては、笑えないな」

「何故です?」

 ミオノールは肩をすくめた。

「私どもは、殿下を害することなどいたしません。ただ少し、お話がしたいだけにございます」

 ミオノールはすっとシーヴの方へ歩を進め、王子が一歩下がるのを見るとまた笑って――寝台に腰掛ける。シーヴは内心で呪いの言葉を吐いた。

 魔術師であろうとそうでなかろうと、こうして女が寝台のある部屋に男を訪れるということ。たとえ扇情的な服を身につけておらずとも、その目的は男の籠絡にあるのではなかろうか?

「お許しをいただく前に座ってしまいましたが、お待ちしていても殿下にはそうして下さるおつもりはないようでしたから」

「好きにすればいい。お前は俺の臣下ではない」

「ええ。殿下のお傍にお仕えできませんのは、少し残念ですけれど」

 ミオノールはそう言うと、明らかに媚を含んだ目でシーヴを見た。そうすると、冷たく中性的に見えていたその顔が突然の色気を帯びる。

「やめろ」

 シーヴは唸った。

「俺を誘惑しようとしても無駄だ」

「何故です?」

 女はまた言った。

「リ・ガンなどという化け物に惑わされておいでなのですか?」

「彼女は化け物などではない」

 魔術師の問いには答えず、シーヴは言った。

「たとえ――人でない、と言ったところで」

 そうつけ加えると女は首をかしげた。

「ご存知でいらっしゃるのですね。……いいえ、けれど本当の意味では、ご存知ではありません」

「本当の――」

 聞き返そうとして、シーヴは首を振った。こんなのは、ミオノールの手に決まっている。

「やめろと言った。下らぬ言葉などに騙されはせぬ」

「下らぬ、と仰るのですね。仕方ありません。惑わされておいでの間は、わたくしが何を申し上げてもお聞き入れ下さいませんでしょう」

「何とでも言え」

 シーヴは気にも留めずに言った。

「そんなことを言いにきたのか。俺の姫君(・・)は人間ではないのだから、かばおうとするのなどやめて、お前の手に渡せと? そんな申し出なら、ほかに何かを聞かされようと聞かされまいと答えは同じだ。断る。帰れ」

「せっかちでいらっしゃいますね」

 女は嘆息した。

「殿下がそう仰ることなど、判っております。ですから、そのようなお話をしに参ったのではありません。私は確かに殿下を見張るように命令を受けておりますが、それ以上のことは何も」

「では見張るためにわざわざ現れたのか。お前たちなら姿を見せずとも、いくらでも俺を見ていられるのだろう。昼間はそうしていたと言ったではないか」

「ええ、可能です。けれど、わたくしは殿下に惹かれはじめてしまいました」

 ミオノールは特に口調を変えずに言った。

「生憎と、俺の方はそうではないようだ」

 シーヴは唇を歪めて言った。

「それも判っております。こうしてここに参りましたのは、何も殿下にお情けをいただこうと言うのではありません」

 そう言って笑った声にはやはり艶が含まれていたが、シーヴはそれを無視した。

「ならば、何だ。俺に惚れたから隣で見ていたいとでも言うのか」

「それも否定はいたしませんが」

 ミオノールはすっとシーヴを見上げた。

「……いつまで、そうして立ったままでいらっしゃるのですか? わたくしに誘惑などされぬのでしたらお気になさらず、お座りになったらいかがです?」

 安い宿には卓も椅子もなかったので、座るのならば寝台しかない。いまは旅の連れもいないのだから、寝台もひとつだ。当然、腰を下ろすのならば既に座っているミオノールの隣と言うことになる。シーヴは首を振った。

「断る」

「『姫君』を裏切らない自信がございませんか」

 ミオノールは艶やかに笑った。

「何故、そうして俺を近寄らせようとする。魔術でもかける気か」

「まさか。第一、そうしようと思いましたら、この程度の距離など関係ございません。もし私が術を使おうと思っていれば……そうですね、〈魅了〉の魔法でも使っていれば、殿下はとうに、私を世界一の女だとお思いになっていますでしょう」

 女は魔術をかけるように手を振るような動作をした。シーヴはぎくりとしたが、女は笑って、そのようなことはいたしませんと申しております、と言った。

「殿下の意志はお強いですが、それでも、魔術に対する耐性をお持ちではない。〈鍵〉は〈守護者〉とは違って、その血脈に特別な力を備えてはおりませんから」

 きたな、とシーヴは考えた。

「詳しいようだな」

「わたくしは、ラインからお聞きしただけです」

 ミオノールは言った。「ライン」とは何者だ――と尋ねるのは何となく手に乗るような気分だったので、シーヴは敢えて問わなかった。

「それで、魔力に耐性のない俺をどうする」

「そのように、警戒なさらないでください」

 ミオノールは寂しそうに言ったが、まさかシーヴはほだされなどはしない。

「私は、殿下のお望みを叶えて差し上げたいだけ」

「俺の望みか。俺の望みとは何だ。街をやろうなどと言い出すのではあるまいな」

 ふと、エイラの言葉を思い出してシーヴはそんなことを言った。ミオノールは首を振る。

「殿下がそのようなことを望まれるとは思っておりません。殿下が本当に望まれるのは――」

 女はすっと立ち上がった。シーヴはそれを睨みつける。だが女はそれにかまわずに一歩を進めると、青年へ向けて手を差し出した。

「お帰りになること。あなたの、砂漠へ」

「何を」

 シーヴは、自身の鼓動が跳ねたのを感じた。

 心に蘇るは、かの地の風。乾いていて、熱くて、懐かしい。

「俺は、そのようなことを考えてはおらぬ」

 だがそれを見せぬままで、彼は淡々と答えた。

「考えぬようにしておいでなのでしょう。殿下が属していらっしゃる場所。思えば懐かしくなり、戻りたいと思われるから、努めて考えぬように」

「馬鹿を言うな。俺は確かに砂漠を――俺の故郷を愛している。だが、そこに帰るのは全てが終わってからだ。少なくとも、お前が俺の前に二度と現れぬようになったあとのこと」

「そのように言われては少し寂しく思いますが」

 ミオノールは手を伸ばしたままで言った。

「ご無理をされなくともよいのです。このミオノールは殿下の望みを叶えて差し上げます」

「魔術で跳ばされるなど、真っ平だぞ」

「ご経験をお持ちですか」

 女は薄く笑った。

「ご心配されずとも、安全に運んで差し上げます。さあ、手を」

「魔術で無理矢理に帰されなど、せん。俺が帰るときは俺の意志で、俺のこの足で帰る」

「恋しくはございませんか。冷たい空気などない、熱砂の国。殿下の愛する、熱い風」

「やめろ」

 シーヴは三度(みたび)言った。

「下らぬ手妻など、使うな」

「意地を張られずともよいのです」

 女の声がぐっと優しくなった。シーヴは目眩を感じる。甘い香りが漂った。これは、百合(フオル)だろうか。

「何も、殿下を追い払おうと言うのではございません。ここに――殿下のお嫌いになるらしい魔術で結びつけられているリ・ガンの近くにお戻りになりたいと仰るのでしたら、すぐにでも戻して差し上げます。ただ、殿下にはリ・ガンなどよりもっと大切に思う女がおありのはず」

「何だと」

 何故知っているのか、などと問うつもりはなかった。リャカラーダの恋人が砂漠の娘であることなど秘密ではない。彼の身分、彼の故郷、彼個人を知っているのなら、レンは当然、知っているであろう。

「お会いになりたいでしょう」

(――ミン)

 その名を――その顔、その姿を思い浮かべないことなど、できなかった。

 エイラに惹かれていると思うたびに、だがそれは女としてではないと考え直し、心に思い浮かべた砂漠の娘。

(シーヴ様)

 彼に近い色の肌。いつでも明るい笑顔。豊かな黒髪と、赤い唇。

「……惑わすな!」

「惑わしなど、いたしません」

 ぎゅっと閉じた瞳の向こうから、変わらず女の声がした。

「選ぶのは、あなたです。リャカラーダ様」

 選ぶ。

 何を。誰を。――何処を。

(俺は、帰ると誓った)

(だがそれは、全てを終えたあとのこと。いまではない!)

 シーヴの叫びは声にはならなかった。

(いいえ、よくお考え下さい)

 やはり声ではない声が、彼のなかで響く。

(殿下は、そのとき(・・・・)まで一度も(・・・・・)帰らぬ(・・・)とは、お誓いになっておりません)

 全身の血がざわりと逆流するかのような感覚があった。

(――シーヴ様)

 懐かしい、声がする。

(やめろ!)

(シーヴ様……帰ってきて。ねえ、戻ってきて。シーヴ様のラッチィのもとに)

(ミン、俺はまだ帰れない)

(どうして?)

(どうしてなの、シーヴ様?)

(――ミン)

(シーヴ様)

 声が頭のなかで響き渡る。それは、あまりにも甘美な声だった。彼の砂漠の恋人は、こんなにも甘い声をしていただろうか――?


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