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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第4章

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02 ひとりで守ることはできまい

 少年が変わらずに故郷で暮らしていたならば、彼はそれまでと同じように十九回目の誕生日を自身の街で迎えていたことだろう。

 十八になって少ししたあの春の日に、彼の運命は大きく動いた。一年前には冗談としか思えないような暮らしへと彼を投げ込み、翻弄し続けた。

 そしてそれは続いている。いまでも。

 しかしアーレイドの街は、少年の運命にもその街の名が表す翡翠(ヴィエル)の運命にもまるで無関心であるかのように、何も変わるところを見せない。

 今年も、アーレイドの春は美しい。

 第一王女の婚約が発表された〈変異〉の年であるからと言って、花々が例年よりも艶やかに咲き誇ると言うようなことはないのである。

 ただそれでもやはり、この街の春が美しいことに変わりはなかった。

 街の北方、貴族たちの別邸が軒を連ねる街区にあるキド伯爵ルーフェスの館にも、同じように春は訪れていた。小さな庭園は決して派手ではなかったが、優しい色合いの花々が短い命を謳歌しており、見る者の目を楽しませる。

 館の主は少し離れた地に領土を持っていたが、王の信頼篤い多くの貴族がそうであるように一年の多くを王城のある街のこの館で過ごしていた。それは、家族を亡くしてキドの世話を受けたかつての少年、現在はシュアラ王女の護衛騎士(コーレス)であるファドック・ソレスも同様だ。

 彼はキドの館の一室を使用する許可を受け──伯爵は、それを当然のことと考えていたが、ファドックは「許可を受けている」という姿勢を崩さなかった──城に詰めていなくてはならない用事がないときは、そこに帰ってくる。

 王女の婚約が決まったばかりの頃は警備体制の変更やら見直しやらでろくに寝る暇もなかった彼も、半月もすると以前よりも時間ができていた。

 と言うのも――護衛騎士として王女を警護するという形が激減したからである。

 これまでは、王と城の警護を近衛隊が、王女個人の警護を護衛騎士が担うという形式であったが、近衛隊に次期の王の警護という任務が増えたとき、そこには同時に次期王妃の警護という任務も発生した。

 ロジェスとシュアラがともに警護されるとき、彼らのそばに立つのは近衛兵であって護衛騎士ではない。

 ファドック・ソレスというのはあくまでもシュアラ・アーレイド個人の騎士であり、個人の騎士であるということはたとえその夫からでもシュアラを守るのが彼の仕事だ。だが同時にキドを通してアーレイドに仕える彼は、心の内はどうあれ、その「仕事」を表面に見せることは決してしないだろう。

 部屋の戸が叩かれたとき、それでもファドックは仕事――新たに増えた兵たちの訓練はイージェンだけでは追いつかず、またその任に就いた彼は訓練内容を練り直していた――をしていたが、キドの館だろうと城だろうと彼付きの使用人などはいなかったので、彼は筆をおいてそれを開けにいく。

「何だ」

「セル、す、すみません、お仕事中に」

 この館で昔から彼を知る者は、使用人もみな彼をただ名前で呼んだが、彼が騎士となってから新しく雇われた者たち、殊に若い娘はどうしても敬称をつけた。

「かまわないが、それは?」

「あの、セルに直接、お渡しするようにと」

「私に?……そうか、ご苦労だった」

 娘の手から一通の書状を受けとると、ファドックは娘に礼を言って戸を閉め、そのまま自身の仕事に戻る――ことはできなかった。

 城にいればちょっとした連絡事項やら、簡単な辞令から正式な文書まで、文官ではない彼のもとにも様々な書類が届くが、キドの館にいる彼のもとに書が届くことなど、まずない。公式のものであろうと個人のものであろうと、同じだ。

 彼は間違いなく彼の名が書かれた白い封筒を裏返すが、そこには差出人の署名も、それを示す、或いはほのめかすどんなしるしもなかった。

 だが、それでも伝わるものは――ある。

 思い出したくもない双頭の蛇の印などが押されていなくくとも、それが彼に与える不吉な印象は減じることはないのだ。

 中身と署名を確認しなせずとも、それが〈魔術都市〉の王子の手によるものであることは〈真夏の太陽(リィキア)〉よりも明らかだった。

 これは何も、この書に魔法がかけられていると言うことではない。ファドックは魔術を感じ取る力など持たぬから、そうではないだろうと思う、と言うのが正しいかもしれなかった。

 だがそれでも、伝わるものはあるのだ。

 まるで毒でも塗られているように、その書を持つ彼の手には痺れるような感覚が鈍く走っていた。

 それは、現実の感覚ではない。

 それは、敵を見分ける戦い手(キエス)の勘か、それとも〈守護者〉の「本能」か。

 ファドックは嘆息した。

 何が書かれているものか見当もつかないが、心楽しくなるものでないことだけは想像してみなくても判る。

 できることならばこのまま捨て置くか、焼き捨てでもしてしまいところだが、幸か不幸か彼はそういうことのできる男ではなかった。彼としてはずいぶんと長い躊躇いののちに、ようやくその封を切る。

 簡単な文面は読み返してみるまでもなく、同じように簡単な内容も頭で繰り返す必要はなかった。

 時刻と店の名前だけが記された文章を忘れ、このようなものは見なかったことにしたかったが、やはり彼はそういうことのできる男ではなかった。


 ――〈翡翠の夢〉などという名の店をアスレンは面白がって選んだのだろうが、ファドックは、まさかわざわざそういう店を作ったのではあるまいな、などと苦々しく考えた。

 彼は城の業務時以外に剣を帯びて街を歩くことは滅多になかったが、このときはそれを躊躇いもしなかった。高位の魔術師を相手に剣など役には立たずとも、その装備は彼の立ち位置を明確にする。

 薄い緑色に塗られた扉はきれいに磨かれており、高級な街区ならではの品のよい様子を見せている。執事然として扉の前に控える男は、店の雰囲気に相応しくない人間がやってくれば入店を断るべく、待機しているのだ。

 ファドックがこういった「格式のある」店を自ら訪れることは少ない。だが、キドの連れとして出かけたり、訪れてみたいがひとりでは勇気のない若い兵士に頼み込まれたり、そう言った形でやってきたことは幾度となくあった。

 もちろんと言おうか、彼はとめられることなどなく、素早く開けられた戸をすっと通り抜ける。

 店内は薄暗く、吟遊詩人の爪弾く弦楽器(フラット)の音が優しく流れていた。

 広めの空間を取り、天井から吊るした布や薄板で席と席の間を仕切った作りは恋人たちの逢瀬や――密談には適しているようだった。

「ソレス様でいらっしゃいますね」

 城の使用人のものより上等に見える制服を着た若い男がすぐに姿を現してそう言った。

「お連れ様がお待ちです」

 ファドックが応とも否とも言わぬうちにに店の男は続ける。

「連れと言われたくはないがな」

「――は」

「いや、いい。案内を」

 ファドックは手を振って自身の呟きを打ち消し、男もそれ以上は聞き返さずに彼を先導する。

 案内されて進む通路からほかの客の姿は見えず、上客中の上客だけが通される場所であることは想像ができた。しかしそれは、たとえばキド伯爵のように階級を持つ人間であっても――真っ当な手段で生きていく者にはなかなか開かれることのない、小昏い気配を伴う廊下。

 店の男は暗い茶色をした扉の前までファドックを連れて行くと、一礼をして案内が終わったことを知らせ、そのまま姿を消した。

 ファドックはその扉を睨みつけるようにし、取っ手に手を伸ばす。

 ――と、彼がそれに触れる前にとは音もなく開いた。

「時間に正確だな」

 ファドックが立つ廊下と同じような薄暗がりのなか、しかしもっとずっと暗く、寒くさえ感じるその部屋の奥から――レンの第一王子の声がした。

「何を臆する? 疾く入れ」

 ファドックは無言のままで一歩を進めると、アスレンが魔術で開いたのに負けぬほど静かにそれを閉じた。

「やってこないのではないかと思ったが」

 黒革の長椅子に軽そうな身体を沈め、足を組んでくつろいだ姿勢を取ったまま、アスレンは言った。隣にも背後にも、供の姿はない。

 極細の銀輪は暗がりにも輝く白金の髪の内に埋もれ、青と白の宝玉はまるで不思議な力でその額に貼り付いているかに見えた。胸に下げられた飾りは金の網鎖でできていたが、輝石たちはこれまた青と白を基調としており、額の光と対を為した。

 手触りのよさそうな黒いマントは、同じく黒い革椅子の上に無造作に投げられており、今宵の王子に真実、従者がいないことをうかがわせた。

 極薄の紫色に染められた上衣は暗がりのなかではその色をあまり感じさせなかったが、見るからに最上質の(イル)の拵えをしている。下衣は王子の目と同じ薄灰色をしており、脇に茶金の糸で縫いこまれた複雑な文様は何か魔術的なものを表わすのかそれともただの飾りなのか、魔術師でない者には判らなかった。

 脚を包むのはやはりよく手入れされた上等の編み上げ靴である。その靴が、かつて護衛騎士を蹴りつけたものと同じであるとは限らなかったが――アスレンならば、わざわざそれを選んで身につけてきそうなものではあった。

「お前の身分ならば、我より先に来ておくべきだな。だがお前が遅れた訳ではない。我が楽しみ(・・・)で早く来てしまっただけのことだ、咎めはせぬ」

 ファドックは何も答えない。答えるべき言葉があるようには思えず、また言うべき言葉を探す気にもならなかった。

「何をそうして突っ立っておる。座れ」

 アスレンが言うと、ようやくファドックは反応を見せた。即ち、小さく首を振ったのだ。

「私は、このままで」

「ほう」

 アスレンは面白そうに片眉を上げた。

「座れと言っても従わぬか。今日は我が前に膝をつく気も起きぬと見えるな」

 ファドックはまた何も――言わない。

「お前は我に腹を立てているのに、理性がまだ邪魔をするのだろう。できることならばその剣を俺に突きつけたいと思っているはずだ。だが、できぬ」

「何故」

 騎士は、まさしく怒りを堪えているかのようにゆっくりと言った。

「私がそうしない(・・・・・)とお思いに?」

 その言葉に王子は笑った。

「何故なら、ソレス。お前は、自分が剣を抜くよりも早く我がお前の心臓をとめることができると知っているからだ。お前は、我は手に入れるのはどちらでもよいと思っていることを知っているからだ。お前の忠誠と――命とな」

「私があなたを怖れていると」

「そうとも」

 アスレンは嬉しそうに言った。

「お前は怖れている。また、誰かが傷つけられるのではないかと」

二度は(・・・)させぬ(・・・)

 返答は早かった。

 この日ファドックには最初から「王子」への敬意を払うつもりはなかったが、いまの声には最低限の――たとえば、酒場の主人に払うほどの敬意すら、含まれなかった。

 アスレンも無論、それに気づいた。無論、最初から気づいている。この王子はそれもまた面白いと思うのだ。先日は完璧に近いほどレンの儀礼を持って王子に(ひざまず)いた騎士が、今日はかけらもその気を持っていないこと。

「いい目をする」

 たいていの相手であれば怯む、ファドックの強く厳しい視線は、アスレンをそよとも動かさない。

「それは、愚か者の瞳ぞ」

 アスレンの目が細められた。

「そうして我を睨み付けることで、我から何かひとつ、誰かひとりでも守ることができると思っておるのか?」

 アスレンは寄りかかっていた背もたれから身を起こす。

「欲張りすぎだな、騎士殿。アーレイドの全てをお前ひとりで守ることはできまいよ」

「――全てをなどとおこがましいことは思わぬ。だが、我が腕の届く限りは」

「そこが勘違いだ」

 アスレンはファドックの言葉を遮ると、にいっと笑った。

「たとえば、ソレス。我がお前への罰として、ひとりの子供の命を奪うとしよう」

 そのたとえ話だか――本気だかに、ファドックは微かに眉根をひそめた。アスレンは続ける。

「それが、お前に全く縁もゆかりもなくとも、お前は子供を守れなかった責を自ら負うだろう。お前は自分の力の限界を判っているようなことを言いながら、アーレイド中にその腕を伸ばすつもりでいる。だがそれは無理だ、ソレス」

「……私が言うことを聞かぬ腹いせに、罪なきものを傷つける。アスレン(・・・・)、お前は一度そうした。私は二度はそうさせぬと言っているのだ」

 レンの王子は、平民に名を呼び捨てられても激高することなく――笑った。

「どうやって。ソレス、どのようにして我をとどめる気でいるのか?」

 ファドックはそれに答えず、そら、答えられぬだろう、とアスレンは言った。

「しかし、如何に我とて、本当に何の謂われもなき子供を殺して楽しむつもりはない。我はお前にお前の()というものを教えてやろうと言うだけだ」

 アーレイド城の誰に聞いても、ファドックほど「自らの分を知る」人間はいないと言うだろう。だがアスレンは――おそらくはそれを知りながら――そんなことを言った。

「ふたつに、ひとつだ。選べ。お前はシュアラ王女を守るか、それとも一度守り損なった籠編みの女を守るか?」

「選ぶ必要などない」

 ファドックは即答した。

「私はどちらをも――守る」

 南の〈守護者〉が答えたのと同じような台詞を西の〈守護者〉もまた言った。外見は似ておらずとも、かつて少年が見て取ったように――ふたりの〈守護者〉はよく似ていたのだ。

「その答えは、不正解だ。欲張るなと言ったろう」

 しかし出来の悪い生徒に向かう教師であるかのように、アスレンはため息をつくと首を振った。

「選ぶのだ、ソレス。我はこうしてここに座していても、王女であろうとあの女であろうと――お前の大恩人であろうと、お前の教え子の近衛兵であろうと、厨房の友人であろうと、お前に恋する可愛い侍女であろうと、片手を動かす手間もかけずに苦しめることができるのだ。お前にはとめられぬ。だが」

 アスレンは、白い手袋を嵌めた左手の指を一本立てて、ファドックを見た。

「選ばせてやると言っている。道はひとつだ。シュアラか。アニーナか。それとも」

 ゆっくりと、護衛騎士の反応を伺うように第一王子は言った。

「俺に跪くか……だ」

 三つ目の選択肢を口にのぼせたライン・アスレンのその薄い灰色の目は、楽しくて溜まらないと――言っていた。


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