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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第3章

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10 新しい愛人

 伯爵の新しい愛人の話は、城内の使用人たちの間で、いろいろな憶測を伴って噂になった。

 まず、ゼレットが余所の人間を繰り返し閨に呼ぶというのは極めて稀なことで、それだけでもサズがかなり気に入られたのだろうと噂になるが、それが占い師などというゼレットが好まぬ職種の人間であることが、主の夜の遊びには無関心であった者たちの興味をも引いていた。

 ゼレットは相変わらずサズに町憲兵をつけており、サズの方も変わらずゼレットの「忠犬」のようであるので、使用人たちがこの占い師の人となりを知ることはなかったが、これまでになく伯爵が執心(・・)だという結論に異を唱える者はいなかった。

「あまり、感心いたしませんけれど」

「何の話だ」

 書類から目を上げて、ゼレットは脇に立つ女性執務官を見た。

「あの占い師ですわ、お判りでしょう」

 ミレインは苦々しい様子を隠そうとしながら言った。

「あやつがどうした」

「差し出口ではありますけれど」

 咳払いをして女性執務官は続ける。

「寝台にまでお連れになるのは、どうかと思いまして」

「そのことか」

 ゼレットはにやりとした。

「俺が誰を抱こうとかまわんのではなかったのか」

「もちろん、お好きになさいませ。閣下の数多い『女』のひとりとしては何も口を挟みませんわ。でもこれは執務官としての意見ですのよ」

「何故だ、俺が魔術でたぶらかされているようにでも見えるか?」

「閣下が『たぶらかされる』ところならばいっそ見てみたいくらいですけれど」

 執務官は澄ました顔でそう言い、主人を笑わせる。

「笑い事ではありませんわよ、閣下。執務をおろそかにして色事にうつつを抜かす、と取られても仕方のないことをされているではありませんか」

「そんなのはいつものことだろう」

「韜晦はおやめ下さい。閣下はこれまで、どんな相手に夢中になった『ふり』をされても業務を滞らせたことはございません。それはこのミレイン、神に誓って言えますわ」

「礼を言うべきか?」

「お好きになさいませ」

 ミレインはまた言った。

「それがいまはどうです、カーディルを出ないであの占い師のことばかり気にしているように見えます。エイルのときを思い出しますけれど、彼よりも余程、ご執心のようですわね」

 ミレインの言い様にゼレットは片眉を上げた。

「何故、そう思う」

「ほかの人間を彼に近づけようとされませんもの」

「ふむ。少し誤解があるようだな」

 ゼレットは肩をすくめた。

「あやつの方が、俺しか見ていないのだ」

「大した自信ですこと」

 執務官は澄まして言うが、ゼレットは首を振った。

「俺は驚いているのだ、ミレイン。あやつがあまり俺に――熱い視線を寄越すのでな、試しに誘ってみたら躊躇なくついてきた」

「……そんなご報告はしていただかなくても結構なのですが」

「まあ、聞け」

 ゼレットは瓏草(カァジ)を取り出し、ミレインにも差し出した。女性執務官は礼を言ってそれを受け取る。

吟遊詩人(フィエテ)などと違って占い師(ルクリード)が春をひさぐという話も聞かないが、簡単についてきたことから……俺は、あやつは男に慣れておるのだろうと思った」

「お気をつけ遊ばせ、おかしな病を伝染されぬように」

「うむ、心に留めておこう」

 伯爵は真顔のままで言って、続けた。

「気持ちのよい話ではないだろうが、聞け、ミレイン。あやつはな、初めてであったぞ」

 それを聞いたミレインは、この世でいちばん不味いものを食べたような顔をした。

「誤解をするなと言うに。愚かな男のように、処女を抱いたと自慢しておる訳ではない」

「そうでなければ、何だというのですか」

「おかしいのだ。クジナの自覚があろうとなかろうと、男が初めて男に抱かれるとなれば処女以上に躊躇う。そう言った躊躇を覚えないほど俺に惚れたのだとしたら、もう少し……まあ、これ以上はやめておくが」

 ミレインがまたも不味そうな顔をして上等の瓏草の煙を吐き出したので、ゼレットは咳払いをした。

「では、閣下は彼を何だと思っているのですか?」

「あれはな、ミレイン。間者だ」

 ゼレットは、今日はいい天気だ、とでも言う調子でそう言い、ミレインは瓏草を吸うことも忘れてじっと主人を見た。

「……そうお思いになりながら、寝台にお連れに?」

「いかんか?」

 ゼレットはにやりとした。

「征服欲というものを覚えたのは久しぶりだからな」

「……閣下」

「冗談だ」

 あながち冗談とも思えない調子でゼレットは言った。

「その趣味もないくせに男に抱かれるのを厭わぬとは、相当の覚悟だぞ。仕込まれた密偵であれば身体ぐらい使っても当然かもしれんが……それとも、想像を絶する罰を逃れるためならばその程度のことは何でもないのか」

 彼は首を振った。

「怖ろしい街なのだろうな。――レンと言うのは」

「レンの間者だと言われるのですか」

「間違いなかろう。奇妙な狼の印などなくとも、俺はそう確信している」

「しかし……協会(ディル)は彼は誰にも仕えていないと保証したでしょう」

「サズの方が力が強ければその保証は消し飛ぶそうだ。だが、サズにそれだけの魔力があるのならもっと俺をいいようにできるだろう」

 少なくとも抱かれずに済ますだろうな、などとゼレットは言った。

「網を……すり抜けているのかもしれん」

「網、ですか」

「そう、たとえばミレイン、俺がどこだかの貴族の内情を知りたいと思って、お前に調査を命じたとしよう。そうなればお前はもちろん俺の執務官ではない、ということになるが、俺はお前の忠誠を疑わぬだろう」

「……なかなか有り得ないたとえですけれど、だいたい判りましたわ」

 ミレインは嘆息した。

「では、サズは閣下に近づくため……もう、これ以上ないほど近づいてはいるのですから、信頼を得るため、としましょうか? そのために、閣下の愛人という名誉だか恥辱だか判らない地位に就いていると言われるのですか」

「顔には見せんが、相当の恥辱だとは思っておるだろうよ」

 ゼレットは平然と言った。

「それを名誉に思うよう、変えてやろうというのはやはり征服欲かな?」

 肩をすくめて言うゼレットにミレインは処置無しとばかりに首を振ったが、ふと思いついたように声を出した。

「エイルについてはどうですの。私はてっきり、なびかぬ少年をなびかせることが閣下のご希望だと思っていたのですが、あれは征服欲ではなかったと?」

「あれはな……」

 ゼレットは頭をかいた。

「俺にも、よく判らん」

「まあ」

 ミレインは、これまでの話の間でいちばん驚いた顔をした。

「お教えしますわ、閣下。そういうのは、恋、と申しますのよ」

 ゼレットはうなる。

「それにしても、懐かしい気がしますわね。いったい、エイルは今頃どう」

「ミレイン」

 そこでゼレットは執務官の呟きを遮った。

「そのことだが――サズの前で、エイルの名を口にしないように」

「……どういうことです」

「判らんか? 判らんだろうな」

 ゼレットはようやく、自身の瓏草に火をつけた。

「狙われておるのは、エイルだ」

「どうして、そのような」

 伯爵の言葉にミレインは眉をひそめる。

「お前はカーディル家の伝承を知っておるな」

 ミレインはうなずいたが、胡乱そうな表情は隠せなかった。

「要するに、エイルが翡翠を手にすべき正しき者で、レンはそうではないということだ。……そんな顔をするな、俺だって伝承など信じてはおらんかった」

 ミレインが、自身の主人が熱でも出したのではないかというような心配そうな顔をしたので、ゼレットは天を仰いだ。

「だが、疑い深い俺をも納得させる天啓でもあったのだと思ってくれ。ともあれ、サズに翡翠の在処を知られる訳にはいかん」

「どうせ、どこにあるのかお判りにならないのでしょう?」

「まあな」

 ゼレットは嘆息した。

「何であろうと、俺は翡翠を守らなくちゃならん。エイルが戻ってくるときまでな」

 それとも、エイラかな――とは伯爵は言わなかった。

「……サズは、閣下が勘づいておいでだと知っておりますの?」

「どうだろうな」

 伯爵は煙をゆっくりと吐き出して言った。

「獣の彫り物を隠しておらぬのだから、本気で俺を騙すつもりとも思えんが……少し脅すかなだめるかすればすぐに正体を現すのではないかと思っておった。だが、何度抱いても固い殻を破ろうとせん。マルドが最初に評した通り、相当に強情だ」

「そのために、連夜、彼をお召しなのですか」

 ミレインは呆れたように言った。

「使用人たちがどんな噂をしているか、ご存知なのでしょうね?」

「好きにさせておけ。俺が奴に夢中だと――奴も思うのならば、そう思わせておく方が都合がいい」

「一挙両得という訳ですわね」

「妬いておるのか」

 ゼレットはにやりとした。

「馴染まぬ肌を馴らすも一興だが、やはり慣れた肌が恋しくもある。どうだ、ミレイン。この業務が済んだら」

「お断りしますわ。レンの間者に妬かれるなどご免ですもの」

「気づかれぬよ、あやつは部屋におるからな」

 ゼレットは立ち上がって瓏草を小皿に押しつけると、執務官の手を取った。

「まさかと思いますけれど、ここで、との仰せですか?」

「初めてのときを思い出すだろう?」

 言いながら伯爵は、ミレインの手からも瓏草を取り上げるとそれを消した。

「あのときは、私も閣下も若かったですもの。この年になってまで、あんな真似はできませんわ」

「そう言わずに俺を慰めてくれ、ミレイン。こう見えても落ち込んでおるのだ」

「……何を馬鹿なことを」

 ミレインは気難しい顔をして一蹴しようとしたが、背後から抱きすくめられると諦めたように息をついた。

「仕方がありませんわね。でも、仕事が終わってからですわよ」

「うむ、もちろん、そうしよう」

 ゼレットはにこにこと言うと執務官を解放し、再び卓につく。

「どこまで行ったかな」

「市で横行している不正についてですわ。春先になるとおかしなのが入り込んできて困ります」

「ふむ、大きな稼ぎを出した商人(トラオン)には業績を届けさせろ。不審な点がないか調べ、あまりに悪徳な者がおるようなら、厳罰を施さんといかんな」

 何事もないように伯爵と執務官が業務に戻れば、不意に扉の方で微かな音がする。かしゃかしゃ、と聞こえるそれにゼレットが顔を上げると、判りましたとばかりにミレインは戸に向かった。

「わたくしは時折、聞き逃しますけれど、さすがは閣下ですわね」

「これを聞き逃せば、あとで文句を言われるからな。俺が関わるなかでいちばん気難しい女だ」

 ミレインの細く開けた扉からすいっと入ってきたのは、白猫カティーラである。

「こいつを見るのは久しぶりのような気がするな。どこかへ行っていたのか」

「まあ」

 戸を閉めながら、ミレインは意外そうな声を出した。

「ではお気づきになっていませんのね」

「何にだ」

 ゼレットは不審そうに眉をひそめた。

「カティーラは、サズを避けていますのよ」

「……何」

「『恋敵』に狙いを定めないとのは少しカティーラらしくありませんけれど、勘のいい動物ですもの。魔術師(リート)というものを不気味にでも思って、嫌うのかもしれませんわね」

「……いや、(ミィ)というのは元来そういうものが好きで……魔術師のなかには猫を連れ歩くものも珍しくないと聞いたことがある、が……

 そんなことを返しながら、ゼレットはじっと白猫を見つめた。

「ミレイン。この……猫が現れたのはいつだったかな」

「今年の初頭ではございませんでした?」

 ミレインは首を傾げて答えた。

「どこから入り込んだのか、いつの間にか城内を歩いていて、あまりにも我が家然としていたので、面白がって世話することにされたのでしたわね?」

「そう……だったな」

 ゼレットは考え込むようにしながら返事をした。

「閣下?」

 ミレインが不思議そうな声を出す。

「今年……か」

 〈変異〉の年に現れ、城内に存在する。エイラに懐き、翡翠を狙うと思しき占い師を避ける――猫。

「まさか、な」

 ゼレットは呟くと首を振る。

「カティーラがきたのでは、先のお約束はなしですわね、閣下」

 わたくしは噛みつかれるのは嫌ですから、とミレインは言った。

「む? うむ……いや……」

 ゼレットはそれに対して何か巧い言葉を返そうとしたが、それはどうにも叶わなかった。彼は、自身の膝に飛び乗ってきて丸くなったカティーラから、目を離すことができなかったのである。


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