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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第2章

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08 長き微睡み

 穏やかな眠りのなかにいた。

 こんな優しい眠りは、ついぞ経験したことがない。

 記憶もない赤ん坊の頃ならば、母の腕にこうして安らいだこともあるだろう。だがそんな頃のことは覚えていない。

 物心ついたときから、目覚めれば布団のなかで微睡むことなどせずに起き上がり、くたくたになるまで動き回った。ささやかな食事をして床につけば、あとは泥のように眠った。

 そこが薄藁を敷いただけの生家の床でも、臭くて固い安宿の寝台でも、簡素ながら上質な城の寝台でも、旅路の地面の上でも、してきたことはずっと同じだった。

 心地よい暖かさに包まれながらぼんやりと夢見がちにうとうととしていることなど、これまでの暮らしにはなかった。

 この先にも、こんなことはないだろうと思っていた。

 何故なら、そう――いつしか、眠りを必要としなくなっていたのだから。

 翡翠が呼ぶ。リ・ガンを呼ぶ。

 早く我を呼び起こせと。この、長き微睡みから逃れさせよと。

 だが、リ・ガンもいまは微睡んでいる。

 〈鍵〉たちが女王陛下と表現した存在の力を人間の形をした容器に受け、その身体は酷く――傷んだのだ。

 何故その力を受けることとなったのか、意識が途切れる直前まで身に迫っていた恐怖と驚異は、いまその記憶の内にない。

 ただ、リ・ガンはリ・ガンだけが知る完璧なる世界のなかで、絶対的な安心感に包まれながらうとうととしていた。

(あれは、誰の、声)

 リ・ガンを呼んでいるのは、翡翠だけではなかった。

(あれが誰か……俺は知ってる)

 それは誰の声で、誰の名を――どの名を呼んでいたと言うのだろう、

 だが、その声がリ・ガンの心を騒がすことはなかった。

 ほんのりと、明け方の白い(ヴィリア・ルー)が投げかけるような儚い、だが優しく穏やかな光が辺りに満ちている。大丈夫なのだ。ここにいれば。

 ここに、こうして。このまま?

 声がする。

 真白き〈翡翠の宮殿〉のただなかで、リ・ガンは穏やかな――ともすれば悪夢に変わりやすい浅い夢の淵にいた。

(――エイル)

 少年は振り返った。

「……ファドック様」

「どこへ行っていた、長旅だったな」

「どこって言うか、いろいろです」

 何と答えたらいいのか判らなくて、少年は曖昧に言った。騎士は笑う。

「いろいろ、か。たくさんのものを見てきたのだろうな、お前は」

「まあ、普通ならしないような経験もしてきたってとこですかね」

 少年は自身の「経験」を茶化すかのように言った。

「みんな……元気ですか」

 少年の控えめな問いに、ファドックはまた笑った。

「ああ。イージェンもトルスも、相変わらずだ。レイジュやカリアもな。だが」

 騎士は目を細める。

「お前が尋ねたいのは、シュアラ様のことか」

「いやっそんな」

 少年は首を振った。

「いや、その、もちろん訊きたいですけど、別にシュアラだけってことはないです。だから『みんな』って」

 慌てた様子の少年をファドックは優しい目で見た。

「何故、気づかなかったのだろうな。そうして戸惑う姿はお前と同じ表情をしていたと言うのに」

「え?」

 少年は聞き返す。

「何の……ことですか」

「もしやと思い、まさかと思ったが……あれはお前だったのだな、エイル」

「ファドック様……?」

 騎士が何の話をしているのか、少年は判るような気がした。

「どうして……」

 鼓動は激しくなっていた。気づかれた。うまくごまかせたと思っていたのに、気づかれたと、言うのか。

「〈守護者〉はリ・ガンを見分ける。そう言ったのはお前だろう。あのときは騙されたが」

 そう言ってファドックは笑った。

「何故、言わなかった。私が信じないと思ったのか? それとも、不気味に思うだろうと? 奇妙なことだとは思うが、お前はどんな姿をしてもお前だろう」

「ファドック様、俺」

 少年は戸惑った。

「俺……怖かったんです」

「怖れるな。私は私で、お前はお前だ。何があろうと。何処へ行こうと」

 ファドックはふと、どこか遠くを見るような目つきをした。

「お前は……遠くまで行ったのだな。遠く――大砂漠(ロン・ディバルン)まで」

「え――どうしてそんな」

 少年は驚いた。彼はそんな話はしていないし、ビナレスの西端にあるアーレイドから東方の大砂漠へ行くなど、「果てなき世界の果てを探す」ようなものだ。実際に少年は砂漠を訪れたが、アーレイドに住んでいる間はそんな世界を想像してみたこともなかった。たとえにしても、いまのファドックの言い様は少し奇妙だ。

「どうして……俺がそんなところまで行ったなんて思うんですか?」

「砂漠の――」

 少年は目をしばたたいた。

 ファドックだと思っていた相手は、いまや違う姿をしている。

「話をするなんて、西じゃ大冒険家かほら吹きだと思われるだろうな。だが俺には慕わしいものだ」

 黒髪の護衛騎士の姿は黒髪の砂漠の王子のものとなり、彼ははるか東方に視線をやっていた。

「熱い風は心地いいとは言えないだろうな。それに、砂混じりの強風に遭いでもしたら目も開けていられない。だが、俺はそれが好きだ」

「……シーヴ?」

 確かめるように娘は言った。そこにあるのは間違いなく、シャムレイの第三王子の姿だった。

「昼は獄界の炎を操り、夜は冥界の冷気を持つ世界。楽な暮らしはできないが、そこが俺の世界だ。俺は、冗談にも心優しいとは言えない砂漠の女神に参ってるのさ」

「あんたは……そこに、帰るんだろうな」

 何となく、娘はそんなことを口にした。こうして、彼の隣にいると安定感を覚える。ファドックの言葉によって動じさせられた心は、すっと鎮まっていた。

「もちろんだ」

 シーヴは即答した。

「俺の砂漠。東の地、俺の街。懐かしいな。だが、いつになったら帰れるのか」

「帰れるさ」

 娘は言った。

「言ってるだろう、あんたはいつだって……帰っていいんだ。私の探索行につき合わなくたって、あんたが私の〈鍵〉であることに変わりはない」

「いや」

 シーヴは首を振った。

「俺はまだ帰らんよ。帰るのは、全てが終わってからだ」

「全てが……?」

 いったいどの時点になれば、全てが終わったことになるのだろう。彼女もまた、帰ることができるのだろうか。

 ――いったい、どこに?

「私は……どこに帰ればいいんだろうな」

 ふとそんなことを呟いた。シーヴの目が娘に注がれる。

「ならば、お前も俺と共にこい、エイラ。俺と共に、俺の街へ」

 娘は目をしばたたいた。それは、ただの誘いよりも強い言葉に聞こえた。関係と状況によっては――求婚とさえ取れる。

「馬鹿なこと言うなよ、王子殿下(・・・・)。悪いけど、私は……砂の街には興味ないよ」

 そんな言い方をした。シーヴは再び東方を見ながら続ける。

「そうか。それなら」

 言葉を聞きながら、娘は同じ方向を見やった。

「俺には?」

 娘は驚いて飛び上がりそうになった。不意に、声は耳元で囁かれたのだ。

「東の地に興味がなくても、俺にはどうだ、エイラ?」

「お、おい、何を言……」

 その息吹も感じられるほどに声は近くなり、娘の動悸が強くなる。

「馬鹿は……よせ。私は、お前が思うような……その、俺は、お前の〈翡翠の『娘』〉なんかじゃないんだ、俺は――お前に言っていないことが」

 だが言葉は続かない。強い腕に絡みつかれた。


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