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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第2章

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07 誰もいない部屋

 特に大きな祝祭が開かれた、というようなことはなかった。

 城内では公式に祝宴が開かれたが、城下にはただ、シュアラ・アーレイド第一王女とロジェス・クライン侯爵の婚約が正式に決まったと触れがあっただけだった。市民へのお披露目という形は、もう少しあとで作られることだろう。

 ともあれ、めでたい話ではあったから、城から祝い酒の類が振る舞われなくとも、街は勝手にお祭り騒ぎとなっていた。

 露店はいつもより長く通りに居座り、屋台も少し値引きをして客を呼んだ。花屋の口上も「軒先に祝い花を飾ろう」という類のものとなり、結婚できる利益があると(うた)った護符――無論いんちきであったが、判っていて買う者がほとんどだし、普段は厳しい魔術師協会や神殿もこのような際は大目に見た――なども売られていた。

 幸か不幸か、アニーナの作る籠は祭りだろうが宴だろうが、目に見えて売れ行きが変わると言うことはない。

 財布の紐が緩くなった人々が、便利そうだからひとつ買っておこうかなどと思う機会は普段よりも増えるらしく、仲買人は通常よりも少し多めに彼女から仕入れていったが、彼女のささやかな生産が追いつかなくなるようなことはなかった。

 だからアニーナの日常はほとんど調子を狂わされることなく、いつもより少し気忙しいだろうか、くらいのものだった。

 こんなことになれば、町憲兵であるエイルの友人ザックも、もちろん護衛騎士ファドックも忙しいだろうから、彼女を訪れるのは仲買人か、近所の話し好きのご婦人方くらいのものとなる。それも、前者は決まった日ごとにくるが、後者も暇をもてあましている訳ではなかったので――生憎と、貧しい南区には旦那の稼ぎだけで食べていける妻は滅多にいないのだ――彼女は息子が街を飛び回っていた頃と同じように、材料を買っては日がな一日籠を編んでそれを売ると言う、客人が現れない暮らしを続けていた。

 そう、不意の客人などないはずだった。

 扉がばたんと開かれたとき、床に座り込んで籠を編んでいたアニーナはてっきり、立て付けの悪い扉がとうとう壊れたのだと思ったものである。

 あと一目、というところだったので、彼女はそれを編み込んでから顔を上げ――光と視界を遮る人影に気づき、誰何をしようと口を開いたが、声を発することはできなかった。

 人影は扉を開けたのと同じように乱暴な歩調で彼女に近づくと、何も言わずに彼女に平手打ちを食らわせたからだ。

「な」

 何をするんだい、と言う非難の声もやはり、出せなかった。

 不意に打たれて倒れ込んだ彼女の上に侵入者がのしかかったかと思うと、その手には短剣が握られていたからだ。

「わ、渡せる金なんて、ないよ」

 アニーナは掠れる声でそう言ったが、侵入者の目当てが金だとも思えなかった。いったいどんな馬鹿が、貧乏人ばかりの南区に昼日中から押し込んで強盗など働こうというのか?

「金目当てじゃないさ、姐さん」

 逆光になっていてよく見えなかったが、その体格と声は間違いなく男のものだった。だみ声と厭らしい笑いは、真っ当に生きている人間のものとは思えない。もちろん、こんな真似をする人間が真っ当に生きているはずはない。

「いや、金目当てかな? こうすれば、金が手に入るんだからな」

 そう言うと、男は左手で素早くアニーナの両手首を押さえつけ、右手に持っていた短剣を振りかざした。

 女の悲鳴が、春の風が吹く南区に木霊した。

 そのあとには、逃げていく男の足音と、静けさだけが残った。


 ――アーレイドの南区には、町憲兵(レドキア)の巡回は滅多にやってこない。

 何故なら、ここの人々は盛り場でこそ騒動を起こすかもしれないが、自らの住処では生きることだけで精一杯であるから喧嘩騒ぎは起こさないし、その家にも同じように金がないことは知っているから、泥棒騒ぎなども起きないのだ。

 たとえば借金取りが過剰な取り立てをするようなことはあっても、それは町憲兵の捕縛の対象とはならない。町憲兵がこないのをいいことに後ろ暗い取引をする人間もなくはなかったが、そう言った悪賢さを持つ者は、繰り返し同じ場所を利用して怪しまれるような真似もしない。

 つまり、南区の「人間」が清廉潔白だというのではなかったが、南区という「空間」は法の監視と警戒から逃れていた。

 だがそれでも、異常な事態が起きたとなれば町憲兵を呼びに行く者もある。その噂は西区辺りの町憲兵たちにもやがて伝わり、ザック青年がその事実を知れば、青年は町憲兵隊長(レドキアル)に頼み込んで、城の護衛騎士(コーレス)まで伝言を送ることになる。

 ファドックが南区を訪れたのは、その四日後だった。

「何が、あったと?」

「わ、判りません」

 詰め所から連れてこられた町憲兵隊長(レドキアル)は、突然の騎士(コーレス)からの呼び出しにすっかり萎縮しており、このような戯けた返答をすれば怒鳴りつけられるのではないかと怯えていたが、彼にはそれしか返答の仕様がなかったのだ。

「我々が見たのは、誰もいない部屋と血痕だけ……ですから」

 ファドックは、女主もその息子もいない小さな家に足を踏み入れた。

 誰が掃除をしたのか生々しい血はとうに拭われていたが、敷布についたどす黒い染みと、赤茶く染まった細竹や籠が事件の痕跡を留めている。

 ふと何かが目にとまって、ファドックはかがみ込んだ。籠の影に転がり込むようにして落ちていたそれを拾った護衛騎士の目が細められる。

「――アニーナは」

「は」

「ここの住人はどうした」

「それでしたら」

 隊長はほっとしたように言った。これならば答えられる。

「一時は南区の医師のもとに担ぎ込まれましたが、その後は東区の医療院に」

「案内を」

「は、しかし」

 そう言って足早に小屋を出たファドックに慌ててついていきながら、隊長は目をしばたたかせた。

「もう、そこにもいないはずです」

「何だと」

 ファドックは足を止めて振り返った。

「どういう意味だ」

「あの……治療には、金がかかるので」

 隊長はまた、身をすくませていた。護衛騎士にこのようなことを説明しなければならない我が身の不運を呪っているだろうが、ファドックもまた、自らの迂闊さを呪っていた。何故、もっと早くこの出来事を知らなかったのだろうか。

「では、どこにいる」

「わ、判りかねます」

 今度こそ怒鳴られるだろう、と覚悟しながら町憲兵隊長は言った。だがファドックはそれを知らなくても彼の過失ではないと判っているので、もういい、ご苦労だった、とまで言って隊長を下がらせた。

 隊長は叱責ひとつ飛んでこなかったことに驚きながらも、詰め所に戻れば数日と経たないうちに格下げか解雇を言い渡されるのではないかと不安に思っていた。一旬もするとその心配は彼の内から消え、護衛騎士に伴われて話をした、と言うのは彼のささやかな武勇伝になるのだが。

 このときはまだ怯えたままの隊長が敬礼をして去るのを見送ることはせず、ファドックは一(トーア)考えると向かいの家の戸を叩いた。だが住民は留守なのか、やはり怯えているのか、なかからの返答はない。ファドックはしばらくそうして近隣の家を当たったが、成果は得られなかった。

 昼の内はみな仕事に出ているか、やはり町憲兵だの――先の事件などには関わりたくなくて黙りこくっているのであろう。

 南区の医師とやらを探そうと思って彼が再び歩み出したとき、前方の角から顔を出したものがあった。その女はファドックを認めると目を見開き――逃げるかと思いきや、手招きをした。

「ちょっと、お偉い旦那(セル)! アニーナを探してるんだろう?」

 その台詞に、ファドックは素早く女のもとに歩み寄った。

「居所を知っているのか」

「知ってるも何も」

 女は肩をすくめる。

「うちにいまさあね」

「では」

 ファドックは息をついた。

「無事でいるのだな」

「まあ、無事っちゃあ無事ですがね」

「案内してもらえるか」

「まあ、かまいませんがね」

 女はじろじろとファドックを見ながら言った。

 護衛騎士の制服であることは知らずとも、城の人間であることは推測がつくことだ。彼がこの街区を制服で訪れたのはエイル少年を「連れ戻した」夜だけであったから、アニーナを時折訪れる彼の姿を見ていた者があっても、制服を着た彼と結びつける者は少なかっただろう。

 城の人間がやってくる、というのと、若い男がやってくる、というのと、どちらがよりアニーナに迷惑をかけずに済むかは微妙なところであったが、彼が訪れるのは昼間であったし、エイルとその母を気遣うというのは少なくとも城の業務ではなかったので、彼はいつも制服を脱いでここへやってきていた。先に町憲兵隊長を連れて護衛騎士然と命令をしていたのは言うなれば職権濫用であり、ファドックとしては大変珍しい逸脱行為と言うことになる。

 ともあれ、投げかけられる視線を見れば、目前の女にとっては、アニーナの若い恋人であるよりも城の人間、それも「お偉い」人間であることの方が「胡散臭い」のだということは判った。ここで自分は平民だと言ってみてもはじまらないことは承知なので、ファドックはただ女を促すようにした。そうされれば女もそれ以上ファドックを見定めることはやめて、踵を返す。

「彼女はどうしている」

「口は達者ですけどね、あんまりいいとは言えないんじゃないですか。いきなり入り込んできた男に刺されるだなんて悪夢みたいな話ですけど、まあ、命があっただけめっけもんってとこでしょうよ」

 そう言ったきり女は口をつぐみ、そこから一(ティム)とかからない、やはり小さな家へ騎士を案内した。

「アニーナ、お客さんだよ」

「……何だって?……ああ、旦那(セラス)じゃないですか。どう……したんです、旦那はいま、お忙しいんでしょう」

 薄暗い室内の奥、木箱を重ねて無理矢理に作られた寝台らしきものの上に、エイルの母は横たわっていた。薄汚れた掛布をかけているが、左肩にこれまた薄汚れた包帯が巻かれていることは見て取れる。そして、その顔色が白に近いほどであることも。

「セリ」

 ファドックはその枕元まで大股に寄ると、その場にかがみ込む。

「ご無事で」

「やめてくださいよ……旦那が心配するようなことじゃ、ないんですから」

 アニーナは笑ったが、その笑みは弱々しかった。

「何てこと、ないです。少し休めば……治っちまいます、よ」

「旦那、ちょっと」

 先の女がファドックを呼ぶようにした。ファドックはアニーナに眠るよう言って、その場を離れる。

「――肩、か」

「左なのが、まあ、不幸中の幸いですけどね。回復してもあの腕はろくに動かすことも……できなくなるでしょうよ」

 傷口が癒えても治ることはないだろう、と言うようなことを女は言った。ファドックは首を振る。

「このままにしておけば、な」

「でも、どうしようも」

「半刻後に迎えを寄越す。彼女を渡してやってくれ」

 きっぱりとそう言ってから、騎士は少し躊躇い――こう、つけ加えた。

「必ず、城の人間であることを確認してくれ。礼はする」

「礼なんて、要りませんよ。アニーナはあたしの数少ない友だちですからね」

 女はほっとしたように言った。ファドックが「偉い」人間ならば彼女の友人のために何かしてくれるのではないかと期待しはじめていたのだろう。

「有難う、セリ」

「セリだなんて」

 女性への丁寧な敬称で呼ばれ、女は苦笑した。

「ウラシアってんですよ、あたしは。まあ、旦那みたいな立派な御方に名前を呼んでもらおうとは思いませんけど、セリってのも、ねえ」

「有難う、ウラシア殿(セリ・ウラシア)。あと半刻だけ、アニーナ殿を頼む」

 そう言われたウラシアは少し顔を赤くしながらまた苦笑し、彼女の小さな城をさっと出ていった騎士を見送った。

(これは――どういうことだ)

 足早に南区を駆け抜けながら、ファドックは考えた。

エイルの母(・・・・・)だからか? それとも――()か)

 どちらの考えもあまり歓迎できるものではなかったが、どちらかと言えば後者の方がましだっただろうか。

(レン――アスレン(・・・・)

 ファドックは習慣のように、思考のなかでも敬称を付けるべき相手にそれをつけなかったことはなかったが――このとき初めて、彼はレンの第一王子の名を呼び捨てた。

(エイルへの脅しでなければ、よいが)

 「エイラ」の話を聞いた彼の内に芽生えた疑問と導き出した自らの回答は、あまりにも突飛でしばらく彼を悩ませた。だが、その考えは全てを腑に落としたのだ。何故気づかなかったのかとすら、思う。

 もちろん、彼自身何度も考えたように、突飛なことだ。彼の理性はそのようなことは有り得ないという。だがリティアエラはエイラであり、エイラはエイルであると――その答えは見本のない嵌め絵を簡単に完成させることができるのだ。

 ならば、レンが狙うのはエイルだ。

 いや、レンではなく、アスレンと言うべきだろう。

 ファドックは隠しにしまったままの、少年の家で拾ったものについて思い返していた。

 絡まり合った双頭の蛇が刻まれた黒き護符。

 それは間違いなく――ライン・アスレン個人を表す紋章であった。


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