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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第5話 薄闇の宮殿 第2章

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04 捕まる訳にはいかない

 状況に変化が訪れる様子は一向になかった。

 窓から射し込む日が強くなったことで昼を知る頃には、エイラはのどが渇いただの腹が減っただの用を足したいだの言って見張りの術師の気を何度も引こうとしていたが、若者はやはり人形然としたままでろくに反応しない。

 たまに部屋の向こうを誰かが通る気配などはしたが、陰気な「セラス」も戻ってくる様子はない。それについては助かるものの、まさかこのまま飢え死にさせようと言うんじゃないだろうな、と馬鹿な考えも浮かぶ。

 リ・ガンの力のせいなのかどうか、激しい空腹を覚えることは以前よりも少なくなった気がするが、のどが渇いてきたのは本当だし、いまは大丈夫でも本当に「下」の事情が切羽詰まってきたらどうしろと言うのか。「人間でない」と言うのに、そういう構造だけは変わらないというのも、普段はともかくとしていまは理不尽だ。

「おい」

 エイラは何度目になるか、また若者に声をかけた。

「閉じこめるにも、それなりの礼儀ってもんがあるだろ。囚人だって、食事と(かわや)くらい用意されるもんだ。檻に入れられてる狩猟犬(テュラス)だって、そうだろうが」

 若者はまたかと言うようにちらりとエイラを見たが、声は出さないままだ。

「ここで私を渇き死にさせるのが目的だっていうならともかく、そうじゃないなら水の一杯くらいくれたっていいんじゃないか」

 若者の目が少し、泳いだように見えた。

「それに出す(・・)方だって困る」

 いささか娘らしくはない言い振りだが、仕方がない。

「厠くらいあるんだろう。魔術でも何でもかけてくれていいから、ここから出してそれを使わせてくれ」

 続けて言うが、術師は自身を律したのかまた無反応に戻ろうとする。が、困り出したことは見て取れた。「セラス」はそこまでご丁寧な指示を与えてはいないのだ。彼女は――実際はどうあれ――ただの娘に見える。

「それくらい、許されてるだろう。聞いてなくたって、そんなのは当然だろうが。……それとも何だ、あんたはそういう趣味なのか。女が」

 というのは抵抗があったが、やはりこの際である。

「粗相をするのを見て喜ぶ変態趣味があるのか、ええ?」

 下町の調子で言えば、さすがにこれには閉口したようであった。

 何か口の中で呟くと──呪文であったのか、何か呪いの言葉であったのかは判らなかった──若者はついに扉に向かった。

(さて)

(どうするかな)

 エイラは考えた。

 先の「セラス」が、親切に彼女の要望に応えてくれるとはとても思えない。もしかしたら水くらいは提供してくれるかもしれないが、一日や二日ほど何も食べなくても人間は死なない――まして彼女は人間ではない――のだし、それに、排泄などその場でさせておけくらいのことは言いそうである。

 実際、見張りの若者が本当にあの男に尋ねに行ったのかも判らない。それだけの度胸があるだろうか? 他者に諮るか、それとも彼女をここから出しても勝手な動きをさせないような魔法の品でも取りに遠くまで行ってくれているといいが、正直それは期待薄だ。

 エイラは繰り返し見ていた陣をまた見やった。そしてその境界線を。

 その先に行けるとは、やはり思わない。と言うより、行くべきではないと思う。強く。

 それが、ここと彼女にかけられている魔術のひとつであろうことは想像に難くない。そうと判っていたところで、どうしようもなかった。このなかで魔力が使えないことは判っているし、第一、高位の術師が編んだ魔術を彼女程度の魔力で破ろうなど片腹痛い。(ウィグ)(ガーリー)に挑むようなものである。

 だが――それは〈魔力〉で対抗しようとすれば、だ。

 リ・ガンの力は、魔術師(リート)たちのものとは質が異なる。

 彼女はそれを好きなように操ることはできなかったが、試みてみる価値はあるかもしれない。

 エイラは床に胡座をかいて座ると、深呼吸をして目を閉じた。

 どうすればいいのか、方向性すら定まっているとは言えなかった。

 ただ、瞳を閉じて、心を落ち着けた。

 そこに見えるものは、何だろう。

 そこに感じるものは――何だろう?

 誰かが呼んでいる。

 それはとても慕わしい声であり、彼女を――リ・ガンを安定させる。

 それは〈鍵〉のもののようであり、だが少し違うようにも思った。

 すうっと、指の先まで満ち足りてきたような気がする。

 エイラの記憶には漠然としている、〈翡翠の宮殿〉と言われた白い世界にいたときのように感じ――。

 ぱっと目を開けると、縫い目(・・・)が見えた。

 もちろん、彼女がそう感じただけで、そこには布も糸もありはしない。

 だがそれは魔法の縫い目とでも言うもの。ほつれひとつない完璧な姿を作り上げているが、その糸を切ってしまえば網は破れる。

 問題は、彼女の手に(はさみ)――もちろん、これもたとえだ――がないこと。

 これを指先ひとつで解くには、相当の忍耐力と時間が要る。

(時間は、ない)

 いつ、先の魔術師が戻ってくるか判らない。「セラス」を伴ってくるとは考え難いが、そうでなくてもいつまでも彼女を放置したままではないだろう。

 糸をほどいている時間はない。

 ならば――どうする。

 エイラはまた、答えを探るかのように目を閉じた。

 声は遠い。だが、聞こえる。それに耳を澄まし、身体を預けるようにした。

 その、瞬間。

 わずか一(トーア)にも満たない時間の間に、たくさんのことが、起きた。

 エイラは瞳を開け、操られるかのように両手を前に突き出した。

 完璧だった魔術は、その縫い目を乱し、糸を切らし、崩れ落ちた。

 考える前に彼女は陣の外に出て、扉に向けて走った。

 だがそこに行き着くことなく――床に叩きつけられる激痛とともに、全身の隅々まで均等に押さえつけられる力に屈した。

 見れば、扉は音もなく開いている。

 やはり見えるのは、黒いローブの裾と――それよりも手前に、最上質の編み上げ靴。

 その靴がひとりの〈守護者〉を打ったことなどは、エイラは知らない。

「――現れたな」

 全身が冷たくなった。

「リ・ガン」

 彼女は悟った。

 それでは、ついにきたのだ。

 彼女を――リ・ガンをモノと考え、〈触媒〉としてのみ価値を置き、翡翠の力を利用しようとする、相手が。

「スケイズの術を破るとは、なかなかどうして、大したものだ」

 その声に言葉から想像されるような驚きや感心はない。そこには、厩舎で馬を見定めるほどの興味すら、なかった。

「失態だな、スケイズ」

 背後の男――先の「セラス」――のローブが動くのが見えた。

「よい。今日のところは赦しを与えよう。このリ・ガンの力がお前の予測より強かったということが判っただけでも上出来だ。次は、ないぞ」

 また、スケイズと呼ばれた男のローブが動いた。

「お前の指示に逆らった見張りは始末しろ」

「は」

 始末(・・)という言葉が何を意味するのかは、想像してみなくても判った。それでは、先の魔術師は、彼女の口先から出た苦し紛れの幾つかの言葉のために――殺されるのか。

 やめろ、と言いたくても、声は出なかった。

「まるでただの娘のように見えるな。だが、これに騙されるなど愚か者と言うだけ」

 何の感情も――蔑みすら隠らないその声は、エイラの心を冷たくさせた。男はただ彼女をリ・ガンという「モノ」として見ている。鍛冶屋で手にする剣が鋭いのかなまくらなのかを見て取るのに、剣に対して賞賛や侮蔑を覚えぬのと、それは同じこと。

 すっと、編み上げ靴が動いた。心臓が痛いほどに跳ね上がる。

 ふわりと、身体が軽くなったような気がした。だがそれは錯覚で、魔術の拘束はわずかにも緩んでいない。エイラは目線すら上げられないままだ。

 だが、それでもそのとき、視界は動いた。

 見えていたつま先が下にずれはじめたかと思うと、彼女はあっと言う間に腰の高さほどに持ち上げられ――と言ってももちろん本当に「持ち」あげられたのではない――ぐるりと四十五度、回転させられた。

 そうすれば目に入るのはやはり白い天井と――〈魔術都市〉の異名を持つ都市レンの第一王位継承者、ラインと言われる称号と氷のような美貌を持つ王子アスレンの顔。

 エイラがその顔を目にしたのはこのときが初めてであった。

 しかし、彼女には判った。

 これが(・・・)アスレンだ(・・・・・)。アーレイドの翡翠(ヴィエル)を狙った男。

 疑う余地はなかった。

 これは(・・・)――敵だ(・・)

 その薄灰色をした瞳から投げられる視線と出会った瞬間、エイラの薄茶色いそれは緑色の強い光を帯びた。

 この男が編む術陣に縛り付けられたら、終わりだ。

 完璧と感じた先の「セラス」――スケイズの陣を破った力も、アスレンのそれには敵わない。

 逃げるなら(・・・・・)いましか(・・・・)ない(・・)

 瞬時に、当たりは緑色の光に包まれた。強く眩いその光の前には、屈強な戦士(キエス)でも大きな魔力を持つ魔術師(リート)でも、目を開けていられないだろう。

 ただ、このリ・ガンとアスレンを――除いては。

させぬ(・・・)!」

 はじめて、アスレンの声色に変化があった。それは警戒であり、怒り。一方でエイラが覚えたのは戸惑いと、畏怖。

 それは彼女の内から発する力ではなかった。

 それは、遠く――どこに在るとも知れぬ遠く、それとも常に彼女の隣に在る、彼女とともにある、白く完璧な世界、リ・ガンのための〈翡翠の宮殿〉から。

 アスレンが素早く両腕を動かすのが見えた。エイラには思いも寄らぬ複雑な印を結んでいる。

 頭に激痛が走り、視界が歪んだ。目が霞む。

 彼女は懸命に探った。求めた。呼んだ。

 彼女の、翡翠を。

 この男に捕まる訳にはいかないのだ。

(助けてくれ)

(力を――貸してくれ)

 必死で呼びかけたのは翡翠と、翡翠の〈女神〉と――〈鍵〉と〈守護者〉だっただろうか?

 リ・ガンの内に幾つかの名前と、名前ではない名前と、幾つかの顔と、顔を持たない顔が交錯する。

 耳障りな呪文が浮かんだそれらをかき消そうとし、リ・ガンの思考は揺さぶられた。

 アスレンの力は強い。リ・ガンをビナレスの端から端へも簡単に移動させる、その力ですらレンの第一王子の前に波動を大きく乱される。

(だがここは、こいつの陣地じゃない)

レンじゃ(・・・・)ない(・・)

 エイラはかっと目を見開いた。

「スケイズ、力を乗せろ!」

「――こっちこそ」

 掠れるような、声が出た。

「させるか、よっ!」

 熱い。

 目が熱い。心臓から送られる血の全てが、身体が、燃えるかと思った。

 このままでは保たない。

 このまま、こうして強大すぎる力を発し、強大すぎる力に対抗し続ければ、人間の形をしたこの身体が保たない。

 そうなればどうなる?

 身体を失えば、リ・ガンが人間であろうとなかろうと、それは死の訪れを意味する。

 そうなれば、どうなる?

 目覚めたひとつの翡翠はその操り手を失い、隠されたままのいまひとつはまたも眠り続け、動き続けるもうひとつもまた目覚めぬまま手から手へと渡って、いまにそれを持つ者に悲劇を呼ぶ災いの石となろう。

 〈守護者〉はその任から外れて翡翠を守るべき力を失い、〈鍵〉はリ・ガンとの結びつきを失って数奇な運命から離れるだろう。

 そして翡翠は、操り手も守り手も失ったそれは、それを求める者の手に容易に落ちるだろう。

 リ・ガンを失った翡翠の力を制することのできる者がいるのだろうか。

 だがそれを求める者は探すだろう。その方法を。〈翡翠の宮殿〉を。

 そうして、リ・ガンの完璧な世界は失われるだろう。

 〈女王陛下〉は――リ・ガンの「母」は邪な力に屈するだろうか? それはリ・ガンの想像の及ぶところではない。

 ただ、このリ・ガンが行おうとしたことは全てねじ曲げられ、守ろうとしたもの全てが、正しい道――面倒ごとに満ちていても――から突き落とされ、間違った道――容易なものであるかもしれぬ――を進むことになるだろう。

 そして、何より単純な事実。

 そうなれば、「エイラ」も「エイル」も何も――なくなるだろう。

「――!」

 何を叫んだのか、自分でも判らなかった。

 呪文のようなものであったのか、助けを求める声であったのか、誰かの名であったのか、何の意味も持たない悲鳴にすぎなかったのか。

 ただ、全身の力を振り絞って、叫んでいた。

 熱い。

 爪の先、髪の毛の一筋までが炎に包まれてでもいるようだ。

 激痛が走る。身体が、焦げていくかのようだった。

 緑色の世界と薄灰色の世界が交互に訪れ、勝利を求めて戦を続けていた。


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