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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第4話 翡翠の呼び声 第4章

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06 双頭の蛇

 不意に、空気が冷たくなったように思った。

 彼は足を止めて後ろを振り返った。

 窓などない廊下に風が吹き込むことは無論なかったが、こうして見てみても背後には誰の姿もなかったから、仕事を命じられ慌てた下男が走って空気をかき回したというようなこともない。

 気のせいだったのだろうかと彼は再び前を向き――自身がびくりとするのを覚える。

 一(トーア)前まで誰もいなかったはずのところにいきなりふたりの男が現れれば、たいていの者は驚くだろう。

 もちろん彼も同じだ。彼は魔術になど慣れていなかったし、ましてや、現れた存在は、ここにいるはずのない男の顔をしていた。

 しかしそれに取り乱したり問いを発したりする前に、ファドックの立場ならばすべきことがある。騎士は素早くその場に跪いた。

「――巧くしてやった(・・・・・)、と思っておるか?」

「殿下……ライン」

「ほう」

 〈魔術都市〉の第一王子は片眉を上げた。

 そこに姿を現したのは、間違いなくレンの第一王子であるアスレンその人と、その側近とされた無口な男だった。首筋に見え隠れする片羽根の鷲の紋様は覚えていても、ダイア・スケイズという名をファドックは知らない。

「レンの礼儀を覚えたか。さすがは騎士よな」

 ファドックは黙って頭を垂れた。だがアスレンは白い手袋をした左手を振ってそれを退ける。

「だがそのような礼など不要。我はお前と話をしたいだけだ」

 言われたファドックは顔を上げたが、そのままの姿勢を保つ。アスレンは笑った。

「我らの作法をよく学んだと見える。思っていた以上よな。ただの騎士(コーレス)などという中身なき称号ひとつでアーレイドに飼わせておくには、惜しい」

 ファドックは何も答えない。

 冬至祭(フィロンド)にこの城を訪れたアスレンが見せていたもの柔らかい調子はそこにはなく、だが護衛騎士はそれには驚かなかった。その裏に隠されたものを――言うなれば疑って(・・・)いたのは彼ひとりではなかったが、ファドックのなかではいまや、それは確信となっている。

 アスレンは、危険な男だ。

 何も魔術師だからだと言うのではない。〈魔術都市〉の王子だからということでも。

 いや――それはやはり、〈魔術都市〉の王子だから、ということだったろうか?

 彼はもはや知っている。噂や偏見からではなく、その都市が危険なものであるとの事実を。

「立て」

 アスレンは鋭く声を投げた。やはり黙ったままで、ファドックはその命に従う。

「……私ごときに、お話とは」

「話してよいとは言っておらんぞ」

 ファドックは素早く謝罪の仕草をしたが、アスレンはまた笑ってそれをとめた。

「よい。お前は我が臣下ではない故、多少の過ちには目をつぶろう。だが」

 王子は唇を片方だけ上げた。

「それはこれまでの話だ」

 アスレンは妖しい笑みをたたえたままで言った。

「我が望みは知っておったのだろう。それが潰えたことも知っておるな。そしてそれが――誰のせいであるのかも」

 答えを要求されているのかファドックは判断しかねたが、そうだとしても答えるべき言葉はない。彼は何も言わず、アスレンが続けた。

それは誰だ(・・・・・)と問うても、お前が答えないことは判っている。だが訊かずとも判っておるのだぞ。……リ・ガンの仕業だ」

 ファドックは努めて、何も表情を出さないようにした。もちろん、レンは――アスレンは知っているに違いなかった。驚くことではない。

「守り手たるお前は、リ・ガンの指示に従うたのだろう。それは責めぬ。だがそれによって護衛騎士たるお前の望みが叶うとは、都合のよいことよな」

 アスレンは淡々と言った。護衛騎士の望み。それはもちろん、シュアラの安全である。

「お前の望み通り、シュアラ王女とアーレイドからは手を引こう。だが、ソレス。その代わりに我には欲しいものがある」

 第一王子の唇が、両端とも上がった。

「お前だ」

 ファドックは、自身の顔に驚きの表情が浮かぶのを――懸命に堪えた。だがアスレンはそれに気づいたとも気づかないともみせぬままで続ける。

「レンに来い、ソレス」

「――お戯れを」

 シュアラの護衛騎士はようよう、そうとだけ言った。この王子が何を言い出したのか、彼は掴みかねていた。

「戯れなど言わぬ」

 ファドックが言い終えるか終えないかの内にアスレンは返していた。

「本気だ、ソレス。もう一度言う。レンに来い。我に仕えよ。そうすればアーレイドからは手を引く。どうだ」

 アスレンは左手につけている白い長手袋を外すと、その紋様をファドックに示した。双頭の蛇。黒く、捻れた――印。

 〈ライン〉の背後でじっとしているスケイズには、ファドックの困惑と驚愕が手に取るように判った。

 この騎士はアスレンを酷く警戒している。もちろん、自身が彼の計画を潰したことを知っているからだ。だと言うのに、恨みも怒りも投げかけられず、それどころか請われることになろうなどとは当然、考えたこともなかっただろう。アスレンの真意を計りかねているのだ。

 否と言えばシュアラとの婚約話を進めようと言うのか、だがそんなことをしてレンに、そしてアスレンに何の得があるのかと。何の得にもならぬはずだと惑っているのに相違ない。スケイズはファドックのそんな葛藤を感じ取りながら、興味深く観察を続けていた。。

 それにしても〈ライン〉も人が悪い、というようなことを彼はこっそり考える。もちろん、アスレンはもはや――いや最初から、アーレイドにもシュアラにも、興味など全くないはずなのだ。

「ソレス」

 アスレンが沈黙を破る。

「答えは」

「――お断りいたします」

 意外そうに片眉を上げたのは、しかしアスレンではなく、終始無表情を保っていたスケイズの方だった。

「何と言った」

 今度はアスレンの方が、表情を見せぬままで言う。

お断りいたします(・・・・・・・・)。我が誓い、我が忠誠はシュアラ・アーレイド王女殿下のもとにのみ」

 答えるファドックの顔は蒼白くなっていたが、その言葉に躊躇いはなく、声に震えもなかった。アスレンの言葉を脅しに過ぎないと取ったのか、それとも本気と取った上での覚悟の発言か、どちらにしてもスケイズは感心した。

 この男は〈ライン〉の気性に気づいているはずだ。だからこそ、アスレンを彼の王女殿下に近づけまいとした。だと言うのに、こうしてアスレンを目の前にしながら、ただの平民の身でアスレンの機嫌を損ねる返答をする。勇気があるのか、それとも愚かなのか。

「――ほう」

 アスレンはゆっくりと声を出した。

「我の手を振り払おうというのだな。ええ?」

 その声に怒りはない。それはただひたすらに冷たく――だがスケイズには、王子が興がっているのが判った。ファドックはどう思うのか、またも片膝をつくと深々と頭を下げた。

「ライン。畏れながら――」

 アスレンの目が細められた。次の瞬間、スケイズが止める間もなく――間があったとしても、彼は止める気にはならなかったろうが――鈍い音がしたかと思うと、上等の編み上げ靴が護衛騎士の横面を蹴りつけた。ファドックは一(リア)右手を床につくが、すぐさま礼の姿勢に戻る。

「我に逆らうというのだな? 一度ならず、二度まで」

「――申し上げました通り、我が剣はシュアラ様の」

「話せとは言っておらん!」

 アスレンは同じ右足で返すように、騎士の右面を打った。今度はファドックは手をつかず、うめき声ひとつ発さないままで同じ体勢を保った。靴の金具が傷つけたこめかみと切れた唇からにじむ血を拭うことも、しない。

 アスレンは、笑った。

「立て」

 王子は短く言い、ファドックはまた、従う。

「よくも、怺えたな。多少、口数は多かったがそれ以外は我が臣下よりも礼に適うておるくらいだ。あとひとつでもレンの礼儀に欠ける行動をしたら心の蔵をとめてやろうかと思っておった。命拾いをしたな」

「――畏れ入ります」

 ファドックの返答に、アスレンはまた目を細めた。面白がっている、とスケイズは思った。

「いいだろう。今日のところはこれまでだ。だが、ソレス」

 アスレンは冷たい目でファドックと視線を合わせた。

「よく覚えておけ。俺はますます、お前が欲しくなった」

 ファドックは答えなかった。アスレンが答えを待っているのではないと判っていた。それ以上アスレンももう何もファドックに言うことなく、外した手袋を左手につけ直すと踵を返し、そのマントを翻した。

「スケイズ」

「は」

 主の声に下僕は何やら奇妙な守護符を取り出した。〈魔術都市〉の主従はそれぞれに不可思議な印を結ぶと――現れたときと同じように、音もなく、消えた。


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