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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第4話 翡翠の呼び声 第2章

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09 その守護ごと

 ちょっとごめん、と言って少年は立ち上がった。

 入ってきたとんでもない情報に頭がくらくらしてきたから、ということもあったが、ふと気になったのは師の手紙である。

 日の射す窓の近くに行って封を切れば、アニーナは興味深そうにそれを見ていたが、珍しくも何も言わなかった。

 エイルは顔をしかめて――何か不満があるのではなく、読み慣れないので必死になっているだけだ――ひと月の間の師匠が残した文を追っていった。おそらく、エイルに判るようになのだろう、平易な言葉を選んで使ってくれているようだ。エイルは時間をかけて、その短い手紙を読んだ。

 師がこれを書いたときには、レンの話はなかったのだろう。それについては何も触れられていなかった。何かの技で他者の手に渡ることを怖れてか、リ・ガンやら〈鍵〉やらという言葉も使われていなかった。

 ただ、自分亡き後はダウという導師を頼るように、というようなことが淡々と書かれていた。ダウ導師には何も話していないが、エイルが信頼できると思ったら同封の呪文を伝えるように、と。そうすれば、リックが調べた資料をダウに受け渡すことができるのだと言う。

(……会って、みようか)

 エイルは思った。

 もし、リックの死を知らされたすぐあとにこれを読めば、そんなことは不要と破り捨てでもしたかもしれない。だが、〈魔術都市〉は近い。近くなっている。

 ならば、魔術師の意見が必要かもしれない。彼のようではない、本物の。

 ふと気づくと、アニーナが前掛けを外して、髪を結びなおしていた。卓の上には外出用の手提げ袋など置かれている。エイルは手紙をしまった。

「でかけるのか?」

「そうさ」

「もしかして……恋人でもできたのか」

 それなら、家が綺麗になっていることにも説明がつく。そんなふうに思って言った息子を――だが母は鼻で笑った。

「あたしの恋人はあんたの父さんだけだよ。でもたまには、違う男と食事をしてもいいね」

「ふうん?」

 エイルはじろじろと母を見た。年齢の割には若く見えるし、地味な仕事の割には生活に疲れた感じもない。籠の仲買人が――「に」ではなく「が」である――色目を使うことがあるのも知っていた。

 客観的に母親を見ることは難しいが、いい人のひとりやふたりができてもおかしくないはずだ。息子としては少し複雑なものも覚えるが、母が幸せになるのならそれでもいいだろうと思うくらいには、彼も大人だった。

「どんな男なのさ」

 それに、先にしてやられた詰問を返してやるのも、いい。そんなふうに思って尋ねた。アニーナは少し面白そうな顔をして、言う。

「そうだねえ、若くて、ちょっと生意気でね。いっつも仕事仕事って朝から晩まで飛び回ってて、ちょっとくらい休んでも罰は当たらないだろうと思うのさ」

「ふうん」

 エイルは繰り返した。若い男なのか。少し意外なような、母らしいような気もする。想像するように腕を組むエイルの姿を見ながら、アニーナは続けた。

「そうそう、ヴァンタンと同じ、柔らかい茶色の髪をしていてね、背が高くないのは難点だけど、可愛い顔をしてるよ。笑うとあの人によく似てるのに、なかなか笑わないんだよね、うちの馬鹿息子は」

「……はっ?」

 エイルは口を開けた。

「いまならリッケルの店が開いてるよ。あんたがあの辛気くさいローブを着ているのを見なくて済むのはいいけど、その格好じゃ寒いだろう?」

 外に燃すもんがないならなかから燃せばいいのさ、とアニーナは言ってエイルの腕を引っ張り、俺は取り立てて言われるほど背は低かないぞ、という息子の抗議を聞き流した。


 扉は音もなく開いた。

 それは、蝶番のきしみもなく、と言う意味もあれば、訪問を知らせるために戸が叩かれることもなかった、という意味でもあった。

 だが部屋の主はそれを咎めるようなことはない。

 何故なら、そのような無粋な音をたてずとも訪問者があれば主には判るし、主に応じる意志がなければ、訪問者にもちゃんと判るからだ。

「済んだか」

 ぼんやりと明るい部屋は、まるで小さな蝋燭をいくつも立ててようやく明るくしたかのようであったが、その部屋に燭台はひとつしかなかった。そして光源はそこではなく、いや、光源などあるようには見えなかった。部屋は、その隅々まで照らされている。

 そのような魔術があると知っている者にとっては、不思議なことではなかっただろう。ほかに不思議なことはあるのだ。魔術を使うなら、もっと明るくすることもたやすいはずである。

「ライン」

 入ってきた男は、胸に手を当て、軽く膝を曲げた。年の頃は三十半ばほどにも、五十前ほどにも見える。灰色がかった髪は耳や首筋を隠すくらいに長く、軽く波立ったそれはぺったりとした感じがあった。

「お前はどう見た、スケイズ」

「は」

 スケイズと呼ばれた男は部屋の主にして自らの主である相手にもう一度礼をする。

「本物、かと」

「そう」

 ラインと呼びかけられた主はくっと笑う。

「あれは、本物だ。〈変異〉の年を感じて震えておったわ」

 満面の笑みを浮かべたその顔をアーレイド城の人間が見れば目を疑ったであろう。

 剣など振るったこともなさそうな、細い身体。肩の上の数ファインできれいに切りそろえられた白金髪は細く、(イル)の糸のよう。薄い灰色の瞳は冷たい印象を与えるが、笑えば人当たりよく――見せることもできた、ということになろう。

 宴の席でやわらかに微笑んでいたアスレン王子とはまるで印象の異なる、それは暗い笑み。

翡翠(ヴィエル)……アーレイドの宝玉」

 アスレンは笑みを浮かべたままで呟くように言った。

「しかし、よく抑えられている。――〈守護者〉は、ごく近くにいるな」

「ファドック・ソレス」

 スケイズは表情を見せぬ顔で言った。

「王女の護衛騎士(コーレス)。あれが、守護かと」

「ほう」

 アスレンは目を細めた。

「何故、そう思う」

「はじめからラインを敵視しております。一時は、王女の護衛のため、それとも分不相応にも王位を狙う上のことかと考えましたが、どうやらそうではない」

 スケイズは淡々と言った。もちろん、このようなことは彼の〈ライン〉も気づいたはずだ。だが、スケイズは求められれば求められることを言うだけだった。

「あの騎士に、守護者の自覚はないやもしれませぬが」

「ふん、今期の翡翠は流れを完全に崩しておる。これまでの文献は全く、当てにならんと考えるべきだな」

 アスレンはすっと片手を上げ、重厚な卓の上に置かれていた分厚い本を棚にしまった。手は一度も、書物には触れていない。

「あの男が守護か。それは面白い。少しは手応えがなくてはな」

 レンの第一王子はくつくつと笑った。

「守護の自覚がないのならば、こちらのいいように使えるかもしれん。『騎士』では金を積んで動かすこともなかなかできないだろうが、その見込みがあるのならいくら使ってもかまわん」

「何を……お考えなのですか」

 スケイズは無表情なままで言った。アスレンは唇の片端を上げる。

「何、翡翠を手に入れるのならその守護ごと手に入れてしまえば話も早いと言うものだ」

「では」

「スケイズ。あの男を探れ。弱みを見つけろ。親兄弟、女、友、何でもいい。そうしておけばあの男が翡翠を守護する気になっても、手の打ちようがある」

仰せのままに(フロー・サイラン)

 スケイズは頭を垂れた。

「〈守護者〉か」

 アスレンは卓に指で何の意味もない紋様を描いた。

「俺から翡翠を護れると思うのなら、やってみればよいのだ」

 蝋燭の火が揺れる。

 〈変異〉の年が流れていく。

 翡翠の呼び声がする。

 それを感じて、集まってくるのだ。

 呼ばれたものも――呼ばれていないものも。


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