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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第4話 翡翠の呼び声 第2章

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05 待ってはいないかもしれないけど

 それでも――。

 いや、それだからこそだろうか。エイラの足は、あまり清潔だとは言えない南区、母のいる場所へと向かっていた。

 自分はエイルだという思いが希薄になってゆく恐怖。リ・ガンであること――人ではないこと――を受け入れつつある、恐怖。

 それを払ってくれるのは母アニーナのほかにいない。

 南区の入り口付近まできて、ちょっとした違和感に気づいた。ここの壁は確か、彼の目線と同じ位置にあったはずだ。それが少し、高くなっている。

(違う!)

 エイラははっとなった。

 何を考えているのだ?

 この姿(・・・)で母に会おうとしたのか?

 もちろん、違う。そんな馬鹿なことを考えるものか。

(少し、うっかりしただけだ)

(うっかりだって?)

(どうしたら、こんな大きな取り違えをやらかせる!)

 リックの死という衝撃は大きい。だがこれは、「エイラである」ことが常態となっている証とも言えるのではないか?

 シーヴと旅を初めてから、彼女は一度たりとも「エイル」の姿をとっていない。

 エイラはふるふると首を振った。

(駄目だ、俺はリ・ガンだけど、でもエイルだ。俺にはこの先に家があって、母さんが)

(……別に待ってはいないかもしれないけど、とにかくそこにいる)

 誰の目もないことを確認してから小路へ入り込み、深呼吸をして〈調整〉を遂げた。少し迷ってから、ローブは外して荷袋に詰めた。このごみごみした街区で、放蕩息子の帰郷と黒ローブ姿の魔術師(リート)の訪問とどちらが目立つと言うべきか、考えるまでもない。

 もう一度、街区を見回した。違和感は消えた。エイルはほっとする。

 汚らしい家々、舗装もされていない土の道。寒いなかでも健気に生えている草花を見て、ああ、あれは風車草だな、などと思うようになった自分が少し可笑しかった。

 懐かしの見慣れた扉を前にして、エイルはしかし躊躇った。

 いや、戸惑った。

 何か――違う。違っている気がする。

 再び生じる違和感と、動悸。

 何が違う?

(……きれいすぎる)

 風雨にさらされた木の扉は、まるで掃除したばかりのように磨き込まれていた。春先になるとアニーナは大掃除をしていたが、冬の盛りであるいま、この扉はもっと汚れていなくては、おかしい。

(何故――?)

 エイルは首を振った。考えても仕方ない。何となく生唾を飲み込んで、これまたきれいにされている取っ手を握った。

「……母さん」

 ぎっときしんだ音がして――これは聞き慣れたものだ――簡素な扉は開いた。日の当たりにくいこのあたりでも、冬の低い陽射しは屋内を照らす。

 どきりとした。

 なかはまるで、彼の記憶にあるものと違う。

 いや、置かれているものは同じだ。粗末な卓に椅子、傷だらけの棚に水桶、奥に積まれた竹と編み籠。

 だが、それらの配置は少年の覚えているものと全く異なり、まるで、他人が暮らしている場所のような。

「母さん!」

 動悸が激しくなる。母は、どこにいる? この時間なら、椅子に座り込んで籠を編んでいるはずではないか?

 彼が変わってもここは変わらないと言う幻想が、がらがらと崩れていく音が、聞こえる気がした。

「何だい、騒々しいね」

 またもどきりとして、ぱっと振り返る。――と、そこにはよく知った顔があった。

「おや、エイル。お帰り」

「母……さん……」

「何だい、景気の悪い顔をして。思ったより早かったね、たいそうなことを言うから何年も帰ってこないんじゃないかと思ったのに」

 「仕事」に失敗して首を切られたのかい、とアニーナは言い、エイルはその場にへなへなと崩れ落ちそうになった。

「母さん!」

「叫ばなくても聞こえるよ、半年くらいで耳が遠くなったりするはずないだろ。ほら、そんなとこに突っ立ってたら邪魔、邪魔」

 ぐい、とアニーナに家の中に押し込まれ、エイルは足をもつれさせそうになった。

「何! これは!」

 狭い屋内を指し示すと、アニーナは首をかしげる。

「何って、何が」

「何がって」

 家具――というほど立派なものでもないが――の位置が変わっていること、扉がきれいにされていること、見れば、窓の桟にもほこりひとつないこと、などをエイルはまくしたてた。アニーナは不機嫌そうな顔になる。

「掃除と模様替えをするのに、息子の許可が要るのかい?」

「も」

 エイルは絶句した。

「心配っ、するだろっ、何かあったんじゃないかって」

「何があるっていうのさ」

 馬鹿な子だね、とアニーナは簡単にエイルの台詞を切り捨て、木の杯を取り出すと水を汲んだ。

「エイル」

「何だよ」

「お帰り」

 にっと笑って杯を差し出しながらそんなふうに言われれば、もう二の句は告げない。エイルは乱暴に椅子を引くと腰を下ろした。

「それでどうだったの、旅は? 最近じゃ手紙もなかったようだけど、〈報せなきは順調のしるし〉かい、それとも〈危急に便りをするは愚か〉かい?」

「どっちでもないよ。ちょっと遠くまで行っただけさ」

 そう答えてから気づいた。

「手紙、届いたんだ」

 エイルは言った。

 魔術師協会(リート・ディル)に託せば他の都市からでもほぼ確実に手紙なり何なりを送り届けることができるが、(ラル)はかかるし、そう言うのは危急の報せに使うものだ。エイルは、アーレイドに向かうという隊商を見つけてはそれに頼んで――やはり、多少の(ラル)は必要だったが――いただけである。東や南に行ってからは、まさか西端まで向かう隊商も旅人もいなかったから書かなかっただけで、忘れていた訳ではない。

 だいたい、届いたところでアニーナは文字など――。

「何で俺からだって判ったの。誰かに読んでもらったの? わざわざ、代書屋にでも?」

 ようやくそのことに思い至って尋ねた。アニーナは鼻を鳴らす。

「いつの間に、文字なんて洒落たもんを覚えたんだい。魔術師閣下(セラス・リート)にはご入り用って訳なんだろうね」

「やめろよ」

 エイルはげんなりとして言った。母が息子の新しい職業を気に入っていないことは判っているが、彼だって好んでいる訳ではない。

「まあ、そのまま封も切らずにたき火の燃料代わりにされたんじゃなけりゃいいさ。下手なりに、一生懸命書いたんだからな」

 誰に読んでもらったにしても、文字を習いたての彼が綴る文章を読み解くのはけっこうたいへんだっただろう。エイルはふとそんなことを思う。

「こうして帰ってきたってことは、仕事とやらは終わったのかい?」

「あ……いや」

 エイルは首を振った。

「実はまだ、途中、なんだ」

「何だって? あんた、また半端にして逃げ帰ってきたんじゃないだろうね?」

 母の言葉は手厳しい。以前にエイルがシュアラの元から「逃げ帰って」きたことを指されたのだろうが、エイルはふるふるとまた首を振った。

「違うよ。この街に用事があるんだ。終わったらまた……行く」

「そうかい」

 アニーナはどうでもいいというように手を振った。

「で、運命の相手は見つかったのかい?」

 エイルは思わず驚いて口を開けた。だが母が言うのはもちろん「運命の恋人」であろう。ここを発つ前に交わした会話を思い出したエイルは、自身の勘違いに少し赤面した。だがアニーナはそれを見逃さない。

「お! いるのかいいるのかい、どんな娘なの。どうして連れてこないんだい、見てみたいじゃないか!」

「ちょっと! いるなんて言ってないだろ、いきなりそんなこと言われて驚いただけさ!」

 強く否定するが、却ってアニーナは楽しそうな顔をする。

「まあ、可愛いねえ、照れちゃって。そんなふうにするとヴァンタンによく似てるよ。それでどんな娘を捕まえたの、あたしみたいな美人だろうね?」

「捕まえてないっ」

 捕まりそうにならなったが──などとは言えない。

「嘘をお言い」

 母はぴしゃりと言った。

「恋人ができたか、くらいの質問で赤くなる息子を持った覚えはないよ。心当たりがあるからどきっとしたんだろう。早く白状おし」

「誤解だってばっ」

 エイルはどん、と卓を叩く。

「んなもん、作ってる暇はなかったの! 遠くまで行ったんだぜ」

 まさか大砂漠(ロン・ディバルン)まで、とは言わなかったが――そんなことを言えばアニーナでなくとも彼をとんでもないほら吹きだと決めつけるに違いないのだ――エイルはアイメアやフラスの街の名を話したが、アニーナはそんな街も知らなければ興味もない。

「ごまかそうってんだね、母親を」

 エイルはため息をついた。これはもう完全に思い込んでいる。処置なし、だ。

「おや、ため息なんかついて。ああ、それじゃ可愛いと思ってる娘はいるけど成就してないってところかね?」

 こうなればもう、そう思われていた方が楽である。エイルはいい加減にうなずいた。

「やだねえ、この子は。あんたはあたしとヴァンタンの息子なんだよ。たいていの娘なら陥とせるに決まってるさ、自信を持ちな」

 真顔で言うアニーナにエイルは曖昧にうなずいた。

「殊勝だね。手強い娘なのかい? いいかい、エイル。ちょっとした楽しみのために恋人にしたいなら、二、三、調子のいいことを言っておやり。おかしな約束はするんじゃないよ、上手に笑わせておやりと言うんだ。女は機知のある男が好きだからね。でも本気で生涯の相手にしたいと思うなら、馬鹿みたいに誠実におなり。少し融通が利かないくらいにね。その方が、女は信頼できるのさ」

 あんたの父さんは誠実で機知に富んでたよ――などとアニーナはにっこりと言って、どういう娘像を作り出せば母の気が済むか、エイル少年は必死で考えだした。


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