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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第4話 翡翠の呼び声 第1章

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06 悪い虫

「何だって?」

 隣で不審そうに言ったシーヴに言葉を返す前に、エイラはぱっと駆け出す。どこかから自身を呼ぶ声が聞こえた、とばかりに、立て膝姿の薬草師はきょろきょろと周囲を見回している。人波を縫って突然現れた見覚えのある顔にこちらもまた、目を見開いた。

「エイラ! お前か!」

 濃い茶の髪をした男は、数月前に姿を消した師匠兼弟子の姿を認めると、ばっと立ち上がる。

「無事だったか!」

 男は自らの商品を飛び越えてエイラの前に立ち、もう少しで彼女を抱き締めるところだったが、エイラが手を差し出したので思いとどまったようだった。

「ここで会えるなんて。アイメアに行ったら探そうとは思ってたんだが」

 嬉しそうにその手を握って、エイラは言う。

「何も言わずに出てっちまって、悪かった」

「事情があったんだだろ、心配はしたが……怒っちゃいない」

 ヒースリーは笑って、詫びるように言うエイラの肩を叩く。

「あんたが怒ってないとは思ったけど、アクラスとか、怒ってなかったか?」

 しばし手伝いをした隊商の料理人の名を出すと、ヒースリーはまた笑った。

「何言ってる。本当なら手伝いを雇い入れることを要求した分、差っ引かれるはずだった報酬がそのままアクラスの懐さ。お前に払う分が浮いたってことだ。ただ働きして逃げ出す奴もいないよなあ」

「ああ……そうか」

 〈魔術都市〉の噂を怖れて塔へたどり着き、それからは自らの手足と頭を使って金を稼いできたから、隊商で報酬を受け取らなかったことなど忘れていた。母アニーナが聞けば、働いておいてもらうもんをもらわないなんて馬鹿なことをするな、と怒ったかもしれないが。

「あんたに教わったことには本当に助けられたよ、ヒースリー。いつか必ず礼を言おうと思っていたけれど、アイメアじゃなくてこんな〈臍〉で出会うとは思わなかった」

「そりゃあ、俺もだ。旅をしてるもん同士が、違う町で偶然再会するなんぞ、そうそうあることじゃない」

 ヒースリーはもう一度、エイラの肩を叩いた。エイラに追いついたままでそれをじっと見ていたシーヴは、ひとつ咳払いをする。

「それで俺は、いつ紹介してもらえるんだ?」

 シーヴはゆっくりと声を出した。エイラと見知らぬ男の親しげな様子を見て気にならないと言えば嘘になる。「気に入らない」という思いは否定したかもしれないが。

 エイラははたと気づいたようにシーヴを振り返るとどこか気まずそうな顔をして、シーヴの「気に入らない」思いを助長した。

 まるでそれは、男連れで昔の恋人に再会してしまったとでも言う様子ではないか?

 もちろん、ヒースリーもシーヴも彼女の恋人であったことなどない。エイラにしてみれば当然で、もしシーヴがそんなことを口走れば彼が〈鍵〉であろうと何であろうと怒鳴りつけ、殴りかかったかもしれないくらいである。

「ああ、そうだ、すまん」

 エイラは取り繕うように言った。

 ヒースリーの前では、ずっとエイラの姿のままだったのに、交わす会話や仕草や態度は「エイル」同然だった。だがシーヴの前では姿も態度もずっと「エイラ」だ。シーヴに向けられた表情は、いま、薬草師の前で少年の調子で話していたことに違和感を覚えられなかっただろうか――という不安による視線だったのだが、両者の間には微妙な齟齬が生じていた。

「シーヴ。彼はヒースリーと言って、私に薬草学を教えてくれたんだ。おかげでこんな」

 エイラはヒースリーの商品を指差した。

「ことの真似事ができる。ヒースリー、こっちはシーヴ。ええと」

 どう説明しようかと迷い、エイラは言葉をとめた。

「……探してた相手か?」

 ヒースリーはじろじろと――何とも無遠慮にシーヴを見た。

吟遊詩人(フィエテ)には、見えんな」

「ふん?」

 シーヴも負けじとばかりに、薬草師を品定めるように視線を返す。

「いや、私が探してたのはこいつじゃない。こいつはむしろ」

 言いながらエイラは肩をすくめた。

「わざわざ私を追ってきたくらいさ」

「じゃあ、あのときは、こいつから逃げたのか?……つきまとわれてるのか?」

 案ずるようなヒースリーの言いようにエイラは思わず吹き出したが、男同士は何も面白いことなどないようにじっと眺め合っている。

「俺は確かにエイラを追いかけてきたが、いまはようやく追いついて、しっかりと掴まえたとこでね」

 シーヴは言葉通りにエイラの細腕を軽く掴んで一歩を引き戻させた。その行為にエイラが抗議をするとぱっと手を放して謝罪をするが、目はヒースリーを向いたままだ。

「こりゃ意外だな、エイラ。お前が行かなきゃならんとこってのは、こんな生意気そうな兄ちゃんの隣だったって?」

「いや、私が行こうとしたのは」

「挨拶ひとつする必要のない相手から離れて行くには、程いい相手だろう?」

 エイラの説明を遮るように、シーヴが返す。ヒースリーはむっとしたように見えた。

「……おい、お前ら何を」

 二人の応酬を聞いていたエイラは、ようやくその、何とも彼女にとっての「気に入らない」状況に気づく。エイル少年とて、将来を約束した少女はいなくとも、気になる娘を巡ってのちょっとした鞘当てを演じたことくらいはある。男たちの間にあるものがどういうものなのかは、判るのだ。

 ふたりの男は、どちらがより彼女の近くにいるのかを測りあっている。

 その対象が自分であると考えるのは、何とも納得のいかないことであった。

「やめろよなっ、ヒースリー、あんたには奥さんがいるだろうが。シーヴ、お前もおかしな考えは捨てろっ」

「何言ってる」

 エイラに軽く返しつつ、ヒースリーの目もシーヴから動かない。

「俺が言うのはそういう意味じゃない。ただ、弟子に悪い虫がついてるとなれば払ってやるのは師匠の務めだろうと思ってね」

「悪い虫とは、言ってくれるじゃないか。俺は、あんたと違って、これまでの虫なんぞ気にならないがな」

「いい加減にしろってんだっ」

 エイラは二人の男の間に立った。

「シーヴ、よせって」

 どうやら、より「喧嘩を売っている」のは砂漠の青年の方だ。いつも皮肉げに笑うかエイラを心配しているかなのに、いまの彼の瞳には普段見られないものが宿っていた。怒りと言うほどには強くなく、暗い茶色の目に浮かぶそれは、微かな苛立ち、だったろうか?

「悪い、ヒースリー」

「……いや、かまわんよ」

 少し年嵩の薬草師はついと先に青年から目を逸らした。

「気に入ったとは言い難いが、俺が意見する筋合いでもないしな」

 ヒースリーはそんなふうに言って、シーヴを認めたともそうでないとも取れる台詞を吐いた。

「あの、な……ヒースリー。あとで、話ができないか?」

「あとで?」

 ヒースリーが首をかしげる。

「何を話すって?」

 シーヴが不満そうに言うのは、とりあえず置いておくことにした。

「隊商が出る前の、いまぐらいの時間帯は稼ぎどきだろ? これ以上、商売の邪魔したら悪いからさ」

「いや、俺はかまわんが……」

 ヒースリーは言いかけ、しかしエイラが小さく、頼む、という仕草をするのを見て取った。

「判った、それじゃあとで。この先を右に折れて数軒先に〈優しき猟犬(テュラス)〉って店がある。そこの料理は絶品だ。一刻もしたら行くよ」

「そこの右だな、判った、それじゃ」

 エイラはそう言うと、それこそなわばりを荒らされた雄犬のように剣呑な表情になってきたシーヴをつついて、にわか師匠の店の前から引きはがす。

「何の真似だよっ」

 人混みに戻ると、エイラは改めて抗議をすることにした。

「何なんだよ、いまの態度は。俺……私はリ・ガンであんたは〈鍵〉だけど、私はあんたの」

 一(リア)、エイラは躊躇った。「妹」よりも言いたくない単語だ。

「女じゃないんだぞっ」


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