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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第4章

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08 〈翡翠の女王〉

 リダエの湖は、大きい。

 水平線が望めれば、湾のような地形もある。海を知らぬ者にこれがそうだと教えたら、信じてしまうかもしれなかった。まだ暗い朝には水平線どころか、水面すらろくに見えなかったが。

「シーヴ、遠くに何か見える」

 エイラが指さす先を見れば、かすかに灯りのようなものが明滅していた。

「何だろう?」

「西の方に島があると聞いた。その上に物騒な城塞が建っているんだと。その灯りだろう」

「城塞? 物騒って、何が」

「湖の西にある街の」

 シーヴは肩をすくめた。

「囚人が送られてくるところだとさ」

「囚人?」

 エイラはまたも繰り返した。

「何だ、おっそろしい街だな。町憲兵の詰め所だけじゃ犯罪者を入れきれないって訳」

「それとも逆に、異常なほど治安が厳しいのかもしれんな」

「どっちにしても、あんまり近寄りたくないね」

「同感だ」

 さて、と言うと青年は馬を下り、エイラに手を貸した。女性のような扱いはエイラには不満だったが、エイルの姿であろうと手伝ってもらわねば降りられないことは同じだ。機会があったら訓練をしよう、などと考える。ファドックならば、乗馬も教えてくれるだろうか?

 エイラのそんな思いは知らぬまま、シーヴは手近な木に自身の馬の手綱を結んだ。

「どうする? ここで待っていればいいのか?」

 〈鍵〉はリ・ガンに顔を向けた。エイラは少し黙って、何かを探すように暗い湖面を見つめると――うなずいた。

「待つ」

 簡潔な返答にシーヴもうなずき、じっとその場に立った。

 太陽(リィキア)が去って半日以上、大気も大地もゆっくり時間をかけ、じっくりと冷え込んでいた。

 それを溶かそうとして、太陽(リィキア)が少しずつ、地表に近づいている。砂漠の地では猛威を振るう太陽神が、こうして南によれば何とも弱々しく感じられるのは、シーヴにはどこか奇異であった。

 うっすらと世界が明るくなっていく。

「星が消えるな」

 エイラが呟く。星神は太陽神の威力の前にして、瞬く間に姿を消していった。

「消えるんじゃない、しばし隠れるだけさ」

「隠れる、か」

(失われた)

(隠されている)

 エイラのうちに不意に蘇ったそれは、ゼレットの言葉。

「――そうか」

「エイラ?」

「判った《アリシャス》」

「何が……判ったって?」

 突如、シーヴの隣に立つ娘の瞳が――緑に光ったように見えた。

判った(・・・)。翡翠は眠ってるだけだ。失われてなんかいない。ほかの場所と同じだ。それに、ここも」

 先程まで不安が見え隠れしていたエイラの声は、いまは陽気だった。雪の上で息を弾ませながら目を輝かせながら遠くを見ている様子は、まるで、はじめて獲物を仕留めた新米の狩人(コルダ)のようだった。

「見ろ、シーヴ! 入り口だ」

 エイラが湖面を指差し、いったい彼女が何を指したのかとシーヴは懸命にその先を見つめた。

 世界が明るくなっていく。

 彼らの背中から太陽が姿を現す瞬間はもう、間近だ。

 その、最初の一筋が彼らと湖水を照らそうとする、ほんのわずか前。

 シーヴは息を呑んだ。エイラは明るく笑った。

 さあ――っと湖面が光った。

 微風がわずかに作るさざなみも、まるで光に気圧されたかのように静まった。

 それを「宮殿」と呼んだのはいったいどんな詩人だったのだろう?

 いったい誰が、湖の中にたくさんの手鏡と輝く宝玉などを仕込んでおいたのだろう?

 ほんの一(リア)。一(トーア)にも満たないその時間。

「行こう」

 それに驚嘆する間も感心する間も、本当に自分がそれを目にしているのか、これは夢ではないのかと迷う間も、なかった。

 エイラはその細い指でシーヴの手首を掴まえると、ぐいと引っ張りながら足を踏み出した。その歩に躊躇いはかけらもなく、シーヴは瞬時、迷いかけ――素早く心を決めた。

 悩む間はない。逡巡する間も。

 エイラは軽やかに足を進め、シーヴは冷や汗を覚えながらそれに続いた。

 魔術など、彼の領域ではない。

 それは魔術ではないのやもしれなかったが、それば別の何かだったとして、その差異などが彼に判ろうか?

 乱反射する光は太陽のものなのか宝玉の魔力なのか、陽射しの差し込むほんの一瞬前、それは像を結んだ。

 しかしそれを見たとしても、誰しもが何か形があると思う訳ではないだろう。

 それは夜空の星を結んで描く神々の姿のように、見える者にだけ、見ようとする者にだけ、意味を為す。

 凍るような冷たい水の上に一瞬にして浮かび上がる銀の幕。

 瞳を刺すかのような眩いきらめき。

 その壁は石でできた表情のない城壁よりもずっと暖かく、優雅にすら見えた。

 その扉は大きく頑丈なのに、少し押せば簡単に開くように思えた。

 一(トーア)にも満たない光の奔流に出会うものも稀ならば、それが白く輝く宮殿の姿をしていると考える者など、そのなかでいったいどれだけいるのだろう。

 そしてふたりは、その幻想の扉に一瞬で飛び込んだのだった――。


 そこが何であったのか、シーヴには説明できなかった。エイラもまた同様だったが、彼女は、そこは説明のできぬ空間であることを知っていた。

 真っ白な世界。

 だがこれは、シーヴが幾度か経験した、「遮断された」白さとは異なった。むしろ、その逆であった。世界は、拡がっていた。

 そこに目に見えるものは隣にいる互いだけ。

 完全なる無でありながら、それは、全。

 ただし、それはリ・ガンと呼ばれる存在だけが感じるものだったろうか。真暗い隧道を歩いていたものが、それを抜けて春の花園に行き合いでもしたかのようにエイラは微笑む。

 エイラがここを訪れることは決まっていたのだ。

 何故かシーヴにはそんなふうに感じられた。彼女をそれだけ奮わすものは、彼には伝わってこない。ただ、不安や警戒、何か変だといった警告を覚えることは――それこそ「何か変」なことと言えたが――全くなかった。

 エイラがこのときにここを訪れることは定められていた。その隣にシーヴがいることも。

(それでは、〈歯車の狂い〉とやらも、定められていたことだとでも――?)

 ふと、シーヴの脳裏にそんな考えが浮かんだ。

(ソレハ違ウ、〈鍵〉ヨ)

 その〈声〉にどちらも驚きはしなかった。ここにくれば聞こえるはずだと判っていた。

「……翡翠殿(セル・ヴィエル)かね?」

 〈塔〉が話すのだ、宝玉が話をすることに何の不思議があろう? シーヴのそんな思いが伝わったか、声は笑う。

(我ヲ翡翠(ヴィエル)ト呼ブナラバ、ソレモヨイダロウ)

 翡翠でないならば何者か――というような問いをシーヴは発しなかった。どうせ、納得できるようなまともな答えが返ってくるはずもないのだと判っている。

 それどころかもし、お前の見ているのは全て夢で、固く目を閉じて開けばそこはシャムレイの彼の部屋だとでもいうような、考えようによっては至極真っ当、十二分に有り得そうなことでも言われたら逆に、それは大嘘だと抗議するだろう。

(遅カッタナ、リ・ガンヨ。ダガ、ソレハオ前ノ罪デハナイ)

 エイラは何も答えなかった。答える必要はなく、声もそれは判っていた。

(リ・ガンハモハヤ、全テヲ知ッタ。ココハ、ソノタメノ場。リ・ガンノタメノ翡翠ノ宮殿ナノダカラ)

「翡翠の宮殿、ねえ……」

 シーヴは、文字通りに「何もない」周囲を見回した。

 ただ、世界は白いだけ。そう見えている視界が本物なのかも判らない。足元ですら、何かを踏みしめているとは感じられず、かと言って浮遊感もない。

「宮殿と言うには少し、装飾が足りないんじゃないか?」

 そう言うと声はまた笑う。

(〈鍵〉ハ、イツデモソウダナ。ソウヤッテ、人ノママデイル)

「人のまま?」

 シーヴも笑った。

「俺が人のままなら、エイラはそうじゃないとでも言うのか」

(ソウダ)

 声はあっさりと肯定した。

(リ・ガンハ、人デハナイ)

「……何だって」

(リ・ガンハ人ノ子デハナイ。翡翠ノ子ナノダ。人間ノ腹カラ生マレ、親ト呼バレル存在ト同ジ血脈ヲ持ッテモ、リ・ガンハ、リ・ガン。リ・ガンデシカナイ)

「意味が……判らんぞ」

(判ラズトモヨイ。ソレハ〈鍵〉ノ役目デハナイカラ)

 エイラは何も言わない。自分をただの下町の「少年」だと思い――思いたがり――〈塔〉がシーヴに彼女を人外だと告げていないだろうかと心配したエイラは、しかし何も言わない。

「それなら、俺の役目は何だ」

(ソレハ自分デ見ツケルノダ、人ノ子ヨ)

「そいつは親切だな」

「シーヴ」

 ここにやってきてから初めて、エイラが声を出した。シーヴははっとして隣を向く。

「あんたには、翡翠が定めた役目や使命はないんだ。ただ、私の指針であり、舵であるというだけ。リック導師の教えてくれたことはだいたい正解だったけれど、少しだけ違う。リ・ガンは翡翠を目覚めさせるけれど、眠らせなくてもいいんだ。〈鍵〉次第で」

 エイラはまるで夢見心地のようにぼんやりとした表情でそう言った。だが言葉ははっきりとしており、虚ろなところは全くない。

「何故、〈鍵〉と言うと思う。リ・ガンが翡翠を入れる箱ならば、あんたはそれを自由にできるからだ。箱を開けて取りだそうと、そのまま仕舞おうと、あんた次第なんだよ、シーヴ」

 それはまるで〈予言〉の続きだった。曖昧な言葉ばかり。

 だが、エイラには判っていた。シーヴが望むなら、翡翠が持つ力をどのようにもできる。シーヴが何をするというのではない。リ・ガンがするのだ、〈鍵〉が望めば。

「俺には……判らん」

 シーヴはまた言った。

「力を持つのはエイラ――リ・ガンなんだろう。第一、翡翠ってのは何だ。宝玉としての翡翠ならごまんとあるじゃないか。それにみんな、魔力だか何だかが宿ってるってのか」

(ソウデハナイ。ダガ、オ前ハ判ラズトモヨイノダ。オ前ハ〈鍵〉デアレバヨイ)

 声は言った。

(翡翠ヲ操ル力ヲ持ツノハ、リ・ガン。〈鍵〉デハナイ。〈鍵〉ハ何ノ影響力モ持タナイ。リ・ガン以外ニハ)

「判らないか? シーヴ」

 エイラは――リ・ガンは〈鍵〉に向き直った。シーヴは息を呑む。エイラは、間違いなくエイラであるのに、どこか違った。その違いは、彼女の瞳が翡翠のように緑色になっていることだけでは、ない。

「翡翠は、この大陸に淀む穢れを払うことも集めることもできる。私の力が整えば、シャムレイをあんたのものにすることだって簡単だ」

「馬鹿を言うな、俺はそんなことは……望まん」

 シーヴはひやりとするものを覚えた。シャムレイを第三王子のものにすると言う手段に関して、不吉なこと以外は思い浮かばない。

 これは本当に――エイラか?

 答えはすぐに返ってくる。もちろん、エイラだ。エイラがリ・ガンで、リ・ガンが何者であろうと。

「たとえばの話だ。前のリ・ガンが失敗をしたから、翡翠の脈動はおかしなことになっている。目覚めさせるだけのことも厄介だろうな」

 できないということは有り得ないが、とリ・ガンは言う。

(〈鍵〉ヨ。ヒトツダケ、助言ヲシヨウ)

 声が言った。シーヴは片眉を上げる。

(オ前タチハフタツノ名ヲ持ツ。ソレハ、コノ期ノ〈(しるし)〉トナッテイル)

「ふたつの――名?」

 シーヴは繰り返した。リャカラーダとシーヴ。それが彼の二つの名だろうか。エイラとエイルという名をシーヴは知らぬ。エイラとリ・ガンだろうか、と考えた。

(ソレ故、フタツノ名ヲ名乗ル者ハオ前タチニ関ワル。コノ期ノ翡翠ニ。ソレヲ忘レルナ)

「相変わらず判らん話だが……」

 覚えておこう、とシーヴは言った。声の姿は見えぬのに、満足そうにうなずいた気配が感じられる。

(時ガ、移ロウ。モウ戻レ、リ・ガン)

 声が言った。エイラはそれにふっと笑った。シーヴはどきりとした。その笑みは――美しかった。

 何の不安も翳りもなく、母の腕に安らぐ幼子のように邪気のない。

 生涯の恋人と決めた男の腕に抱かれる娘のように、満ち足りた。

 地表の全てを守る大地の女神(ムーン・ルー)のように、穏やかな。

(では、これが)

(リ・ガンか)

 不意に、シーヴの腑に落ちたものがあった。彼女がリ・ガンであり、彼がその〈鍵〉であるということ。声の言葉を頭で理解はできなくとも、全身で覚える「これだ(レグル)」という感覚。

 それでは(・・・・)やはり(・・・)エイラは彼の(・・・・・・)運命なのだ(・・・・・)

 シーヴの魂の奥底まで貫いた、その奇妙なる確信。

「行こう」

 エイラは言った。この〈翡翠の宮殿〉に足を踏み入れる直前と同じ、台詞。そして彼女は、先と同じように彼の手首を掴み、躊躇う彼を引いた。

 入り口も出口も判らぬ、永遠に広がるかのような真白い世界で、右も左も上とも下とも判らぬ方向にリ・ガンは何の不安もなく一歩を踏み出し――。

 何もない空間を「出た」と思うのもまた、奇妙だった。

 だがその瞬間、境界をまたいだのだと感じられたその最後の一刹那、シーヴの目――という言い方が違うのなら、心でも頭でもいい――に映った姿があった。

 その世界を白いと思っていたのは間違いだったのだ。白銀の宮殿は眩すぎて、彼の目は捕らえきれなかっただけだったのだ。

 色とりどりの、という伝説は間違いではなかった。そこには言葉で表わしきれないありとあらゆる色が存在し、だが彼をひきつけたのはただひと色。

 暗い、緑。

 彼が生涯で見てきたどんなものより――どの翡翠(ヴィエル)よりも濃く深い、その色。

 彼がその色のなかに見たのは、決して生身の人間の姿ではなかった。形あるものを見たとすら、言うことはできぬ。

 しかしそれでも、彼は見た。

 強く冷たく超然として、彼を――彼らを見下ろすのか、それとも見守るのか。

(〈翡翠の――)

(女王〉)

 そんな言葉が浮かんだ、と思う間もなく世界は再び白くなった。

 シーヴは急に不安に襲われた。たったいままで真白いなかで全てが見えていたのに、今度は見えなくなったと感じるのは、何とも奇妙なことだった。エイラに掴まれる自身の腕すら見えぬ。

 だが間違いなくそこに彼の身体はあり、その腕もあった。その手首を握る、彼の〈翡翠の娘〉もまた。


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