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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第4章

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07 〈仔馬〉座

 世界は――白かった。

 だが、それは閉ざされた視界という感覚ではなかった。

 世界は、広がっていた。彼の前に。

 初めてそこを知ったときにはただ呆然とし、気づかぬうちに涙をこぼしていた。

 それではここが、彼の世界なのだ。彼のために存在する、空間なのだ。

 そこには何もないのに、全てがあった。

 彼にとって、そこは完全な場所だった。

 その場所にいればこれまで抱いていた疑問が全て解け、謎が判り、未来すら見えるかと思った。

 そこを去ることは苦痛ではなかった。何故なら、いつでも彼は戻ってくることができるのだから。

 だがあるときから、その道は閉ざされた。

 その世界はあるときから、彼から遮断された。

 入り口は、閉ざされたのだ。


 目を覚ましたエイラは、既にシーヴが起きていることを知った。

「早いな」

 寝ぼけ声で言うと、寝付かれなくてね、と返ってくる。

「実はほとんど、眠っていない」

「何で」

 まさか自分が隣にいたせいではないだろうな、などとエイラは思う。そのような話ではないと思いたかった。

「ちょっと気になることがあったんだ」

 シーヴはそれだけ、言った。気になる女が隣にいるのに何もできなくて眠れない、と言うのは彼くらいの若者ならばありそうなことだったが、幸いにしてと言おうか、シーヴが気になったのはエイラの寝姿ではなく、エイラ自身だった。

(また、お前が消えちまったらどうしようかと思ってね)

「何だって?」

「何でもないさ」

 シーヴは首を振った。こんなことを言えば彼女が困るかもしれない、と考えたこともあるが、そんな台詞はまるで愛の言葉のようで自分でも可笑しければ――彼自身は認めないだろうが――気恥ずかしくもあった。

「明け方前ってのがどれくらいなのか知らないが、早く行っておくに越したこともないだろう。支度にどれだけかかる?」

「五(ティム)もあれば充分だ」

 年頃の娘にしてはなかなか剛毅な受け答えをし、エイラは欠伸をしながら寝台から起きる。

「寒いな、暖炉でもほしいところだ」

「もっと上等な宿にすればよかったか」

「別にいいさ、凍死するほど寒い訳じゃない」

 アーレイドの冬などたかが知れているし、カーディル城の客室ではエイルが目覚める前に暖炉の火が入れられていたから、目覚めた朝に身が縮まるほど寒い、というのは前日に続いて彼女の人生で二度目だというだけである。もちろんシーヴの方も、その経験の数は大差なかった。

 震える身体で冷たい防寒着に袖を通せば、王子殿下が「礼儀正しく」も背を向けていることに気づく。男女の関係でない男女のふたり旅など、なかなかに面倒なことだ。

「もういいよ、殿下(・・)。行こう」

 エイラの笑いの混じった声にシーヴは嘆息する。からかうように彼を王子と呼ぶのは、昨夜までの連れとどうやら変わらない。

 明け方前、早朝と言うにもまだまだ暗く、深更と言っても差し支えがないくらいかもしれない。だが星を見れば、旅慣れたシーヴにはもう桃の刻を迎えていると判った。エイラは星の運行には興味がなかったが、見覚えのある星座の高さが異なるのはいささか奇妙なものだ。

「〈ひとつ星〉があんな高いとこにある」

「ああ、双子のルサか。ひとつ星でありながらふたつ、ってやつだな」

「何だ、それ」

「ルサは双子の星だそうだ」

 シーヴは言った。遙か北方、地平線の彼方、海を越えて遠くまで行けば北にも同じようなひとつ星があるのだという。

「ふたつでありながらひとつ星、とも言うな。南のルサ、北のルサ、双子だとも言えば実は同じものだという話もある。星の伝承さ」

「ふたつでありながら……ひとつ」

 エイラは自身を思った。それはまるで、エイルの姿とエイラの姿を持つ自分のようではないか。

「〈仔馬〉座も高いな。ありゃ疲れそうだ」

「それなら聞いたことがある」

 シーヴの言葉にエイラは言った。

「罪を犯して、その罰に永遠に休むことを許されないって話だろ。西方に沈むことを許されないって」

「仔馬の星はいと高く、海の彼方に眠りの夢を見る。そを見仰ぐ地上の子には、傷き心は届かぬものぞ」

 シーヴはときどきやるようにそんなことを言った。エイラは片眉を上げてそんなシーヴを見るが、何も言わなかった。

「どんな罪を犯したらそんな罰が下るのかね」

 そう呟いたシーヴはふと、既視感を覚える。

(罪を犯して――それを償い続ける)

(誰の……話だったかな)

「何だ、知らないのか。いろいろ知ってるのかと思ったのに」

 エイラが茶化して言った言葉は、青年に、彼がよく吟遊詩人に言った台詞を思い出させた。

(ああ、クラーナが言ったんだったか?)

 一(リア)得心しかけ――否定した。

(いや……違うな)

 そうではなかったと思う。詩人の言葉では。だが誰の?

 思い出せないが、何故、クラーナだと思ったのだろう。

「ハサス、お前なら知っているか? 古の同族が犯した罪を」

 答えの出ぬ疑問は脇に置き、シーヴは愛馬に話しかけた。決して寒さに強いとはシーヴ以上に言えぬはずの東の(ケルク)は、これまで文句を言わなかったようにもちろんそれに返答することもなく、ただ主人に従って白い息を吐く。

「〈塔〉が話す世の中だってのに、馬が話さないとはね」

 シーヴの前に乗せられた──アーレイドでは馬など必要としなかったから、彼女は乗ることができなかった──エイラは笑った。それはまさしく、南の城で彼女が(ミィ)に対して考えた言葉であったからだ。

「話したら、きっと寒いってこぼして大変なんじゃないか?」

「それもそうだな。こんなところまで旅をするなんて聞いてなかった、なんてな」

 バイアーサラから西のリダエ湖まで、馬を疾駆させれば一カイとかからぬことだろう。だがそれに伴う冷たい疾風はこの旅人たちにはつらいし、幸いなことに一分一秒を争うほどのこともない。彼らはのんびり話ができる速度で、星明かりのもとを進んでいた。

 エイラにしてみればこうして男と密着するなど嬉しくも何ともないし、「女性のように」抱えられるのも納得がいかなかったが、これはエイルであろうとそうされるしかないのだから仕方ない。

 それよりも、警戒した雷神の子(ガラシア)の衝撃がなくなったことには、驚きながらも助かったと思った。

 一方でシーヴにしてみれば役得と言ったところだが、エイラはあまり「女性らしい」体つきをしていないものだから、ほのかな星明かりの下で身体を抱えていれば、砂漠の少年スルでも前に乗せている気分だった。妙な気持ちにならなくて助かるなどと、こちらもまた考えていた。

「クラーナは……どこに行ったんだろう」

 〈聖なる槍〉亭の厩に残されたままだった吟遊詩人の馬を思いだし、エイラは呟いた。

「さあ、な」

 見当もつかん、とシーヴ。

「あいつは俺の道標だと言ったが、お前にとってもそう言ったものだったらしいな。リ・ガンと〈鍵〉が出会えばもう役割は終わりだってことだとしても……いきなり消えるとは」

「まるで、私に会いたくないみたいだ」

 エイラは言った。シーヴは意外そうに彼女を見る。

「何故そんなふうに思う?」

「クラーナは私を東に導いたんだと思う。たぶん、あんたのいる方に。でも私は、その、ちょっと東に行きすぎた」

「そこで俺をスラッセンへ導いた。〈塔〉へ俺を送ることができる奇妙な子供のもとに。そしてどうやってか、俺とお前がうまく(・・・)いかなかった(・・・・・・)と」

「変な言い方をするなよ」

 まるで男女の仲を言うときのような表現に、エイラは顔をしかめる。

「すまん」

 素直にシーヴは謝罪した。

「まあ、ともかく、リ・ガンと〈鍵〉だと認識し合わなかったことをどうやってか知り……俺の前に姿を見せ、ここまで導いた」

「あんたが危ないと知らせたあの声はクラーナのものだったんじゃないかと思うんだ。なのに、姿を消した。私に会うまいとするかのように」

 「エイル」にガラシアの衝撃を残した詩人。何故エイラの前に現れない?

「何者なんだろう、あのフィエテは」

「さあ、なあ」

 シーヴはまた言った。

「魔術師なのかと冗談で尋ねたら、隠していたのにばれたのか、というような台詞を返された。あれが本気だったのか冗談だったのか。魔術の勉強でもしておけばよかったな」

 そんなシーヴの台詞に、エイラはシュアラがその学問を苦手としていたことを思い出す。

「魔力がなくても魔術の勉強をさせられるのか?」

「どうだったかな。俺は勉学が苦手な、不肖の第三王子なんでね」

 シーヴは肩をすくめる。

学問の(・・・)お時間(・・・)になると脱出を企てては、侍従にしょっちゅうとっ捕まっていたという訳だ。だがうまく逃げ出して、一度も受けなかった課目もあるかもしれん」

「へえ」

 エイラは面白そうに声を出した。

「それじゃ逆だ」

「逆?」

「いやその……私の知ってる、貴族の姫と」

 シュアラ、と言いかけてやめた。「リャカラーダ」は当然その名を知っている。アーレイドにいたことは秘密ではなくなったが、「シュアラ王女」と親しいというような話はしなかったし、いまからする気にも、不思議と、ならなかった。

「姫君に知り合いがいるのか。美人か?」

「まあ、可愛いよ。紹介しろとか言うなよな」

 そんなふうに言って、自身の返答にわずかにあった不自然な間をごまかした。

「言わんよ、故郷に帰れば婚約者殿が待ってる身だ」

 シーヴがそう答えると、エイラは思わず振り返って青年を見る。

「そんなものがいるのに、出てきたのか?」

「いや、出てくるときはいなかった。帰れば、用意されてるだろう。どこの姫君か知らんがね」

 あっけらかんというシーヴにエイラは口を開けた。このあたりの感覚が判らないと思うのは、シュアラに対して感じたものと同じだ。

「知らない相手と結婚することに不満とか不安とかはないのか?」

「それが王族の務めだ、生憎とな。都市によっては第三王子くらいなら好きにさせてもらえることもあるが、俺は父上を怒らせてる。言うことを聞かないと拙い」

 「シーヴ」と「リャカラーダ」が混じった物言いは、彼には楽だった。ウーレを相手に語っているような気分になれる。

「そんな理由で、知らない相手と結婚するのか」

「……どうした」

 ゼレットならば「妬いてるのか」とでも続くところだが、シーヴの口からはそうは出ない。だがエイラ――エイルは少し、妬いていたかもしれなかった。見知らぬ、シュアラの相手に。

 シーヴもまた、もしや彼女は自分の結婚が気に入らないのだろうかなどと自惚れはしなかったが、何かが彼女に引っかかったらしいことは気づく。

「惚れた相手でもいるのか?」

 シーヴは何となく尋ねた。闇の中でエイラがたじろぐのが判る。

「そっ、そんなんじゃ……」

「どんなんでも、いる、という回答だなそれは」

 シーヴには別にからかうつもりもなければ、どうやら特に嫉妬心も起こらないようだが、それ以上は答えずに肩をすくめるエイラが何故か少し、心配になった。

(何を馬鹿なことを考えてるんだろう)

 エイラはこっそり、自嘲した。

(シュアラとは何でもなかったし……だいたい彼女はどっかの貴族の息子だの)

 考えながらちらりとシーヴを見る。

(どっかの第三王子だのと結婚するんだって知ってるじゃないか)

 エイル少年の目の前でシュアラがそんな話をしたときは、そう言った感覚に違和感を覚えはしたものの、それ以上の感情はなかった。だがこうして距離を置き、時間をおいたというのに、「エイル」はその考えが気に入らなかったり、苛ついたものを覚えたり――している。

 郷愁や懐かしみの念が、少女への思い――友情と親愛の混じった、これからどうとでも変化しそうな感情に、勝手な捻りを与えているのかもしれない。

(帰ったときにはもう、俺が聞いたこともないような誰かと結婚してるかもな)

 気軽に考えてみるものの、そうなればもう王女殿下の自室にあがって雑談をするようなことはできなくなるだろう。

 そうでないと、しても。

(帰れるのかな)

 またも不安の縁に沈み込みそうになって、エイラは首を振った。

 悩むのはあとだ。道が見えるいまは、ただ進めばいい。


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