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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第3章

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08 盗賊

 ざくざく、と踏みしめた霜柱は長靴の下で気味の悪い感触に代わっていった。

 南の子供ならば寒い朝に盛り上がった土を踏みしめることはちょっとした遊びであろう。だが東国出身の青年には、いささか見慣れぬ不気味なものに思われるのだ。

 バイアーサラの街路は舗装されていない箇所も多く、この時期、日影ならば一日中冷たいが、下手に陽射しが当たればぬかるんで厄介なことになりそうだ。

「――それじゃ、朝市で飯でも?」

「うん、持っていけるようなものなら外で食べてもいいしね」

 昨夜の異様な出来事については、どちらも触れなかった。朝の光のなかではそれはいかにも馬鹿げた怪談であるかのように思え、しかしもちろん、悪夢などでなかったことはどちらも知っている。ただ、何かを互いに話し合ったところで何も判ることなどないだろうとそんなふうに思っているだけだ。

 〈魔術都市〉という言葉が思い出されなかった訳ではない。魔術に縁のないシーヴでも、あれがこの辺りに巣食う冬の魔物でないとしたらなにがしかの魔法だと考える。これは、いつだったかクラーナが茶化したようなものぐさな思考ではないだろう。

 とは言え、答えは得られない。あれは行ってしまったし、クラーナが知らないといった言葉に嘘はなさそうだ。

 いずれ、判るときがくるかもしれない。判らないままかもしれない。だがいま、それを思い悩んでも仕方がなかった。

 冬の朝は概して爽やかだの健全だのと呼べる類のものであるが、市の立つ辺りでは荷の上げ下ろしやら場所の取り合いやらで、ちょっとした騒ぎも起こりがちだ。冬のバイアーサラは五日に一度の朝市を迎えていた。

 毎朝開く食物の屋台やら小さな店はあったが、冬の間は通行量がめっきり減少する。一日に訪れる商人たちの数は減るが、彼らは町で少し休んでいこうと考え、そうこうする内にほかの商人たちが来る。五日程度の日数は、彼らがそうして休憩と商売を兼ねるのにほどよい期間であった。つまりこの日はその五日市の朝で、二人の旅人は南国の身を切るような寒さに身体を縮めながら――主に縮めていたのは東国の青年の方だったが――簡易な食事の屋台などをのぞいた。

 何かが変だと気づいたのはどうしてだっただろう?

 クラーナは特に警告(・・)は発さないし、昨夜のような薄ら寒い――実際の気温とは別な話だ――ものも感じられない。だから、青年が「見られている」と感じたのは目のない謎の気配によるものではなく、生身を持つ何者かの目が彼に注がれているからだと言うことになったろう。

 東の地以外でシャムレイの衣装を着ていれば目立ち、アーレイドで遭ったように面倒事に巻き込まれることは珍しくない。ここではほかの町びとと同じように防寒着を――いささか、周辺よりは厚着ながら――着ているものの、彼の「異国風」の顔立ちは隠せなかった。大きな街や海沿いに行けば雑多な人種が交じり合っているのは普通のことだが、内陸の、「湖の景観」くらいしか名物のない町ではシーヴの浅黒い肌は目立ったのだ。

「おい、先に行ってろ」

「どうかしたの?」

 クラーナが不審そうに振り返ると、〈砂漠の王子〉はにやりと笑う。

「客人があるみたいだ」

「……待ってよ、夜の繁華街ならともかく、どうして朝の市場で面倒なことをはじめようってんだい?」

 シーヴの言う意味に気づいて、クラーナは嘆息する。

「わざわざ危ない目に遭おうとするのはやめて、このまま市場の方へ行こう。人混みに入れば、誰だか知らないけど、追ってこないさ」

「そりゃどうかな。滅多にいない、〈冬場の獲物〉だぜ、俺たちは。腹をすかせた野良犬(オロテュラス)ども、次の獲物が通りかかるのを待つよりは追いかけてきて、短気を起こせば人込みに紛れて」

 シーヴはしゅっと短剣を振るう真似をした。

「大都市じゃないんだから、少々の稼ぎのためにそこまでやろうって盗賊(ガーラ)はいないんじゃないかな。せいぜい、財布の紐を切られるだけさ」

「俺は黙って切らせる気はないってことだ」

 言いながら刀子に手を伸ばそうとする青年の腕をクラーナが掴んだ。

「待ってってば」

「何も斬りあおうってんじゃない、向こうが手を出してきたら挨拶を返さなきゃならんだろ」

 用心のためだ、というシーヴをクラーナはじろじろと見た。

「身体を動かせば温まる、なんて考えてないだろうね、王子様?」

「成程、そりゃ一理だな」

 シーヴがぽん、とばかりに手を打つと、〈蜂の巣の下で踊る〉ような台詞だったか、とクラーナは天を仰いだ。

「シーヴ。頼むから、危ない真似はやめてくれないか。僕が警告をするのは君の進む道を助けるためだけじゃなくて、君の命を守るためでもあるんだよ」

「そいつは大げさだ、吟遊詩人殿(セル・フィエテ)

「冗談で言ってるんじゃない。頼むから(・・・・)、やめてくれ」

 クラーナは繰り返した。

「あんな思いを二度もするのはご免だ」

 それは、クラーナが誰かを失ったことがある、と言う以外の意味にはとれなかったが、シーヴは内心で首をかしげた。

 もし、旅仲間を亡くすとすればそれは、相当に悲痛な苦しみを伴うだろう。

 だが彼らの間にそのような仲間意識はあるだろうか? もちろん、ひと月近く隣り合って同じ時間を過ごしたのだから、親愛の情が全くないと言うほどはシーヴも冷たくない。しかし「これくらい」に仲のいい相手が馬鹿をしそうになれば、遠慮がちにとめるか、もっとやれとはやしたてるか、呆れて放っておくか、という辺りではないだろうか。

 なのに、クラーナの言葉はまるで身内か、それ以上の親しい者に対して取る態度のようではないか?

 ならばこの詩人は、よほど大事な相手をなくしたのだろう、と彼は推測した。隣で誰かが危険に遭えば、かつて大事な誰かが同じような危険に遭い、そして逃れなかったことを思い出させられるのだ。

 シーヴにはそのような経験はなかったから、彼にできるのは想像だけだった。確かにそれはとてもつらいことだろうと思われたが、同時に、若く健康な者がみなそうであるように、彼は自らの上にそのような不運が降りかかるとは思わない。

「別に先手必勝とばかりに突っかかっていく気はないさ、馬鹿な心配をするな。判ったよ、お前の言う通り市へ向かおう。まずは朝飯だ。それでも」

 シーヴはにっと笑う。

「奴らがどうしても俺の財布がほしいってんなら、相手になってやるしかないだろう?」

 クラーナは安堵なのか諦めなのか、ひとつため息をつくとシーヴを促した。

 彼らの朝食はこの付近でよく見られる、よく煮込まれてとろとろとなった出汁に網の上で焼いた(ポル)を入れただけの簡単なものだった。店によっては様々な具を選ぶこともできたが、朝市のために立つ小さな屋台では入れるか入れないかを選ぶ程度であり、彼らはどちらも、煮くずれた(ビック)と焼き色の付いた(ポル)の上に、香辛料に浸けてこれまた柔らかく煮込まれた煮(コット)を数切れと乱雑に刻まれた青葱(レセル)を乗せてもらった。

 市の売り手や買い手たちに混ざって、路上に置かれた卓につく。どこもかしこも世辞にも清潔とは言えないが、旅慣れた身には何の抵抗もなかった。第三王子の侍従が見れば、口をひん曲げることだろうが。

 こういった食べ物で身体を温める方法など、砂漠に近しい町を治めるのには役に立たなさそうだ、などとシーヴは久しぶりにリャカラーダ王子めいた思考をした。

「なあ、ちょっと聞いてみたいことがあるんだが」

「どうしたの?」

 残った汁物を飲もうと器を手にしたまま、クラーナはシーヴの声に答えた。

「俺はそんなに、いい男かね」

「……まあ、十人並みのちょっと上ってくらいじゃないか」

 突然妙なことを言い出したシーヴに尋ね返すことはせず、クラーナはそんな返答をする。

「俺だって別に自惚れちゃいないが、どうにも熱い視線を感じるんでな」

「さっきの連中かい? まだ、いるって?」

「現実の視線は、判らんのか?」

 昨夜のクラーナは謎の接触に対する反応を過敏なほどにしていたのに、とシーヴは意外に思う。

「生憎とそうみたいだね。僕が格別に鈍いとは思いたくないけど」

 クラーナはそう言ってゆっくりと周囲を示した。

「あのね、君は目立つんだよ、砂漠の王子様。でもこの辺りじゃ仕方ない」

「そうらしいな。間違いなく余所者って訳だ。どうしても俺に手を出す気だな。どうしたらいい、道標殿?」

 安全策は?――などと尋ねるシーヴをクラーナは軽く睨み、嘆息した。

「今日は、湖に行く話はやめた方がいいね。町を出たりしたら喜び勇んで襲ってくるよ」

「ちんぴらの二、三人くらい、俺が撃退できないと思ってるのか?」

「やめてくれ、と言ってるだろう」

 冗談めかしてシーヴが言うと、クラーナは眉をひそめた。

「君はこんな僕を馬鹿にしたいらしいけれど、僕は嫌なんだ」

「馬鹿にはしないが」

 シーヴは平然と言った。

「向こうが諦めてくれるのを待つよりも、諦めさせる方が早いだろう? 何も力ずくっていうんじゃないから安心しろ」

 言うなり青年は立ち上がり、自身の器とクラーナのそれをぱっと掴むと専用の片づけ場所に置いた。クラーナがどう応じたものかと迷っている間に――青年は卓に戻る様子を見せず、そのまま人混みに、姿を消す。

「シーヴ! 待てよ!」

 はっとなった吟遊詩人の叫びを後方に置き、シーヴはしなやかな動きで市の人波を縫った。振り返らなくても、少し離れた卓に座っていたふたりの若者が彼を追ってきたことは判っている。

 ときには慎重さも必要だが、シーヴはどちらかというと大胆になりやすい気質の持ち主だ。このときも芽生えていたのはそれだった。いや、いまのそれは大胆さではなくただの衝動にすぎない、と彼に忠告する第一侍従は、幸か不幸か彼の近くにいない。


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