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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第3章

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07 それ

「ところで」

 客人たちがあらかた満足したのを見て取ったシーヴは、これまでの旅でもずっとやってきたことを繰り返す。

「この周囲には、何か面白い話はないのか?」

 「伝説、伝承、お伽話、子供の寝物語でいいんだが、もしあったら聞かせてくれないか」と続ける。シーヴの巧みな話ぶりのあとに語ることを嫌がる者もいるが、多くはお返しにとばかりに何か――神秘的、魔術的に思える話をしてもらえるものだ。

 それが彼の求めているものに少しでも関わることは稀だったが、その代わり、彼はそれこそ吟遊詩人(フィエテ)語り部(トラント)になっても食べていけそうなほど、物語を知ることになった。

 この町でシーヴが聞くことができたのは、すぐ隣にあるリダエ湖についての話くらいであった。それも伝承と言う類でもなく、早朝に町の少し東に離れた丘から湖を見ると、何とも美しく輝くという話だ。寒い朝には妖精が踊っているだの、白銀に輝く城が見えるだのという話もあったが、実際に見たものはおらず、まあ言うなればそれがこのバイアーサラにある「伝説」だと言うことになったかもしれない。

「どうする? 行ってみる?」

 隙間風の入ってくる窓をいまいましく見やっていたシーヴは、クラーナの言葉に首をひねって振り返る。

「何だって?」

「ほら、白銀の湖さ」

「ああ」

 シーヴは笑った。

吟遊詩人(フィエテ)なら好みそうな話だったな?」

「僕のことはどうでもいいんだよ」

 シーヴの言葉をぴしゃりとやった。

「まあ……せっかく、それを見るのに相応しい時期に訪れたんだから、行っておいても損はないだろうな」

 何気ない顔をしてそう言ったシーヴは、しかし測るようにクラーナを見た。

 凍った湖面が陽光を受けて金に銀に色とりどりに輝くその様はまるで魔法のようだ、などという話に引かれて、酷く寒いところへわざわざ出かけていくと言うのは馬鹿げている、と彼は思っていた。とりどりの色のなかに〈翡翠〉色はないだろうかと何となく考えたことは否定できなかったが、それこそ「馬鹿げて」はいないだろうか?

 だが、クラーナはそこに水を向けている。案内しているとも誘っているとも言いがたいが、それは「あっちに何かあるよ」と指差すかのようで――。

(道標、かね?)

 少しばかり疑わしいものを覚えながらも、そう考えるとクラーナの「何気ないふり」にも却って納得がいく。シーヴはクラーナの役割を忘れた訳ではない。彼がどこまで何を知っているのかは依然として明らかにされていないが、彼が「どこかを指した」と感じられたのは初めてだった。

「どうやら絶景らしいからな。ひとつ、詩でも作ってもらおうじゃないか、吟遊詩人(フィエテ)

 シーヴがそう言って行ってみることをほのめかすとクラーナがほっとしたように見えたのは――気のせいだろうか?

「その前に、君はもう少し防寒着を用意したほうがいいかもしれないよ」

 クラーナは声に出してはただそんなことを言い、シーヴの寒がりをからかった。

 こう寒い場所に来ると、故郷で砂や汗を流すのとは違う意味で熱い風呂(ウォルス)に入りたくなるところだが、湯屋などとうに閉まっているし、開いていたところで湯屋から宿に戻ってくる間にすっかり冷めてしまうだろう。粗末な宿の各客間には暖炉などあるはずもなく、彼は食堂の火と酒で温めた身体が冷え切らない内に寝台へ潜り込むことを考えた。

 金属の器に湯を入れた保温用の器具はこの時期は無料で貸し出されており、シーヴは布にくるまれたそれを有難く受け取っていたものの、急速になくなっていく熱を恨めしく思っていた。

「こいつをずっと温かくしておける魔術でも知らないか?」

「生憎と」

 シーヴのため息混じりの言葉にクラーナは苦笑して答えると自身の寝台の方へ足を向けようとし――ふと、その場に留まった。

「どうした? すきま風を防ぐいい方法でも思いついたのか?」

 布団をめくりながらシーヴが言っても、クラーナは彼の方を見ようとはしなかった。

「いいや、残念ながら。ただ……気になるんだ」

「何が」

「誰かが、見ている気がする」

「何だって?」

 シーヴは温かい金属の器を布団の間に挟み込むと、改めて吟遊詩人の方を見やった。クラーナが見ているのと同じ、風の吹き込む窓を見る。

「……誰もいないだろう。ここは二階だぞ」

 そう言って首を振ると寝台に腰を下ろし、だがそのまま横になるには、クラーナの言葉には深刻な響きがあった。

「お前には、何か、見えるのか?」

 そんなふうに言うと脱ぎかけた長靴にもう一度足を通す。

「――クラーナ?」

 彼が吟遊詩人の名を呼ぶことは珍しかった。たいてい二人称か「吟遊詩人(フィエテ)」で済ませていた。だがいまは、名を呼ばないとクラーナの意識をこちらに向けさせることができないような気がした。

「どうした」

 返答がないのが気になって、シーヴはしばしの相方の隣へ行った。

「おい」

 肩に手を置いて、はっとなる。吟遊詩人は、かたかたと身を震わせて、いた。

「寒いんじゃ……ないよな」

 クラーナの方が彼より寒さに強いことは承知である。

来る(・・)

「何を言って」

「駄目だ、シーヴ。窓から離れて!」

 シーヴは、逞しい身体を持っているとは言えないが、均整の取れた身体つきだとは言えた。城を脱け出し、勉学を多少怠っても、乗馬や剣の鍛錬は城でも砂漠でも熱心に励んだものだから、戦士(キエス)とまではとても言えずとも筋肉もついていれば、身体はできていた。

 それ故、彼は驚いた。細腕の吟遊詩人が、彼を突き飛ばすようにして押しのけた、こと。

「見られるな、シーヴ!」

「何の」

 話だ、と返そうとして、やめた。

 それは唐突に、シーヴにも理解できたからだ。

見ている(・・・・)!)

 ばっと寝台に戻って細剣を手にし、その鞘を投げ捨てるようにしたのは、何か考えた結果ではない。それは我が身――と連れ――を守ろうと言う、ほとんど本能的な所作だった。

「駄目だ、隠れるんだ!」

 クラーナが小声で叫ぶのに、彼はにやりとしてみせた。

「何処へどうやって隠れろと? もう、見られてる」

 シーヴの全身が粟立ったのは、冷たい空気のためだけはない。

 それ(・・)は、薄い煙のようにふうわりと漂った。いや、それはそんな姿すら見せてはいなかった。ただそのように感じられただけ。

 一(リア)のことだった。

 それ(・・)は、確かにシーヴを見た。

 それに目などないのに、はっきりと視線が合ったと確信できるのは奇妙を通り越して、不気味だった。

 彼は剣の柄を強く握り直した。寒気とともに掌に浮かんだ嫌な汗が、頼りにできるはずの武器という存在を何とも危ういものに感じさせた。

 十(トーア)、二十秒、一(ティム)――シーヴはしばらくの間、そうしてじっと剣をかまえていた。

 本当は、知っていた。

 もう、とうにそれは部屋から去っている。ここにいたのは、さきの一瞬だけだ。

 それ(・・)は、ビナレス中をひといきに探って彼を見つけたが、それ以上のことはいっさいできぬのだ。

 ただ確かなのは、彼が見つかったと言うこと。

「……クラーナ」

 彼の方が呼びかけた。吟遊詩人はまるで魔法でもかけられたように――スラッセンでランドがまさしくかけられたように――じっと固まっていたが、青年の声にびくりとして振り返った。

「いまのも、お前の『ご存知』の事柄のなかに入ってるのか?」

「ああ……何だって? いや、違う、私は――知らない」

「だが俺に警告をしたな。俺が気づくより先にあれに気づいた」

「僕の役目は君に警告をすることだと……言ったよね。だからそれはそれだけの……ことで」

 クラーナの物言いははっきりしないことが多いとは言え、その声が聞き取りづらいというようなことはなかった。吟遊詩人の発声はいつもしっかりしていて、たとえ小声で囁かれてもクラーナの言葉ははっきりシーヴに伝わったものだ。だが、このときはどうにも異なった。

 クラーナは、寝言でも言っているように口をもごもご動かし、その言葉はちっともはっきりしないのだ。

「しっかりしろ、あれはもう、去った!」

「待ってくれ、あと……少し……」

 シーヴがクラーナの両肩を掴むと、フィエテはそれを苦しそうに払いのけた。青年は少し驚き、払いのけられたままでクラーナをじっと見る。そのまま、数(ティム)が経ったろうか、クラーナはほうっと息をついた。

「消えた」

「――どこまで、追った?」

 シーヴは問うた。クラーナが何をしていたか、はっきり判った訳ではない。だが感じていた。吟遊詩人は、彼らを見ていた何かを追おうとしていたのだ、と。

「……消えるところまで」

「何者だ?」

「判らない。でも」

 クラーナはがくりと膝を折った。青年はそれを支える。

「ああ……すまない。でも、できるだけのことはした。間に合ったと……思う」

 吟遊詩人が何を言っているのか判らなかった。問うても答えは戻ってこないだろう。シーヴは黙ったままでうなずくと、風の鳴る窓を三度(みたび)見つめた。

(外は――寒いな)

 そんな当たり前のことをふと思った。


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