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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第3話 白銀の宮殿 第2章

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09 何も言わないままで

 お役ご免、である。

 エイルは息をついて寝台に身を投げ出した。

 吟遊詩人の歌物語は五色(ごしき)の姫の伝説をはじめとしてどれも面白かったが、とりたてて彼の心を刺激するものはなかった。

 伯爵が本当に彼を「放っておいて」くれたので、それじゃ約束通りとばかりに以前から可愛いと思っていた娘たちに声をかけたが、彼女たちはエイルの誘いに応じては伯爵の機嫌を損ねるとでも思っているらしく、反応は芳しくなかった。ひとり、キュレイという娘とはずいぶん話が弾んだが、掃除人の若者ボリーと恋仲であるらしく、本日のエイル少年の成果は皆無となる。

 自分が何か悪かったというのではなく雰囲気を掴み損なったのだ、女の子と遊ぼうなどと思ったのは久しぶりなのだから仕方がない、と少年は自分を慰めた。

 一方で気づくと伯爵はルア=ヴィートとともに姿を消しており、これなら彼女が彼のもとに送り込まれることもないだろうと少年は妙な安心をしてから、厨房の片づけに参加したのだった。

 寝間着に着替えるとひんやりと冷たい。

 いつもならば使用人が暖炉に火を入れているし、布団も温められている。この南の地では熱い風呂(ウォルス)は贅沢よりも必需品だから、そこで温まってから眠ることもできる。しかし今宵は、伯爵の「はからい」で、ほとんどの男たちは同僚の女なり春女なりを捕まえ、仕事など忘れて彼らの部屋やらどこかの暗がりやらに籠もってしまった。

 ひとりで風呂を炊いたことなどないからそれは諦めねばならなかったが、暖炉に火を入れるくらいはできる。エイルは凍える身体で薪を燃そうとし、呪いの言葉を吐いた。火口になるものがない。

 仕方なく、火を起こす呪文を懸命に思いだし――簡単なものだが、彼にはまだ高度だった――どうにかやり遂げたときは心底ほっとしたものだ。冷え切った身体でよく冷えた布団のなかになど入りたくない。

 不意に風が入ってきたような気がして、エイルは慌てて暖炉のすぐそばに立った。この屋敷の中ですきま風など感じたことがなかったことは、思い出さなかった。

 暖炉の前で、まるで屋台の焼き豚か何かのように何度もくるくると回っては身体を均等に温め、ようやくひと息がつける。火を消してしまおうか、いや、放っておけばどうせ数刻と立たずに消えてしまうのだから、このままで眠ろうかと少し迷い、何となく炎に手をかざしたとき――ぎょっとした。

(なっ何で)

 その手は、細い。よく見慣れた、少年のものとは違う。それをよく見ようとでもするように少しかがめば、さらりとした髪は肩を撫で、簡単に視界に入った。

 エイル、いや、エイラは呆然とする。

(何で……? 魔術を使ったからか……?)

 だが、こんなことは、これまでなかった。

 初めのうちは自分ではそうしようとしないのにエイルとエイラが入れ替わることがあったが、それには大きな衝撃が伴った。すっかり〈調整〉を覚えてからは痛いほどの衝撃もほとんど感じなくなったが、何も感じずに変わっているなど、初めてだった。

 そうと判るとすうっと血の気が引く。温まった身体も、一気にその体温を下げたかのようだった。

(馬鹿な)

(こんなことが起こるようじゃ)

(人前にも……出られないじゃないか)

 動悸が激しくなる。その小さな手が震える。ゼレットの前で、いや、彼に限らない、誰の前であろうと突然エイル少年の姿が変わったら――逆でも同じだ――大騒ぎになる。

 何か魔術をかけられているのだと言おうか? そうすれば言い訳にはなるかもしれなかったが、説明にはならない。不気味に思われることは間違いないし、場合によっては石でも投げられて追われるかもしれない。

(カーディルの町に……魔術師協会(リート・ディル)はあったっけ?)

(いや、駄目だ、協会(ディル)なんか頼れない。リック導師なら……信頼できるけど)

 アーレイドは遠い。

 魔術師同士ならばできるとされる〈心の声〉の術も、実を言えばエイラにはできなかった。できたとしても、これだけ離れていればいささか難しいのだが。

(どうしよう)

(どうしたらいい?)

(落ち着け――落ち着けエイル。感情が乱れるのがいちばん駄目だって、確か導師は言ってた)

 だからアーレイドの旅立ちの前に、シュアラとファドックに会っても問題ないかを確認したのだ。あのとき、いちばん少年の心を乱すふたつの存在を前にしても平気だったのだから、〈調整〉に慣れたいまとなっては絶対に問題はないはずだった。

 ゼレットは確かに少年の心を乱すが、いまこの瞬間に、伯爵に何かを言われたりされたりした訳でもない。だいたい、思いも寄らぬ口づけを受けたときでさえ平気だったではないか。

(このままじゃいられない)

(エイルに戻ることはできる、だろう。でも)

(いつ、これ(・・)が起きるか判らないなんてことになったら)

(いや……もう、なってるのか? いつ起きるか、判らない)

 赤々と燃える暖炉の前で、エイラは身を震わせた。

(それじゃ)

(ここを……出なきゃならないってのか?)

(また、別れの挨拶もしないままで)

 ヒースリー。隊商の人々。〈塔〉。

 彼らは、忽然と消えてしまった自分をどう思っただろう?

 アーレイドでは挨拶こそできたが、説明はできていない。もう、厨房の下働きをしていた少年のことなど忘れてしまっているかもしれない。

 ゼレット。このまま姿を消せば、彼はどう思うだろう? しつこくしすぎたかと少し後悔するくらいだろうか?〈翡翠〉に関する話――もしかしたら、戯言――も忘れてしまうだろうか?

(行きたくない)

(何も言わないままで、なんて)

(こんなふうに、逃げるように)

 まさしく「逃げる」のだ。だがゼレットからではない。〈翡翠〉からでも。では、何から? いまの彼女には答えは見つからなかった。

(行きたくない)

(でも)

 エイラは自身の両手を見やった。

「行くしかない……のか」

 出た声は娘のものにしては低めだが、少年のものよりは明らかに高い。

 エイラはぎゅっと唇をかんだ。

 暖炉の上にある燭台を手に取ると、火をつけた。こんなことになるだろうと思っていた訳ではなかったが――それとも、思っていたのだろうか――街で何となく買いそろえた私物を荷に詰める。

 窓を見れば、外は吹雪いてこそいないが雪が降っていた。この格好で出る訳にもいかないと、エイラは棚へ寄って引き出しを開け、与えられた外出用の防寒着を着込んだ。

 古びていたが、フード付きのマントがなかでもいちばん、有難かった。屋内でそんなものを身につければ目立つが、顔を見られたくない。今日は誰も彼も部屋に帰っているだろうことを幸運の神ヘルサラクに感謝した。

 きぃ、と開けた扉の音が実際よりもずっと大きく聞こえる。エイラは肩をすくめ、数(トーア)じっとしてから戸の外を見た。案の定、誰もいない。

 そっと足を踏み出して――ぎくりとした。何か動くものがある。

「……カティーラ」

 そしてほっとした。何のことはない、伯爵の白猫が、闇のなかで目を緑色に光らせていただけだ。

「何だ、ゼレット様の部屋を追い出されたのか? それならここを使えよ、ここの客は……帰るところだから」

 火も入ってるよ、などと小さくつけ加え、エイラは白猫を手招いた。猫はしばらく尻尾を振って動揺を見せていたが、彼女が自分に近づいて抱き上げようなどとはしないことを見て取ると、ゆっくりと彼女に寄ってきた。

「ナア」

「しーっ」

 思わず、口に指を当てる。

「ゼレット様に詫びを言っといてくれな。……なんて、無理か」

 〈塔〉が話をするのに(ミィ)が話さないなんて馬鹿げてる、などとそれこそ馬鹿げたことを考え、エイラはカティーラが室内に入ったのを見届けると戸を閉めかけ、これでは猫が出入りできないと思い直して少しだけ開けておいた。

「それじゃ、な」

 小さく小さく、呟く。

 たとえ動物にであっても、別れの挨拶ができたことは、彼女の心を少しだけ慰めた。


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