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翡翠の宮殿  作者: 一枝 唯
第1話 翡翠の宮殿 序章
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01 今日の仕事を探さなけりゃ

 概して、街の外に出て行く人物にはろくに気を払われないものだ。

 門番たちが警戒するのは不審人物――定義は様々だ――が彼らの街に入り込んでその平和を乱すことであり、出て行ってくれる分にはかまわないという訳である。

 もちろん、街で罪を犯した者がこっそり逃げようとでもしているのなら話は別だ。騒ぎがあれば門も封鎖されるし、しばらくは手配書との照合だって厳密に行われる。

 だが、このときの街は、平穏そのものだった。よって、大門を預かる当番兵は、実に基本的で簡単な確認しか行わなかった。

「おっと、すまないが、そのフードは取ってくれ」

 彼は言った。

「決まりなんでね」

 全身を覆う黒いローブに、頭部を覆い隠すフード。言わずと知れた、魔術師(リート)たちの格好だ。

 黒ローブを着ているからと言って必ずしも魔術師であるとは限らないが、そうではない者がわざわざ魔術師らしい外見を作ることも――あまり――ない。何しろ一般的に魔術師は忌まわしいとされ、煙たがられる存在だからだ。

 なかには極端な魔術師嫌いもいて、偏見の酷い田舎では石を投げられるようなこともあったが、ここは王城都市であり、相対するのは正式な軍兵だ。兵士は何も嫌がらせで顔を見せろと言ったのではなく、あくまでもただの形式として言った。

 大したことではない。むしろ当たり前のことだ。魔術師には偏屈な者も多いが、合理性を好む者も多い。つまり、顔を見せる見せない程度の問答で時間を食うのは馬鹿げていると考える。

 だから、兵士が「顔を見せろ」と言うくらいで騒動は起きないものだ。

 もっともこのとき、その黒ローブを着用した人物は、わずかに躊躇した様子を見せた。

「どうかしたか?」

「……いえ」

 細い声が言った。少し震えているようでもあった。

「これで、いいですか」

 フードの下から、年若い少女の顔が現れた。二十歳前というところだろうか。幼さは残っていないが、成熟したと言うにもまだほど遠い、この年代の少女だけが持つ独特の印象。

 はっとするほどの美少女ではないものの、きれいだと評することに誰が気が咎めないであろう容貌。不安げな表情は儚さを醸しだし、心得違いをした男でもいれば「俺が守ってやろう」などと思わせるかもしれなかった。

 もっとも兵士はあくまでも仕事として顔をあらわにさせただけであったし、別な意味で単純に「こんな可愛らしい娘であれば、何も怪しくないな」と判断しただけであった。「行ってよし」と伝えると同時に、これまた単純に「娘のひとり旅など危険そうだ」とでも思ったか、「気をつけてな」と付け加えた。

 少女はそれにぺこりと会釈して、再びフードを被ると大門から東へと歩を進めた。

「――やれやれ」

 しばらく離れてから、彼女はそっと呟いた。

「何でこんなびくついてるんだ、情けない」

 ふう、と息を吐く。

「ばれるはずなんか、ないのにな」


 アーレイドの春は、美しい。

 湾の奥に位置するこの街は温暖な気候で、冬枯れというものをほとんど知らない。しかしそれでも、萌え出づる春と言うものは人々を暖かく、やわらかな気持ちにさせる。

 何とはなしに心が騒ぎ、浮き立つ季節。何か新しいことをはじめたくなったり旅に出たくなったり恋をしたくなったり、誘うような青い空のもとで人々は笑い声の絶えぬ春を迎えていた。

 果てのなき広大なる世界、フォアライア。

 この地は果てることなくどこまでも広がっていると、少なくとも人々にはそう信じられていた。

 ラスカルト大陸の東には延々と砂漠が広がり、ファランシア大陸の南には越えることかなわぬ山脈が立ちはだかる。リル・ウェン大陸の北には夢幻の霧だけが立ちこめて、足を踏み入れた者は永遠にさまよう羽目となり、大海の西に巨大な洞窟が口を開けていて、生ある者を飲み込んでしまうのだと噂された。

 行くことのできぬ不思議な境界の向こうは神々の世界ともされていた。神々は、しかし人々には日常的な存在だ。彼らは、日々の平和、時には欲望の成就、そして他者への呪い、そういったものをそれぞれに相応しい神に祈るものだからだ。

 とは言っても毎日の暮らしに神々が干渉することなど無論なかったし、全ての者が熱心な信者と言うこともなかった。民が気にかけるのはあくまでも日常の暮らしであり、そのなかに平和を望むか、波乱を好むかはひとそれぞれ──と言うことは古今東西変わらぬ真実のひとつであろう。

「おばちゃん! ナシアの実、一個もらってくよ!」

 フォアライアの南に位置するファランシア大陸は、東に大砂漠(ロン・ディバルン)を抱えており、ほとんどの人間は西半分、ビナレス地方で生活を営んでいる。

 その西の地の、それも西端と言える場所。海沿いの、やや北よりにある細い湾、その奥にアーレイドの街はあった。厳しい海風から逃れ、冷たい南の風はシェランの森が遮る、ここは自然の脅威から守られた土地だ。

 雲ひとつない好天。

 街の大通りから無数に出ている枝道の片隅で、元気のいい少年の声が、果物売りのかごに飛んだ。

「あいよ。珍しいね、あんたが果物なんぞ買っていくなんて」

「たまには健康ってやつを考えてみたのさ」

「そいつぁいいことだね。ひとつでいいのかい?」

「ふたつも三つも買ってったって腐らしちまうよ。ああ、でもおまけしてくれるってんなら別だけど」

「馬鹿言うんじゃないよ、そういうことはもっと馴染みの客になってからお言い」

 頭をはたかれそうになって、少年はひょいと身をよける。

「へへっ、またねおばちゃん!」

 赤い実を片手にして身軽に小路をあとにした少年は──しかし子供、と言うほど幼くはなかった。かといって青年と言うほど大人にもなっておらず、そう言った過渡期特有の不安定さを持っていた。

 身体と年齢は立派に成人であったが、普段見せる表情にはどこかあどけなさが残る。それでも真剣な顔をすれば別人のように大人びて、姫を守る騎士コーレスにすらなれそうな、そんな微妙な時期。誰しもが迎える季節のただなかにいま彼はいた。誰しもが迎える不安定さ、ぎこちなさ。みなに訪れ、そしてほんの数年で去っていくはずの。

「エイル、エイル!」

 赤いナシアの実を一口かじったところで、エイルは足を止めた。明るい茶色の髪を揺らして辺りを見回す。すると、二つ先の扉から彼と同じかもう少し若い程度の少女が手を振っていた。

「リターか、おはよう」

「おはようじゃないわよ、もうお昼よ」

 少女は顔をしかめてエイルを見たが、すぐに笑顔を取り戻すと話したいことを話しはじめた。

「ねえねえ、昨夜〈森の宝石〉亭にきた吟遊詩人(フィエテ)の話、聞いた?」

「いいや、何も」

 エイルは首を振った。

「吟遊詩人なんて、しょっちゅうその辺にいるだろ?」

 首をかしげて彼が言えば、リターは首を振った。

「それが違うのよ! 通りいっぺんの吟遊詩人じゃないの。ものっすごくたくさんの伝説を知ってるんですって。ううん、だから普通の詩人よりもたくさん!」

 何やら言おうとするエイルをさえぎってリターは続けた。

「ね、今夜にでも行ってごらんなさいよ。例の話、聞けばいいじゃない。今度こそ、何か判るかもしれないわ」

 少女は目を輝かせてエイルの腕を取る。しかしエイルは視線を逸らして、ゆっくりとその手を離した。

「あのことか。それなら別にいいんだ。あんなの予言でも何でもない……ただの、占い師(ルクリード)がよくやる、ありがちな与太話さ。悪いけど、あの話はもう忘れてくれないか」

「……何よう」

 リターは不満そうに頬を膨らませた。

「本当は、ものすごく気にしてるくせに。あたし知ってるんだから、エイルが吟遊詩人に会うたびにあれについて尋ねてたこと」

「そんなの、もう何年も前にやめたよ。俺だって多少は大人になったんだ」

 エイルはそう言ってからにやりと続ける。

「リターは相変わらず、お姫さまを夢見る乙女って訳かい」

 少年の瞳に悪戯っぽい輝きを見て取って、リターは口をとがらせた。

「もう。そんな言い方のどこが大人なのよ。第一ね、女の子は夢見がちのほうが可愛いのよ!」

 自分できっぱり言い放って、リターは舌を出した。エイルは笑ってリターに背を向ける。

「じゃな、リター」

「意地張らないで、エイル! 今夜〈森の宝石〉亭で待ってるからね!」

 彼女の念押しに応とも否とも答えず、エイルはひらひらと手を振ってその場をあとにした。

 リターが「あの話」を覚えていたとは驚きだ。一度話したことはあったかもしれないが、気にしている風情など見せたつもりはなかったのに。

(女ってのはその手の話が好きだからな)

(伝説、物語、吟遊詩人の語る歌、そんなもんと同一視って訳だ)

(確かに俺だって、気にはなっては、いるけどさ)

 あれは十三歳のときだったろうか。出会った占い師(ルクリード)に聞かされた〈予言(ルクリエ)〉。

(いいや、予言なんかであってたまるもんか。道端の占い師なんかに俺の何が判る。俺の──)

 エイルはそっとため息をついた。誰も知らない、彼の悩み。親しく言葉を交わすリターであっても、彼が抱えるひとつの問題については何も知らない。

(占い師も魔術師もクソくらえだ。あんな出鱈目のクソ予言、俺の人生に何の関わりもないに決まってる!)

 そんな強がりこそ不安の現れだと、エイルが自ら悟ることはない。

 「不思議な予言」。誰も知らない。誰にも知られてはならないと、ずっと言い聞かせている。黙っていれば誰にも判りはしない。もし、万が一誰かに語ったとしてもおかしな誤解をされるのが関の山。だからこそ誰にも言えない、彼の禁忌。

 呼び起こされた記憶から警告を繰り返す自らの声に、エイルは頭を振った。

 そんなことを思い出して何になる? そんなことより今日の仕事を探さなけりゃ。

 口の中で素早くそんなことを呟いて、少年は市場へと駆けていった。

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