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ナデージュは妹のアリーヌから見ても本当に変わっている人間だ。やること成すこと全てがぶっ飛んでいて、アリーヌにとってこの世で一番理解できない人なのだ。
アリーヌが姉について考える時、一番最初に思い浮かぶのが、彼女が結婚することになった時のことだ。
今から12年前の帝国歴329年、アリーヌは当時まだ10歳だったのだが、この年はフォルニート大公一家に激震が走った年だった。いずれ皇帝アルフォンス四世の妻に、という目論見で育てられたナデージュが妊娠したのだ。
ある日の朝、家族で食卓を囲んでいる時、いきなりナデージュが
「お父様、お母様、私、妊娠したみたい。だから皇帝陛下と結婚するというお父様の野望をかなえて差し上げることができないわ」
と言い出したのだ。
父ミリアムは真っ赤になり、母メガーヌは真っ青になった。ナデージュはまだ誰とも結婚していなかったのだが、ティティス帝国では未婚の女性の妊娠は最大級の御法度なのだ。大変な醜聞だ。
ティティス四大公家の一門、フォルニート大公家の令嬢、それもゆくゆくは皇帝の妻にと周りから目されていたナデージュの妊娠に、ミリアムはゆでだこのような色の顔をして、ナデージュに相手は誰かと問いただした。
ところが、ナデージュはうろたえるばかりの両親とは対照的にあっけらかんとしたまま、
「ベルナールです」
と落ち着き払った声で答えた。
「……どこの家の者だ!?」
ミリアムは娘と交友関係のある貴族筋の家を次々に思い浮かべ、そんな名前の子弟がいないか思い出そうとした。
「貴族の者ではありません。騎士のベルナールですよ。お父様は知らないかもしれませんね」
さらりと言ってのけるナデージュに、ミリアムは文字どおり椅子から転げ落ちた。娘を皇帝に嫁がせるという野心が破れただけでもミリアムにとっては相当な衝撃だったのだが、だったら娘の相手は皇帝とまではいかなくても、せめて貴族階級に属する男であってほしかった。それが何と、相手は平民だという。ミリアムも今度は妻メガーヌと同じ、血の気が引いた青い顔になった。
アリーヌは二人の兄とともにぽかんと口を開けて両親と姉が会話する様子をただ眺めることしかできなかったのだが、それは非常に奇妙な光景だった。うろたえてばかりの両親と少しも慌てたところがない姉の態度があまりに違いすぎて、まるで二つの別々の絵本を強力な糊で無理矢理くっつけたような違和感があった。
「そ……その男をここに呼べ!! 今すぐにだ!!」
ミリアムは長女にそう命じた。ナデージュは食堂に控えていた使用人の一人に自分の恋人の名前や所属している隊などの情報を伝え、ベルナールを呼びにいかせた。
そのベルナールという騎士が来るのを待っている間、アリーヌたちはとても食べるどころではなかったのだが、ナデージュだけは何事もなかったかのように優雅なしぐさでお茶をすすっていた。
ようやくベルナールがフォルニート大公一家の食堂に現れた時、アリーヌはその動揺ぶりに思わず彼に同情してしまった。
「き……貴様か、我が娘を汚したのは……!!」
ミリアムはぶるぶると震える手で跪くベルナールの首根っこをつかもうとしたのだが、そうする前にミリアムとベルナールの間にナデージュがさっと割って入った。
「お父様、誤解なさっては困ります。逆です、逆。どうしても彼を手に入れたかった私が、彼を襲ったのです」
「はあっ!?」
娘の言っていることが全く理解できず、ミリアムは思わず間の抜けた声を出してしまった。
「だから、私が一服盛って彼を襲ったのです」
ナデージュが胸を張ってそう言うと、ベルナールが土下座の姿勢で
「大公様のお怒りはごもっともでございます……!! かくなる上は死んでお詫びするしかございません!!」
と床にひれ伏した。彼の声は震えていて、アリーヌはやはり彼に同情してしまった。
「何を言っているの、ベルナール。そんな馬鹿なことはしないでちょうだい」
この問題の発端となったナデージュはやはり落ち着き払ったままだった。
ぴんと背中を伸ばして堂々と立っているナデージュと床に突っ伏してすすり泣くベルナール。アリーヌの目にも、他の家族の目にも、二人の態度は男女がひっくり返っているように感じられた。
お……お姉様……。変わっている人だとは思っていたけれど、まさかここまでとは……。
アリーヌは心の中でそう呟きながら顔を引きつらせた。
「お父様、彼を罰する前に、私を罰するべきです。でないと筋が通りません。大公女という身分を使って彼に命じ、それでも応じようとしなかった彼に薬という手段を用いて関係を強制したのは私ですもの」
「……………お前は一体何を言っているのだ……?」
「だから、私が薬を使って無理矢理関係を持ったのですよ。彼は悪くありません」
ベルナールは悪くない。それはアリーヌにも分かった。
けれど、では誰が悪いのだろう。
姉の台詞から判断するに、きっとナデージュなのだろう。
ところが、本人はやはり少しも悪びれているような様子はなかった。
だから傍観者だったアリーヌはますますわけが分からなくなった。
そしてそれはフォルニート大公ミリアムも同じだった。
「……………………………」
ミリアムは少し口を開けたまま、化石のように固まってしまった。
ナデージュはやれやれとでも言いたげなしぐさで肩をすくめた。
「まだ理解できませんの? どうしても彼を手に入れたかった私が、彼に薬を盛ったんです。具体的な日時や方法や場所などもお聞かせしましょうか?」
アリーヌはまだ10歳の子供だったが、それでも男女のことは知っていたし、二人の兄たちはちょうどそういったことに興味が湧く年頃だったので、好奇心に突き動かされた三人は声を出さないまま『おおっ!』と口を動かした。
それをちらりと横目で見たミリアムも我に返り、口を開こうとしたナデージュを慌てて遮った。恥じらいをかけらほども持ち合わせていないナデージュのことだ、もしミリアムが止めなかったら、きっとベルナールを襲った時のことを赤裸々に語るに違いなかった。
「………分かった分かった、もうそれ以上は言ってくれるな……」
自身も聞きたくなかったし、他の三人の子供たちに聞かせたくなかったから、ミリアムは力なく首を横に振った。
「………私は部屋に戻る」
ミリアムは混乱のあまり、囁くような小声で誰にともなくそれだけ言うと、ふらふらとよろめきながら食堂から出ていってしまった。
同じくあまりの驚きに口が利けなかったメガーヌも、夫の後を追って食堂から姿を消した。