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スヴェンに見送られながら、三頭の馬に乗ったシルヴィ、ニコラス、ラザール、アリーヌの四人はローゲ郊外を目指してナルフィ家別邸を出発した。
初めて乗る馬の背はシルヴィの言葉どおり高くて、アリーヌは最初は恐怖が先に立った。馬の動きに合わせて揺れるたびに落ちるのではないかと怖かったが、そのうちに慣れるといつもより高い視界や頬に感じる風が新鮮だった。
人も家もないなだらかな丘へとやって来ると、シルヴィが
「ニコラス、兄上、そろそろ馬を走らせましょ!?」
と恋人と兄に提案した。
シルヴィは彼らの返事を待つことなしに馬の腹を蹴った。
「ラザール、先に行く」
ニコラスはラザールに一声かけてから、シルヴィを追いかけるために馬の速度を上げた。
「ああ」
とニコラスの背中に向かって大きめの声で返事をしたラザールは、これまでの速度を維持した。理由はアリーヌを乗せているからだ。
自分一人での乗馬は慣れているが、他人を乗せながら馬を操ることに関してはラザールは慣れていない。そんな状態でいたずらに速度を上げ、自分はともかくもしアリーヌが落馬でもしたら、彼女に怪我を負わせてしまう。落馬したら、最悪の場合、半身不随になったり命を落としたりする可能性さえあるのだ。
そういったことを考えると、何事にも慎重な性格の彼には速度を上げるという選択肢はなかった。
ラザールは改めて自分がアリーヌを乗せていることを意識し、困惑のため息をそっと口から逃がした。
正直なところ、一頭の馬の背の上で体を密着させることに対し、ラザールは戸惑っていた。
触れる彼女の体の感触やどこからか立ち上るいい香りから、ラザールはアリーヌが自分とは違う生き物なのだということを実感せずにはいられなかった。
馬の動きに合わせて揺れる時にぶつかる彼女の体は、友人であるニコラスやスヴェンとぶつかった時のようにごつごつとはしていなかった。純情なラザールだって男と女の体のつくりがどのように違うのかくらいは当然ながら知っていたし、その最たるものが胸だろう。
ラザールの体に当たるアリーヌの体の部位は肩や背中や腕だったのだが、それでさえ明らかに男の体とは異なっていた。ということは、女性の象徴である胸の膨らみにもし触れたとしたら、一体どれほど柔らかいのだろう。
そんな疑問がふとラザールの頭に浮かんだのだが、彼は自分の思考の内容を自覚した時に愕然とした。
お……俺は今、何ということを考えてしまったんだ……!?
手綱を握っているため実際にはかなわなかったが、ラザールは頭を抱えて地面に突っ伏したい気分だった。
そんなことを考えてしまった自分が汚らわしい気がしたし、アリーヌを欲の対象にしてしまったことを彼女に対して申し訳ないとも思った。
ラザールは必死で無意識のうちに生じた欲望を頭から振り払おうとした。
ところが、それはうまくいかなかった。密着したアリーヌからいいにおいがして、ラザールの気をさらに散漫にしたからだ。
彼が生まれ育ったナルフィ大公国領はティティス帝国の中でも最も南に位置しており、一年を通して比較的温暖な地域だ。人々はよく汗をかくので水浴びをする。冬に水浴びはさすがにきついが、それ以外の季節ではそう苦にならない。ラザールも毎日水浴びなり湯浴みなりして体を洗わないと気がすまない。
ところが、帝都ローゲの士官学校に入学し、いろいろな地方から集まった他の生徒たちと友達になって初めて知ったのだが、ティティス帝国北部や山岳地帯で生まれ育った者には毎日の沐浴の習慣はなかった。数日間水浴びをしないとか、体を水で濡らしたタオルで拭いて水浴びは一週間に一度だけ、なんて生徒もいた。
彼らは自分たちは汗をかかないのだと主張するのだけれど、士官学校の訓練内容を真剣にこなすと汗をかかないなんて絶対にあり得ない。だが、彼らは自分たちの習慣を変えることはしなかった。
ということで、ラザールの友人たちの中にも数人、強烈なにおいを発する者がいる。ああはなるまい、なったら周りに迷惑だ、とラザールは彼らの体臭をかぐたびに思う。
だから彼は普段からできる限り清潔でいるように心がけているのだが、それでもアリーヌのようないい香りはしない。
一体何のにおいなんだろう……?
アリーヌの体から漂う香りが鼻をくすぐるたびに、ラザールは疑問に思ってしまう。
くんくんと積極的ににおいをかごうと思っているわけではないのに、自然と鼻が彼女が放つ香りを拾い上げてしまうのだ。
ラザールとしては鼻をつまむわけにもいかず(もし本当にそんなことをしたら、ラザールが彼女のことをくさいと思っていると誤解されかねない)、息を止めるわけにもいかず、彼は再び頭を抱えたくなった。
だめだっ……!! とにかく、何とかして意識を別のことにそらさないと……!!
ラザールは何か別のことに集中するために、自分の前に座るアリーヌに話しかけた。
「アリーヌ、大丈夫か?」
横乗りをしていたアリーヌはそう訊かれて、顔をラザールに向けた。今まで眼前に広がる風景を見つめていたアリーヌの横顔がいきなり真正面のものになり、しかも彼女は満面の笑みを浮かべていたから、ラザールはどきっとした。
「とっても楽しいわ!!」
アリーヌは目を細めて笑い、再び顔を前に戻した。ラザールにとっては横顔で、彼女はラザールではなく景色を見ていたから、彼はほっとした。まっすぐに見つめられると眩しくて直視できないのだが、自分を見ていない状態の横顔だったら安心して盗み見ることができる。ラザールはそんなふうに思った。
アリーヌはしばらくの間楽しそうにあちこちに目をやっていたが、急に真顔になり、最後には不安そうな表情になって一つため息をついた。
どうかしたのだろうかと心配になったラザールが思わず理由を尋ねようとした時に、彼女のほうから口を開いた。
「ねぇ、ラザール」
前方を見ながらもちょこちょこ彼女の横顔を盗み見ていたなんて少しもにおわせない口調で、ラザールは
「何だ?」
とアリーヌに訊いた。
「シルヴィを見ていて、私も乗馬を習いたいと思ったの。シルヴィがとってもかっこいいんだもの」
シルヴィみたいに乗りこなせるようになるには時間がかかるだろうってことはもちろん分かってるわ、とアリーヌは慌てて付け加えた。
「あなたはどう思う?」
どきどきしながらアリーヌはラザールに意見を求めた。アリーヌはラザールにけんもほろろに却下されることも、甘い考えだと叱られることも覚悟していた。だから彼の反応を心配するあまり、アリーヌの動悸は速くなってしまったのだ。
「俺は……」
まさかそんなことをアリーヌが言い出すなんて思ってもいなかったので、驚きで頭が真っ白になってしまったラザールには意見らしい意見が思い浮かばなかった。
それでも彼は必死に考えた。
その間、アリーヌは不安げにラザールを見つめたが、何も言わなかった。沈黙を破るために何か言ったほうがいいのだろうかと迷ったが、ラザールの答えが気になって、結局何も言えなかったのだ。
「俺はこんなことを言える立場じゃないけど……」
そう前置きしてから、ラザールは続ける。
「できたらやめてほしい。もし落馬でもして怪我をしたらと思うと、どうしても賛成できない」
結婚して彼女が正式に自分の妻になったのならともかく、アリーヌの現在の庇護者はラザールではなく彼女の父フォルニート大公ミリアムだ。だからラザールにはアリーヌにあれこれ命令したり指図したりする権利はない。
しかしアリーヌに訊かれたため、ラザールは自分の気持ちを正直にアリーヌに打ち明けた。
「分かったわ」
彼の返事を予想していたから、やっぱり、とアリーヌは思った。きっと彼は賛成しないだろうと分かっていたので、アリーヌはさっと引き下がった。自分が想像していたよりも否定された衝撃はなかった。
あっさりと自分の意見を受け入れたアリーヌに、ラザールはほっとしたような、それと同時に拍子抜けしたような気持ちになった。これがもしシルヴィだったら、こんなに聞き分けがよくない。
アリーヌのほうは、ラザールにがっくりと落ち込んでいるなんて思われたくなかったから、微笑みながら顔を上げた。
「じゃあ、代わりにラザールがまたこうして乗せてくれる?」
重く聞こえないように、アリーヌは冗談っぽくラザールに訊いた。こんなふうに冗談めかした口調で訊いたなら、彼女としても断られた場合でも失望はしなくてすむ。
「………ああ」
再び今日のように馬に相乗りしたら、アリーヌの体の感触やいい香りにまた悶々としなければならないだろうけれど、それでもアリーヌが乗馬の練習をするよりはずっといいし、同乗者が自分であるならそれは自分にとって一番安心できる状況だ。
そう判断したから、ラザールは首肯した。
断られなかったことにほっとすると、緊張にこわばっていたアリーヌの顔が自然とゆるんだ。
「本当!? じゃあ、また乗せてね? 今日みたいに」
「ああ、分かった」
次回が本当にあるのか否かはアリーヌには分からなかったが、彼女はラザールの返事に満足した。
自然な笑みがアリーヌの顔に浮かび、それを目にしたラザールは安堵した。この笑顔のためなら、彼女の体の柔らかさやいい香りを意識しないように努めるという苦行も仕方ないと彼は思った。




