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「ラザール様……。あの、ラザール様……」
そう声をかけられ、ラザールははっとした。
急いで目を開けた彼の視界に最初に飛び込んできたのは、アリーヌ付きの女官だった。
彼女は申し訳なさそうにラザールの肩を軽く揺すっていたのだが、彼が目を覚ますとすぐに後ずさってお辞儀をした。
ラザールは頭が真っ白になりながらも、必死に自分が今置かれている状況を把握しようとした。
さっと周囲に目を走らせると、自分は庭のガゼボの中にいた。外はもうずいぶん薄暗くなっている。自分の前のテーブルにはカップが二つあったが、しかしラザールは一人きりだった。
自分を起こした女官の顔を見てそれがアリーヌの女官だと気づいたラザールは、アリーヌの姿を探した。だが、彼女はラザールの視界の範囲の中にはいなかった。
「お休みのところ、申し訳ございません。夕食の準備が整いましたので、お知らせにまいりました」
自分に同情しているような目を向ける女官を見上げながら、ラザールは恐る恐る
「………アリーヌ大公女はどこにいる?」
と尋ねた。
女官はラザールの質問から逃げるように目を伏せ、
「それが……、その……」
と言い淀んだ。
女官の言いにくそうな反応を見て、ラザールは全てを理解した。恐らくアリーヌは居眠りをしてしまったラザールに腹を立て、彼女の部屋かどこかへ行ってしまったのだろう。
ラザールは自分の失態にため息をつき、手で額を押さえた。
これから夕食の席できっと散々責められるのだろう。
けれど婚約者との面会の最中に寝落ちするなんて完全に自分に非があるので、ラザールは腹をくくって立ち上がった。
「……彼女は怒っていた……かな?」
女官に訊いてみたのだが、きっとラザールとアリーヌ双方に気を遣って何と答えたものか混乱しているのだろう、彼女は
「……はい、いえっ、あの……」
と明らかに動揺していた。
ラザールは女官相手に申し訳ない気持ちになりながら、
「行こうか」
と女官を促した。
「………はい」
はっきりと答えるよう迫られなくて助かったわ、という本音を顔に浮かべつつ、女官はラザールを食堂へと案内するために歩き出した。
食堂にはフォルニート大公夫妻と彼らの長男リシャールがいたが、アリーヌはいなかった。ここへ来るまでの道のりでラザールは何とアリーヌに謝ったものかずっと考えていたから、彼女の姿がなくて拍子抜けしたような、安堵したような気持ちになった。
大公夫妻とはすでに先ほど顔を合わせたが、リシャールとは今回これが最初の対面だったため、ラザールは背筋を正して敬礼した。
「リシャール大公子、お久しぶりです」
アリーヌと婚約する前、彼女の父ミリアムを『ミリアムおじさん』と呼んでいたように、ラザールはリシャールのことを以前は『リシャール兄さん』と呼んでいた。けれど、アリーヌとの婚約を機に呼び方を変えた。それがラザールなりのけじめだったのだ。
大公夫妻と同様に、リシャールも毎回ラザールを好意的に迎えてくれる。
「やあ、ラザール、久しぶりだね。よく来てくれた。そんな堅苦しい挨拶はやめにして、さっさと席に着きなよ」
リシャールはくすっと笑ってラザールを手招きし、ラザールは彼の隣の席に座った。
「ラザール、聞いたよ。イヴェットが病で倒れたんだって? 大丈夫かい?」
厳密に言えば、イヴェットは倒れてはいないのだが、ラザールはあえて否定しなかった。
「今、シャルナルクに療養に行かせています」
「そうか。でも、心配だね。早くよくなるといいね」
「ありがとうございます」
ラザールは意を決し、ミリアム、メガーヌ、リシャールを順番に見やってから、ためらいがちに尋ねる。
「あの……アリーヌは……?」
三人は打ち合わせたかのように、同時にがくっと肩を落とし、はあっと大きくため息をついた。
三人の反応に、ラザールは自分の居眠りがすでに彼らに知られたことを悟った。
責められることも覚悟したラザールだったが、口を開かなかったメガーヌ以外の二人、つまりミリアムとリシャールはラザールの味方だった。
「あんなわがまま娘、放っておけばいいよ、ラザール」
リシャールは行儀悪くテーブルにひじをつき、虫でも追い払うようなしぐさで手をひらひらとさせた。
ミリアムは、まるで彼自身が婚約者との面会中に眠りに落ちてしまった人物であるかのように、いっそうがっくりと肩を落とした。
「すまんな、ラザール……。あの馬鹿娘にはよく言って聞かせる……」
ラザールは恐縮しながら慌てて首を横に振った。
「いえ、自分が悪いので……」
再び詫びようとしたラザールを遮ったのはリシャールだった。
「いや、君だってイヴェットのことでいろいろと疲れていただろう?」
はい、と心の中で返事をしながら、ラザールはそう口に出す代わりに目を数回瞬かせた。
「イヴェットのことを聞いた時、今回は君は来ないんじゃないかと我々は話していたんだよ。それでも君は来てくれた。寝たくらいで何だ!! 悪いのはアリーヌだ!」
容赦なく妹を責め立てるリシャールに、今まで沈黙を守ってきたメガーヌが重い口を開いた。
「………きっと今回はラザールに会えないと思ったからこそ、予定どおり会えることになって思わずはしゃいでしまったのでしょう……。だから余計に傷ついてしまったのかもしれません……」
アリーヌの母メガーヌとしては、アリーヌの矜持が傷ついてしまったということを言いたかったのだが、言葉が足りなかったため、ラザールの胸がかき乱された。
『傷ついて』という表現に、ラザールの心臓がきゅっと収縮し、彼はぶるっと震えた。
確かに、自分が眠ったことはアリーヌを不快にさせてしまっただろう。もちろん、寝てしまったことは自分が悪い。ラザールはその点については素直に受け入れる。
だが、『傷ついて』というのは、ラザールにはいささか強すぎる言葉だった。
例えば、ラザールがここフォルニートに来る前、親友だったはずのスヴェンが大切な妹イヴェットを裏切った。自分たちの家族の前で城の侍女と関係を持つというこれ以上ないくらいの愚劣な行いで、イヴェットの心を傷つけたのだ。
それに比べたら、ラザールが犯した罪なんて比べることが馬鹿らしくなるくらい軽いものだ。ラザールがしたのはただ単に面会中に眠ってしまったことだけで、アリーヌに暴力を振るったり他の女に走ったりはしていないのだから。
『傷ついて』なんて言われるほど、自分はひどいことをしたのだろうか。そう言われるのはまるで自分がスヴェンと同列に扱われている気がして、ラザールはもやもやしてしまった。
落ち込みかけたラザールだったが、将来の義兄リシャールと未来の舅ミリアムは相変わらず彼の援護をし続けた。
「母上、あのアリーヌが傷つくような玉なもんですか!! 玉は玉でもアリーヌはかんしゃく玉ですよ」
「おお、リシャール、なかなかうまいこと言うじゃないか」
父子二人の反応にラザールは思わず噴き出しそうになってしまい、慌てて口を手で塞いだ。
しまいにはメガーヌまでもが夫と息子に同意するように二、三度うなずいた。
「とにかく、アリーヌのことは気にしないでくれ、ラザール」
素直にうなずくことははばかられたので、ラザールは曖昧に微笑んだ。
「さあ、食べよう」
フォルニート大公ミリアムの言葉で一同はカトラリーを手にし、夕食を食べ始めた。