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オリヴィール三世公園の前でシルヴィたちと別れた後、イヴェットはスヴェンに導かれるままに歩いた。
これから自分たちがどこに行くのかイヴェットは知らなかったし、スヴェンは教えてくれなかった。
どこへ行くのかしら……?
イヴェットには全く予想がつかなかったので、彼女は歩きながら通りのあちこちに目をやった。
目的地が分からないからこそ、イヴェットの胸がさらなる期待にどきどきと高鳴る。
公園から少し歩いた建物の前でスヴェンは足を止めた。
「ここだ」
と彼が言ったため、イヴェットは慌てて目の前にそびえる建物を見上げた。
重厚なこげ茶色のレンガ造りの建物で、周囲の建物より一回り高かった。
イヴェットの目の前には二つの扉があった。
同じ建物なのにどうして二つ扉があるのか、イヴェットには最初分からなかったが、よく見ると二つの扉の間には決定的な違いがあった。イヴェットとスヴェンの真正面にある扉の周囲には特に看板などはなかったのに対し、左側の扉の上には『四季の果実亭』と書かれた木の看板が掲げられていた。
四季の果実亭……?
どこかで聞いたことがある名前だったから、イヴェットは妙な既視感のようなものを覚え、彼女の胸がざわめいた。
どこかで聞いたことがあるわ、絶対に……!
どこで、誰から聞いたのかしら?
ああ、思い出せない……。
思い出せない自分をもどかしく思いながら諦めかけた時、イヴェットはアリーヌがこの店に来たいと言っていたことを思い出した。
「あっ」
彼女は思わず声を上げてしまった。
隣に立っていたスヴェンがイヴェットを見下ろして
「どうかしたのか?」
と訊いたから、彼女は慌てて首を振った。
「いえ、何でもありません」
そう答えながら、イヴェットは自分の身に降って湧いたような偶然に興奮した。アリーヌが行きたいと言っていた店とスヴェンが自分を連れてきた場所がぴたりと合致するなんて、にわかには信じられなかった。
イヴェットはてっきり『四季の果実亭』と書かれた看板がかかっているほうの扉に入るのだとばかり思っていたのだが、スヴェンが足を向けたのはもう一方の扉だった。
四季の果実亭には行けないのだろうかという落胆とどこに行くのか分からない不安で、イヴェットは我知らず眉根を寄せた。
スヴェンについていくことしかできないイヴェットの頼りない足取りとは違い、彼は少しの迷いも見せずにまっすぐに前進した。開け放たれている扉を通って建物の中に入ると、制服を着込んでにこやかに微笑むすらりとした中年の男性に二人は迎えられた。
「ジーグルト・フェッテル様、お待ちしておりました」
「ああ」
スヴェンと男性のやり取りに、イヴェットはとうとう顔をしかめた。スヴェンはジーグルトなんて名前ではないのにそう呼んだ制服の男性に対しても、違う名前で呼ばれたのにそれを正すでもなく受け入れてさえいるスヴェンに対しても、イヴェットは面食らった。
「お部屋にご案内いたします」
「ああ、頼む」
わけが分からないイヴェットの精神を置き去りにしたまま、彼女を取り巻く状況は次々に変化していく。
男性は手を上げて奥のカウンターの向こうに待機していた若い男性従業員を呼んだ。彼は鍵を手に持っており、スヴェンとイヴェットに対して丁寧に一礼すると、
「お部屋の準備は整っております。こちらへどうぞ」
と二人に自分の後に続くよう促した。
歩き始めた案内役の若い男性に導かれて階段を上りながら、イヴェットはすっかり混乱してぐるぐると回る頭を必死で動かし、今自分が置かれている状況を何とか把握しようとした。
お部屋……?
お部屋って、どういうことなのかしら……?
疑問に思っていたイヴェットだったが、そういえばアリーヌが四季の果実亭のことを話していた時に、『どこかの宿の一階に入っているんですって』とも言っていたことを思い出した。
ということは、この建物は宿なのだ。
ようやくそれに気づいた時、イヴェットはスヴェン、若い男性従業員と階段を一段一段上りつつ、内心青くなった。
彼女は幼少の頃から、結婚前は異性と、結婚した後は夫以外の異性と二人きりになってはいけないと周囲から口酸っぱく言われてきた。異性と二人きりになるのはとにかく悪いことなのだと散々刷り込まれてきたのだ。
だが、今は部屋に向かっているということだから、これから宿の部屋という閉鎖された空間に、婚約者とはいえどもまだ結婚していないスヴェンと二人きりになるかもしれないのだ。
イヴェットはとてつもない罪悪感に襲われ、彼女の体は全身から噴き出す冷や汗のせいでぶるりと震えた。
どうすればいいの……!?
しかしイヴェットには今すぐ足を止めることも、これ以上先に進むのを拒否することもできなかった。
階段をどれくらい上がったのか、頭が真っ白になってしまったイヴェットには分からなかった。
通された部屋はこの宿の最上階である五階にあった。この宿で一番大きく、豪華で、値の張る部屋だった。
男性従業員はイヴェットとスヴェンに部屋の中に入るよう促し、自身は戸口に立ったまま部屋の中には入ろうとはしなかった。
「すぐに一階にある店のほうからお食事をお運びしますので」
「ああ」
男性従業員はスヴェンにそう告げた後、うやうやしく二歩下がってからぱんぱんと手を叩いた。するとすぐに三人の若い女が現れた。彼女たちも制服を着ており、それぞれの手にワインの瓶やガラス製のピッチャーを持っていた。
男性従業員が三人に目配せすると、彼女たちは
「失礼いたします」
と断ってから部屋の中に入り、部屋のほぼ中央にあった円形のテーブルの端にワインの瓶やピッチャーを置いた。
働く女性たちをぼんやりと見ていたイヴェットに、スヴェンが
「バルコニーに出てみるといい」
と声をかけた。
彼が指差した部屋の奥にはガラス戸があったので、イヴェットはよく分からないままとりあえずうなずき、ふらふらとおぼつかない足取りでガラス戸を目指した。
彼女はそのガラス戸を開け、バルコニーに出てあたりを見渡した。すぐ下には先ほど馬車を降りたオリヴィール三世公園が、その奥には広がるローゲの街並みが、さらに遠くには荘厳な皇宮が見えた。
「まぁ……!! すごいわ……!!」
イヴェットは今の今まで抱いていた戸惑いを忘れ、眼下に広がる景色に感動してしまった。