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二人は広大なカスペール市場の敷地に並ぶ店のほとんどを一度は覗いた。
ニコラスはどうしても恋人に何か買いたくて、積極的にシルヴィに
「あれなんかいいんじゃないか?」
とか
「これはシルヴィに似合うと思うけど」
と話しかけた。
シルヴィは頑なに
「私にはいいわ」
とニコラスの誘導には乗らなかったが、絹製品を扱う店で彼女の二人の妹テレーズとソレーヌへの土産としてストールを買う時に、ニコラスは一緒にシルヴィのぶんも購入した。テレーズとソレーヌへの土産はシルヴィが選んだが、シルヴィ用のものはニコラスが選んだ。
ちなみに、絹というのは皇帝領の特産品である。皇帝領で生産される特産品の多くは皇族や貴族が愛用する質のよい贅沢品で、皇室が技術や文化を未来へと継承するために職人たちを保護している。
シルヴィの姉イヴェットには、同じく皇帝領の特産品、繊細なレース生地を購入した。イヴェットはシルヴィとは違い手芸が好きらしいので、これなら邪魔にはならないだろうとニコラスは判断したのだ。彼にとってイヴェットは義姉になる人だし、親友のスヴェンが彼女に何をしたかを知っているからこそ、スヴェンを許した彼女の寛大さに敬意を表し、何かを贈りたいと思ったのだった。
ニコラスは同じものを、今頃屋敷にラザールと二人でいるアリーヌのためにも購入した。
この市場で買い物をするローゲ市民は買い物かごを持参するのだが、恋人がここに連れてきてくれると知らなかったシルヴィは当然そんなものを用意することはなく、ニコラスもそこまで気が回らなかったため、二人は市場の中で売られていた手編みのかごを買い、その中に今までに買った品々を入れた。
かごを買ったことで、この後も商品を一つ一つ手で持ち運びしなければならないという憂いがなくなったし、かごの中にはまだまだ余裕がある。
気と財布のひもがゆるんだのか、二人はそれからスルト大公国産の木いちごのジャムやフォルニート大公国産のはちみつ、ハティ大公国産のガラセアのソースも買った。
(ガラセアというのはハティ城下街の近くにある町の名前である。ハティ大公国にはハティ教の総本山があるせいで、多くの神学生や聖職者が集まるのだが、彼らの一部は菜食主義者だった。ハティ教には聖職者は動物の肉を食してはならないといったような教えがあるわけではないのだが、一部の神学生や聖職者は自主的に動物の肉を断つという修行を自らに課しているのだ。
そんな彼らでもおいしく食事ができるよう、ガラセアの町に住む一人の老女が考案したのがこのソースだった。ハティ大公国で採れる果物や野菜を煮詰めたものにさまざまなハーブやスパイスを漬け込み、それを一定期間寝かせた後でろ過して作られるソースで、今ではハティ城下街のどの飲食店にもこのソースが卓上に用意されている。
他地域からやって来た巡礼者や観光客がこのソースの味に感動し、土産として買って帰るようになったので、今やティティス帝国中の臣民がこのソースのことを知っているというくらい有名な品なのだ。)
ジャムやはちみつやソースは瓶詰めされているため、買い物かごは一気に重くなってしまった。
歩き回って疲れたこともあり、ニコラスはシルヴィに市場近くの店で休憩しようと提案した。のどが渇いていたシルヴィも二つ返事でうなずいた。
カスペール市場の南側には急な坂道とその先に小高い丘があるのだが、ニコラスはその坂道を登り始めたので、シルヴィはぎょっとした。坂道は今まで歩いた市場とは打って変わって登る人と下る人がようやくすれ違うことができるほどの幅しかなかったし、何より急勾配だった。これまでの疲労もあり、シルヴィはげんなりしながらニコラスの後に続いた。
若くて体力があるつもりのシルヴィだが、それでも坂を登っているうちに息が上がった。それはニコラスも同じだった。
「ああ~、やっと着いた」
ニコラスが荷物を下ろして背伸びしたのは、坂道の両わきに階段状になっている場所だった。そこには椅子はなかったが(階段を椅子代わりにして座るのだろう)、階段の幅に合わせた木製の長方形のテーブルがあった。
坂道で立ち止まると通行人の邪魔になってしまうから、ニコラスはシルヴィの体を椅子代わりの階段の奥へと軽く押し入れ、その後で同じように自分の体を坂道から階段へとねじ込んだ。
シルヴィが後方を見上げると、上に続いていく階段にはテーブルがいくつもあって、客たちが眼下に広がる景色を見ながらお茶を楽しんでいた。
「注文してくるから座って」
ニコラスは再び坂を下り、二人が先ほど何気なく通り過ぎた一軒の店に入っていった。
今日姉たちと別れてから一番最初に入った立ち飲み屋のような一軒の独立した店に入ると思っていたシルヴィは、外、それも階段に座ることになり、新鮮な驚きで彼女の胸が高鳴った。
胸を押さえながら、シルヴィは石造りの階段に腰を下ろした。
世の中には自分が想像することさえなかった世界が広がっているのだ。自分一人では一生来ることができなかったであろう場所を、シルヴィは自分の足で歩いた。一生見ることがなかったであろう景色を、シルヴィは見ることができた。
他の貴族令嬢よりは広い世界で生きてきたつもりだったけれど、自分が思っていた以上に世界は広かった。
そんなことに気づけたのも、ニコラスのおかげだ。
彼はすぐに戻ってくると分かっているのに、彼が恋しくなって、シルヴィの胸が熱くなった。
シルヴィの体の中心から熱がどんどん広がって、心臓を体から取り出さないと火傷してしまいそうだわ、とシルヴィは苦しくなった。だから彼女は胸元の服の生地をぎゅっと両手でつかんだ。
「お待たせ」
そこへニコラスが戻ってきた。彼は機敏な動きでさっとシルヴィの横に座った。
シルヴィは顔を上げて自分の左隣に座ったニコラスを見つめた。
立ち飲み屋や市場で自分がいかに楽しかったか、新しい経験をさせてくれていかにありがたいと思っているか、それを彼に伝えたいのに、気持ちばかりが溢れ出て、肝心の言葉が出てきてくれなかった。
「シルヴィ?」
自分を凝視するものの一言も発しないシルヴィをニコラスはいぶかしんだ。彼女の赤い瞳が潤んでいるように見えるのは、秋にしては強い日光と乾燥した空気のせいなのだろうか。
「あ……あのね……」
「うん?」
ようやく口を開いたシルヴィの言葉の続きをニコラスは促した。
自分の想いを伝えようとシルヴィが息を大きく吸ったところに店員がお茶を運んできて、彼女は思わず脱力してしまった。
当然ニコラスの意識は店員とお茶に向けられる。
シルヴィは店員が仕事を終えて店へと戻っていくまでの間、うつむくことしかできなかった。
「ほら、シルヴィ。のどが渇いただろう?」
大きな茶色い陶器のマグになみなみと注がれた、陶器よりも濃い色のお茶を見て、シルヴィののどが鳴った。
ニコラスに差し出されたマグをお礼を言いながら受け取ると、シルヴィはさっそくお茶を一口飲んだ。
動き回って疲れた体に冷えたお茶が染み渡っていく。
ああ……、自分が思っていた以上に、のどが渇いていたのね……。
シルヴィはもう一度マグを傾けてお茶をごくごくと口に流し込んだ。
「もう一杯飲むか? 注文してこようか?」
「ううん、いい」
「本当にもう飲みたくないならいいけど、変な遠慮だけはするなよ?」
「うん、ありがと」
会話が一区切りついたところで、ニコラスもお茶を飲んだ。それから彼は背伸びをした。
シルヴィはふうっと一つ息を吐いた。どうやらお茶がさっきまでのニコラスに伝えたかった気持ちまで押し戻してしまったらしい。そのおかげでシルヴィの感情をあおるあの奇妙なもどかしさも落ち着いてくれたから、それはよかったのだけれど。
「で、さっき、何か言いかけただろう?」
「なっ、何でもないっ!」
時機を逃してしまったから、シルヴィは慌てて首をぶんぶんと横に振った。
その時にポニーテールに結ってあった彼女の毛先がニコラスの顔に当たった。
彼はくすっと笑いながら手を伸ばしてシルヴィの髪を一房つかみ、そのままそれを手の中でもてあそんだ。
「あの時はびっくりしたなぁ」
手中のシルヴィの髪をじっと見つめて、ニコラスが呟いた。
「あの時って……?」
シルヴィがそう訊いた時も、ニコラスは彼女の髪から目線を外さなかった。
「お前が池で泳いでいた時だよ。髪がこれくらいの長さまでしかなくて」
ニコラスはつかまえていたシルヴィの髪を手放し、代わりに彼女の肩に指で触れた。
彼が言っているのは、初めて自分の気持ちと彼の気持ちが同じだとシルヴィが知った日のことだ。
その後に何が起こったかを思い出して、シルヴィは急に照れくさくなった。
顔がかっと熱を持ったので、シルヴィはニコラスにそのことを知られたくなくて慌てて下を向き、並んだ左右の太ももの上でぎゅっと両手を組んだ。
ニコラスは突然静かになって顔を伏せたシルヴィの変化に気づいた。彼女と想いが通じ合ってからもう一年以上になるから、ニコラスはシルヴィが恥ずかしがる時にこういった行動を取るということを学んでいた。
こういう時にシルヴィをからかうのもニコラスにとっては楽しいのだが、彼女と同じく去年のあの日に起こったことを思い出して甘酸っぱい気持ちになっていたニコラスは、彼女の肩を抱き寄せた。
シルヴィは抵抗せずにニコラスの胸元に寄りかかった。
それから二人はしばらくの間、言葉なく坂の下に広がる市場を眺めた。
少し前まではあそこにいたのだと思うと、シルヴィは何だか不思議な気がした。市場の中にいた時と市場を上から俯瞰している今とでは、同じ市場なのに見え方が全く違ったからだ。
小さく見える買い物客たちは、ある者は恋人と、ある者は家族と連れ立っていた。明らかに観光客と分かる一団もいた。
彼らはきっとこんなふうにシルヴィが彼らを上から見ているなんて知らないだろう。シルヴィだって、自分が買い物をしていた時には、こんなふうに上から誰かに見られていたかもしれないなんて思いもしなかった。
シルヴィが思わず目で追ってしまったのは、自分と同じ恋人たちの姿だった。自分たちのように手を繋いでいるカップルもいたし、手は繋いでいないもののぴっちりと肩を寄せ合っているカップルもいたし、少しだけ離れて歩くカップルもいた。
きっとそれぞれの恋人たちに、それぞれの物語があるのだろう。
この二人はどういうきっかけで互いのことを好きになったのだろう。あの人たちはお互いをどれくらい好きなんだろう。
勝手に想像し、シルヴィはとても満たされた気分になった。世の中の恋人たちに幸せのおすそ分けをしてもらったような気持ちになった。
シルヴィはふと、自分の身近な人たちのことを思い出した。
「今頃、姉上とスヴェン王子は何をしているのかしら?」
引き続き市場を歩く恋人たちを見つめながら、シルヴィが自問するように呟いた。
「さぁ? 仲良くやってるんじゃないか?」
てっきりニコラスはスヴェンとイヴェットがどこに行ったのか知っていると思っていたシルヴィは、彼を見やった。
「ニコラスも知らないの? 姉上とスヴェン王子がどこに行ったのか」
「知らない」
ニコラスはあっさりと否定した。
シルヴィは何だか拍子抜けしてしまったが、気を取り直して今度は
「じゃあ、兄上とアリーヌは何をしていると思う?」
と訊いた。
「…………想像できないな。ラザールが昨日みたいな悪気のない無神経な発言をしてなきゃいいけど」
「本当ね」
ふふっと笑いながら、シルヴィは自分とニコラス、イヴェットとスヴェン、アリーヌとラザール、そして世界中の恋人たちのことを思い浮かべた。
シルヴィは自分を含めたこの世の全ての恋人たちがうまくいくことを願った。それは本当は難しくて現実を考えるとあり得ないことなのかもしれないけれど、もしそうなったら、この世界はきっと幸せに満ち溢れたすばらしいものになるだろう。
シルヴィはもう一度ニコラスにもたれかかり、市場を歩く恋人たちを見つめた。ニコラスが自分の肩を抱いてくれているから、常に彼が自分の隣にいてくれることを実感できて、シルヴィは穏やかな気持ちになった。