37
とうとうニコラスが一軒の店の前で足を止めた。
「ここだよ」
シルヴィはどきどきしながら店の外観にさっと目を走らせた。見たところ特に変わったところもない、普通の店だ。
ニコラスは店の扉に手をかけたが、開ける前にシルヴィを振り返った。
「もしこの店が気に入らなかったら、別の店に行こう。その時は教えてくれ」
「分かったわ」
この店には自分が気に入らないかもしれない要素があるのだろうか。それは一体何なのだろう。シルヴィには思い浮かばなかった。
ニコラスは扉を引いた。すると中から楽器の音が聞こえてきた。
二人が一歩前に進んで店の中に入ると、ニコラスは扉から手を離した。
彼は再びシルヴィの手を握り、店の一番奥の端っこでリュートを演奏している中年の男性に目が釘づけになっている恋人の手を強く引いた。
演奏者がいるのとは逆側の角にはカウンターがあり、ニコラスはシルヴィをそこへ導いた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こう側に立っていた女性の店員は訛ったティティス語で二人を出迎えた。この女性店員の発音から、シルヴィはすぐにこの女性がティティス人でないことに気づいた。
「やあ」
と軽く挨拶を返してから、ニコラスはカウンターの上に並べられている大皿を指差した。
「シルヴィ、どれが食べたい?」
シルヴィにはニコラスの質問の意味が理解できなかった。
シルヴィは普段、ナルフィ城やローゲの屋敷やその他の別荘の食堂の自分の席に座ると勝手に食事が運ばれてくるという生活をしている。出されたものの中で嫌いなものをよけたり残したりする自由はあるが(姉イヴェットからたしなめられるので、嫌いなものでもなるべく食べるようにしているが)、目の前にあるものの中から食べたいものを選ぶなんて自由はない。
「えっ!? 選ぶことができるの?」
「ああ。好きなのを選ぶといい」
シルヴィはカウンターに一列に並んでいる十枚の大皿を順番に見た。一つの大皿の上には一種類の食べ物がのっていて、味が想像できそうな料理もあれば、見た目からは味が全く予想できないようなものもあった。
シルヴィはどれを選べばいいのか分からなくて頭を抱えた。
するとニコラスが
「全部一つずつ頼んでみるか?」
と助け舟を出してくれた。
シルヴィは顔を上げ、大きくうなずいた。
するとニコラスは店員の女性にティティス語ではない言葉で何やら話しかけた。女性店員がうなずいた後で、ニコラスは再びシルヴィの手を引いた。
二人は店のほぼ真ん中に置かれているシルヴィの胸の高さのワイン樽のところまで移動した。
「ここにしようか」
とニコラスが言ったので、シルヴィはまたわけが分からなくなった。
彼女は店をさっと見渡した。店のあちこちに同じような樽がいくつもあった。樽が二つ並んでいたり、三つの樽が一直線に並べられているところや三角形を作るように置かれているところもあった。
ところが、不思議なことに、椅子が一脚も見当たらない。
「……ここ?」
シルヴィは目の前の樽を人差し指で突っついた。
「そう、ここ」
ニコラスも同じようにした。
「……椅子はないの?」
シルヴィの質問に、ニコラスはおかしそうに笑った。
「そんなものはないよ。立ち飲み屋なんだから」
「立ち飲み屋!? じゃあ、立って飲むの?」
「そう」
「ええっ!?」
シルヴィは自分のことを貴族の中では礼儀作法にこだわらないほうだと思っているのだが、それでも立ったまま飲食をするという発想がそもそもなかった。だから彼女は度肝を抜かれた。
そこへカウンターの女性店員が一枚の大きな丸皿を運んできた。その上には先ほどカウンターで見た食べ物が一つずつ並べられていた。
女性店員はテーブル代わりの樽の上に皿とカトラリーを置きながらニコラスに話しかけたのだが、シルヴィは
「おいしそう~」
と皿の上の十種類の食べ物に目も心もすっかり奪われていた。
「シルヴィ、何を飲む?」
ニコラスにそう訊かれ、シルヴィは我に返った。
「え……? えっと、レモンの果実酒、あるかしら?」
シルヴィはワインやエールの味があまり好きではないので、普段はアルコールをそんなに飲まないのだが、唯一好きな酒は自国領ナルフィのペリオン海海岸線の町で作られているレモンの果実酒だ。
ニコラスはティティス語ではない言葉で店員に話しかけ、店員は二、三度首を縦に振ってからカウンターへと戻っていった。
「ねぇ、ニコラスが今話していたのは、スコル語……よね?」
「ああ、そうだよ。このあたりはスコル人の商人やスコル系のティティス人が多く住んでいるから」
そんな地区がローゲの中にあることを知らなかったから、新しい発見にシルヴィの胸がまた高鳴った。
「俺との婚約が決まってから、スコル語の勉強を始めたって言ってなかったっけ?」
「う……、そう……だけど……。私はどうもじっとしていられなくて………」
体を動かすことが好きなシルヴィは、部屋で座って勉強するということがどうしても苦手だった。ナルフィ城にいる時は一応一日おきに家庭教師からスコル語の授業を受けているが、教師にも半分匙を投げられているほどにシルヴィは出来の悪い生徒だった。
「まぁ、焦らずゆっくりやればいいよ」
ニコラスはシルヴィの頭にぽんと手をのせた。そのまま頭を撫でられ、シルヴィはそう言ってくれる恋人の優しさに嬉しくなり、同時に語学が上達しない自分のことが情けなくなった。
「……ニコラスはすごいわね……。スヴェン王子も。私、時々二人がティティス人ではないってことを忘れてしまうわ。だって、二人とも完璧なティティス語を話すんだもの」
「小さい頃からみっちりやらされたからなぁ。やっぱりティティス語は世界の共通語だよな」
そこへ女性店員が再び現れて、彼女は樽の上にニコラスの白ワインとシルヴィのレモンの果実酒を置いた。
「あ……ありがとう……」
シルヴィは勇気を出して、店員にスコル語で礼を言った。
すると彼女はにっこり笑い、
「どういたしまして」
と同じくスコル語で返してくれた。
店員が店の奥へと戻った後で、シルヴィは脱力して樽にもたれかかった。
「つ……通じた……。よかった……」
「よくできました」
ニコラスはシルヴィの頭を抱えるようにしてから自分のほうへと引き寄せ、彼女の耳にご褒美のキスをした。
彼のくちびるが触れた場所を押さえながら、ナルフィに戻ったらもう少し真面目にスコル語を勉強しよう……、とシルヴィは自分に誓った。
ニコラスは白ワインが入ったグラスをシルヴィのほうに向けた。シルヴィも自分のグラスを持ち上げ、二人は自分のグラスを相手のグラスにぶつけた。
「「乾杯」」
目を合わせて微笑み合ってから、二人はグラスに口をつけた。
「どれでも好きなのを食べろよ? 気に入ったら、また注文すればいいし」
ニコラスがカトラリーを渡してくれたので、それを受け取ったシルヴィはさっそく一番手前にあったものを半分に割り、それを口に入れた。
シルヴィがもぐもぐと咀嚼している間に、残りのもう半分をニコラスが口に運んだ。
「これは……何かのパイ?」
「ああ。ローゲは海がないから豚の塩漬け肉が入ってるけど、スコルの海沿いの町では、この料理の中にえびを入れたりかに身を入れたりするんだ」
「これもおいしいけど、魚介類が入っていてもおいしそうね! いつか食べたいわ」
「ああ。結婚したら、旅行がてら食べにいこう」
「うんっ!」
二人は現在婚約中だが、結婚するまであと四カ月を切っている。
もうすぐこの人と結婚するのだ。急に実感が湧くと同時に、シルヴィの胸がいろいろな感情でいっぱいになった。好きな人と結婚できる喜びや異国へ嫁ぐ不安や好奇心、彼とならきっとうまくやっていけるという確信や祖国や家族と離れる寂しさ。そんなものが混ざり合って、シルヴィの胸を優しく締めつけた。
シルヴィは持っていたカトラリーを皿の上に置き、それから両腕をニコラスの胴体に巻きつけ、彼にぎゅうっと抱きついた。何だかどうしてもそうしたかった。
「シルヴィ?」
急に抱きつかれて少し驚きながらも、ニコラスのほうも手に持っていたグラスを樽の上に戻した後で、シルヴィの体を抱きしめ返した。
「ねぇ、ニコラス」
シルヴィはニコラスの胸にうずめていた顔を上げた。
「うん?」
ニコラスがまっすぐに自分を見下ろしている。その黒い瞳が優しげに光って、シルヴィはどうしようもなくほっとした。
彼と一緒にいると、いつもこんなふうに安心する。兄ラザールから小言を言われたり、ティティスの貴族社会から変わり者だと嘲笑されたりすることが多いシルヴィだけれど、ニコラスはそんな自分をそのまま丸ごと受け入れてくれるからなのだろうか。
もしこの世界の全ての人が自分を馬鹿にしたり、あざ笑ったり、批判したりしたとしても、彼だけは絶対に自分の味方でいてくれる。そう胸を張って言える。そんなふうに思わせてくれるのがニコラスだ。
安堵しすぎると気までゆるんでしまうのだろうか、悲しくなんてないのに、シルヴィは泣きたくなった。
でも、泣く理由なんてないから、シルヴィは泣かないようにするために目を細め、
「結婚したら、スコルのいろいろな場所に連れていってね?」
と訊いた。自分の声がかすかに震えてしまったのには気づかないふりをして、シルヴィは必死に笑った。
「ああ、もちろん」
迷いなく即答してくれた彼の返事が嬉しくて、シルヴィの胸がまたいっぱいになる。
涙が溢れてしまいそうだったから、シルヴィは慌てて顔を彼の胸に押しつけた。
「シルヴィ? どうしたんだよ」
彼はシルヴィが泣きそうになっているのを見透かしているのだろうか、苦笑しながら彼女の体を優しく抱きしめた。シルヴィの隠した顔を無理に暴くことも、彼女の腕をほどくこともしなかった。
するとリュートの音がやんで店中の客が拍手したので、シルヴィは顔を上げた。演奏者が今まで弾いていた曲が終わったから、客たちは手を叩いて演奏を称えたのだった。
演奏者はスコル訛りのティティス語で
「次はそこの若い恋人たちのために一曲」
と二人を指差したため、客たちの目がいっせいにニコラスとシルヴィに注がれた。彼らは二人の仲を祝福するように手を叩いたり、二人をからかうように指笛を吹いたりした。客たちの反応にシルヴィは少し驚いたが、ニコラスは慣れた様子で客たちに微笑み返した。
客たちが静まるのを待ってから、演奏者はリュート片手に歌い始めた。
「あ、この歌は、スコルでは誰もが知っている歌だ」
ニコラスが呟くように言った。
シルヴィは彼を見上げた。ニコラスは懐かしそうに目を細め、淡く微笑んで演奏者を見つめていた。彼は歌のリズムに合わせてシルヴィの背中を軽く叩いたり、メロディーを口ずさんだりした。
歌詞はスコル語だったから、シルヴィは全てを理解することはできなかった。
けれど、繰り返される『私たちは永遠の恋人』という部分だけは理解することができた。
ティティスの歌とは少し違う旋律だった。『私たちは永遠の恋人』などという甘い歌詞なのに、メロディーは胸を締めつけられるように切なくて、どこか悲しげでさえあった。しかし同時に、燃え盛るたいまつのような情熱と力強さも感じられた。
初めて聞いた曲なのに、何だか懐かしいとシルヴィは思った。リュートの音色と演奏者の歌声がシルヴィの胸をかき乱す。心の一番繊細な部分を締めつけられて苦しいのに、もっと聞きたいと思ってしまう。スコルの歌は不思議な魅力を持っていた。
やがて曲が終わると、客たちはまた拍手と指笛でさわいだ。
ニコラスはシルヴィの背中に回していた腕の力をゆるめ、トラウザーズのポケットを探った。そこから硬貨を引っ張り出した彼は、それをシルヴィに握らせた。
「あのリュート弾きにあげておいで」
シルヴィはニコラスが持たせてくれた硬貨を握りしめ、鳴りやまない拍手と指笛の中を歩き、一歩ずつ演奏者へと近付いた。
シルヴィが演奏者の前に立ち、手を開いて硬貨を見せたところ、彼は床の上に置いてあったコップを指差した。
「ありがとう、お嬢さん」
そこに金を入れるのだと悟ったシルヴィは身を屈めて手の中の硬貨をコップの中に入れた。
そうしている間に他の客が希望する歌の名前を演奏者に告げた。
さっそく新しい曲が始まった。今度はさっきの恋の歌から切なさを取りのぞいたような明るめの曲だった。
シルヴィはニコラスのところへ戻った。
客たちの多くはグラスを片手に曲に合わせて体を揺らしながら、テーブル代わりの樽の側面や壁を叩いてリズムを刻んだ。
皆、お酒を飲んだり食べたりしながらリズムを取ってるわ。器用ね。
客たちを観察しつつ、シルヴィもグラスを傾けた。
ニコラスが料理を切り分けてくれたので、シルヴィは全ての品を少しずつ味わうことができた。酒のつまみだからか少々塩味が強かったが、どれもおいしかった。
そのうちにだんだんと客も増え、中には音楽に合わせて踊り始める者も現れた。足を踏み鳴らしたり肩を組んだりして盛り上がる客たちの様子を観察することさえシルヴィには新鮮だった。
酒のせいなのだろうか、しばらくするとシルヴィの頭がふわふわしてきて、彼女も踊りたくなった。スコルの踊りを知らないから、実際には踊ることはできないのだが、それでもシルヴィもやがて音に合わせて体を左右に動かした。彼女の体は自然と動いて、じっとしていられなかった。
二人は一杯目と同じ飲み物をもう一杯ずつ注文した。演奏者や踊る客を見ながらちびちびと飲んでいるうちに、新しい客が次々に入ってきて、店は客でいっぱいになった。
狭くなってきたので、二人は二杯目を飲み干し、ニコラスが会計をすませた後で、店に入った時と同じように手を繋いで店を出た。