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フォルニート城の玄関口でラザールは婚約者アリーヌ付きの女官に迎えられた。これから応接間に通され、そこで自分を待っているアリーヌと会うのがいつもの決まった流れだった。
応接間で自分を迎えてくれるのはアリーヌだけの時もあるが、彼女の家族も一緒の時もあった。今日はアリーヌの両親であるフォルニート大公夫妻ミリアムとメガーヌもそこにいた。
応接間のソファに腰を下ろしていた彼らは、ラザールが到着すると立ち上がって彼を迎えた。
「大公閣下、夫人、先日はお忙しい中ナルフィまで足をお運びいただいたにもかかわらず、あのような結果になってしまい、申し訳ありませんでした」
ラザールは応接間に足を踏み入れると、部屋の入り口のところに立ったまま、開口一番にフォルニート大公ミリアムとその妻メガーヌに謝罪した。イヴェットとスヴェンの婚約披露パーティーのために、彼らはナルフィまで来てくれていたのだった。
フォルニート大公夫妻とアリーヌは頭を下げたままのラザールのところまでやって来て、まずミリアムが励ますようにラザールの肩をぽんぽんと叩いた。
「いや、病気では仕方ない。気にするな、ラザール」
ミリアムがラザールの肩を押し上げたため、彼は倒していた上半身を起こした。
「それで、イヴェットのお加減はいかが?」
メガーヌが心配そうにラザールを見上げた。
「はい、今はシャルナルクのほうに療養に行っています」
「そうか。シャルナルクはいいところだからな」
ミリアムは納得したような表情でうんうんとうなずいた。
「イヴェットの一日も早い回復を願っています」
メガーヌの心のこもった言葉に、ラザールも思わずふっと笑みをもらした。
「ありがとうございます」
礼を言うラザールの前に、今まで黙っていたアリーヌが進み出た。
「ラザール、私には挨拶して下さらないの?」
頬を膨らませたアリーヌに苦笑しながら、ラザールは手に持っていた花束を差し出した。
「久しぶり、アリーヌ」
「ありがとうっ!!」
アリーヌはぱあっと顔を輝かせて花束を受け取った。目を細めて花束を見つめてから、彼女はラザールの真正面に向けていた顔を少し傾け、左の頬を突き出すようにしてから目を閉じた。
彼女が自分に何を望んでいるのかを察したラザールは声にこそ出さなかったが、内心うっと唸った。
反射的にフォルニート大公夫妻を見ると、ミリアムは気まずいのだろうか娘とその婚約者とは逆方向に体を向けた。
メガーヌは
「まぁまぁ、アリーヌ、はしたない」
と娘をたしなめたものの、それが口だけであるのは明確だった。大公夫人は困ったように微笑んでいたが、その顔には、どうか娘の願いをかなえてやって、というラザールへの期待をしっかりと浮かべていた。
アリーヌは再会する時と別れ際に、こうしてラザールに挨拶のキスをねだる。それはいつものことなのだが、彼はいつまで経っても慣れなかった。
それが二人きりの時でさえもラザールにとってみれば照れくさくて顔から火が出そうになるのだが、この場にはよりにもよって彼女の両親がいるので、ラザールはあまりの恥ずかしさに発狂しそうだった。
躊躇しているラザールを急かすようにアリーヌは片目を開けて
「早く~」
と言い、再び瞳を閉じた。
ああ、もう勘弁してくれ……。
ラザールは半ば自暴自棄になりながら、身を屈めて素早く彼女の頬に自分のくちびるを押し当てた。
ラザールにしてはこれでも結構がんばったのだが、アリーヌは一瞬かすめただけのキスに不満らしく、
「んもう! もっと情熱的にできないの?」
と拗ねたように口を尖らせた。
ラザールは自分が赤面していることを自覚し、隠すように片手で顔を覆った。反論する気力もなかったし、返す言葉も浮かばなかった。
幸いなことに、フォルニート大公夫妻はラザールの味方になってくれた。
「アリーヌ、そんなわがままを言うものではありませんよ」
メガーヌは二人を引き離すように娘の体を軽く押した。
「そうだぞ、アリーヌ。ラザールは上出来だよ、私がこのくらいの年の頃は……」
「はいはい、お父様の昔話は聞き飽きたわ」
アリーヌは父ミリアムの話を遮り、母に押されるままさっさとソファの自分の席へと戻った。メガーヌがその後に続く。
ミリアムは将来の娘婿に同情したのだろうか、ねぎらうようにラザールの背中に触れ、ラザールに彼の席、つまりアリーヌの隣に座るよう促した。
一足先にソファに腰を下ろしたアリーヌは腕を組んだ。
「これじゃあまるで私が嫌がるラザールに無理強いしてるみたいじゃない!」
ラザールはテーブルの向こう側でミリアムとメガーヌが腰を下ろしたのを見届けてから、自分も遠慮がちにアリーヌの隣に座った。
嫌がっているわけじゃあ……ない……んだけれどな……。
ラザールは心の中でそっと呟いた。
それは彼の本心だった。
ラザールは別に嫌なわけではない。ただ、照れくさいだけだ。
嫌なわけではないよ、と伝えたほうがいいのだろうか。でもそうすると、じゃあどうしてもっとしてくれないの!? などと訊かれたら困ってしまうし、恥ずかしいから、と正直に答えるのもこれまた恥ずかしい。
「これこれ、アリーヌ、そんなにラザールをからかうもんじゃない」
「そうですよ、アリーヌ。そんな態度では、ラザールに嫌われてしまいますよ」
「もうラザールくらいしかお前みたいなわがまま娘を嫁にもらってくれる貴族はいないぞ」
ミリアムとメガーヌはそう助け舟を出してくれたが、ラザールはひやひやしていた。フォルニート大公夫妻の厚意は大変ありがたいのだが、これではアリーヌはますます拗ねてしまうのではないだろうか。
案の定、アリーヌはむすっとした。
「お父様ったら失礼ね!! じゃあ、本当にラザール以外に私を妻に望む人がいないかどうか、証明してあげましょうか!?」
挑戦的なアリーヌの態度にラザールはぎょっとしたが、実はフォルニート大公家ではこれくらいのきわどい会話は日常茶飯だったので、ミリアムはめんどくさそうにふんっと鼻を鳴らした。
「ああ、ああ、ぜひそうしてくれ。ただ、それでラザールに愛想を尽かされても、私は知らんからな。その時になって後悔するなよ? ラザール以上の好青年はこのティティスにはいないぞ!?」
ミリアムが自分を褒めてくれるのも自分を評価してくれるのも、ラザールとしてはもちろん嬉しかったのだが、一方で彼はあまり褒められ慣れていないから、全身がむずがゆくなった。
今までぷりぷりと怒っていたアリーヌはふと真顔になって、
「それもそうね」
と素直に父に同意した。
彼女のその心変わりの早さについていけないラザールは、この応接間の中で一人だけ戸惑ってしまう。
だが、フォルニート大公一家にとってはこれこそが日常なので、彼らは気にも留めなかった。
女官がお茶を運んできたのをきっかけに、ミリアムが会話の主導権を握り、ラザールのローゲでの学校生活やナルフィ大公一家の様子などについてラザールにあれこれ質問した。しかしラザールやナルフィ大公国についてあれこれ探りを入れようというような卑しい態度では全くなく、世間話の延長だった。
ラザールは一つ一つの質問に慇懃に答えた。
彼と会話をしているミリアムも、口を挟まずに聞いているだけのメガーヌも、内心彼の年の割に落ち着いた雰囲気や丁寧に受け答えする誠実な態度に感動していた。彼らにはアリーヌの他に一人の娘と二人の息子がいるのだが、長女は自分たちの子供とは思えないほどに変わっていたし、長男と次男はラザールよりも年が上であるにもかかわらず、どこか頼りない。
もちろん彼らは自分たちの子供を愛している。
けれど、まだ若いのに同年代の青年たちと比べて成熟しているところが目立つからこそ、彼らは末娘とそんなラザールとの政略結婚を良縁だと喜んでいたのだ。
ラザールとしても、フォルニート大公夫妻が将来の娘婿である自分を歓迎してくれているのがひしひしと伝わってくるから、恐縮しながらもいっそう節度を持った態度でフォルニート大公夫妻に接しようと気をつける。
そして夫妻(特に家族から軽くあしらわれる傾向が強いミリアム)は自分たちにちゃんと敬意を払ってくれるラザールの態度が嬉しくて、こうしてラザールがアリーヌに会うためにフォルニートまでやって来るたびに、ミリアムは彼と一緒に過ごしたがる。
ミリアムには娘に意地悪をしようという意思はもちろんないのだが、結果的に彼は娘と婚約者二人きりの時間を邪魔することになってしまい、アリーヌの不満を招くことになるのだ。
夫よりは冷静な妻メガーヌは娘の味方で、せっかくの娘と婚約者の時間なのだから、と暴走する夫をひじで小突くのが常だった。
「ほら、あなた、そろそろ若い二人だけにしてあげなければ……」
ミリアムは妻にそう耳打ちされ、ようやく我に返った。
「ああ、そうだな。アリーヌ、ラザールと庭にでも行ってきたらどうだ?」
「そうね、それがいいわ」
夫妻は自分たちの向かいに座ったアリーヌとラザールを見ながら、二人に立つように合図した。
結婚前の貴族の若い男女が二人きりになるといえば、庭の散歩と相場は決まっている。アリーヌとラザールのように将来結婚することが決まっているカップルであっても、部屋のような閉ざされた空間で二人きりになるのはティティス帝国の貴族社会の文化の中ではご法度とされている。
庭なら完全な密室ではないので、独身の男女が二人きりになったとしても(一応すぐ近くに侍女や下男が控えるのだが)許容される範囲なのだ。
「はい、では、失礼いたします、閣下、夫人」
アリーヌと二人で立ち上がったラザールは、背筋をぴんと伸ばして夫妻に敬礼した。
「ラザール、水くさいじゃないか。そんな他人行儀に呼ばないでくれ」
大公は苦笑したが、これはミリアムとラザールの間で毎回繰り返されるやりとりである。
ラザールもアリーヌと婚約する以前はミリアムを『ミリアムおじさん』と呼んでいたのだが、将来義父になる人に対して馴れ馴れしすぎるのではないかと考えたため、呼び方を変えた。
ミリアムはラザールが自分を慮ってあえてそう呼んでくれていることに当然気づいていたから、そこに彼から自分への心遣いを感じ、いっそう嬉しくなってしまうのだった。
「ラザール、さっさと行きましょ。お父様とラザール二人だけで盛り上がっていたから、退屈しちゃったわ」
先に歩き始めたアリーヌがラザールの腕を取った。
アリーヌに腕を引っ張られたラザールは、もう一度フォルニート大公夫妻に頭を下げてから歩き出した。
「行ってらっしゃい」
のんびりとした口調でメガーヌが、
「ラザール、また夕食の時にな!」
とミリアムが、それぞれ二人の背中に声をかけた。
ラザールはもう一度振り返り、再び会釈をしながら、アリーヌに導かれるままフォルニート城の応接間を後にした。