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きっと一生縁がないもの  作者: 冗長フルスロットル
第二章 恋人たちの10月
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自分のすぐ隣まで移動してきて椅子に座ったスヴェンを意識せずにはいられなくて、立ったままのイヴェットはテーブルの上に自分が並べたカップを見下ろした。


緊張でがちがちになっているのを自覚したイヴェットは自分を落ち着かせるためにそっと息を鼻から逃し、六つのカップにゆっくりとお茶を注いだ。芳香が鼻に届き、イヴェットは何だかほっとした。


イヴェットにとっては意外なことに、彼女の真向かいに座っていたニコラスが立ち上がって、手を伸ばしてお茶で満たされたカップをアリーヌやシルヴィに手渡した。


「ありがとうございます、ニコラス王子」


ティティスではこういったこまごまとした仕事は女性がすることが多いので、イヴェットは手伝ってくれたニコラスに対しありがたいと思いながらも、同時に一国の王子にこのようなことをさせてしまって申し訳ないとも思った。


当のニコラスは全く気にしていない様子で、


「いえ」


とイヴェットに微笑みかけ、最後に自分のカップを引き寄せてから座った。


腰を下ろすと同時にニコラスは彼にとってはテーブルを挟んで斜め前の方向に座っていたスヴェンを見やり、


「スヴェン、ラザールに渡してやれよ。まったく、お前は気が利かないな」


と苦笑した。


スヴェンはニコラスにそう言われて初めてイヴェットの前にカップが三つ並んでいるのを認識したらしく、


「………ああ」


と返事をしてから、そのうちの一つに手を伸ばしてそれをラザールに手渡した。


『気が利かない』というニコラスの指摘はそのとおりで、スヴェンは黙っていても周囲が勝手にあれこれやってくれる環境で育ったので、こういったことには確かに気が回らないのだ。


その間にイヴェットは残った二つのカップのうち、一つをスヴェンの前に、もう一つを自分の前に置き、ゆっくりと椅子に腰かけた。


「ねぇねぇ、兄上たちだって試験が終わったんだし、せっかくアリーヌもこうしてローゲまで来てくれたんだから、皆でどこかに行かない?」


シルヴィが一同を見渡しながら提案すると、アリーヌとニコラスは


「いい考えね!」


「ああ、いいよ」


と返したのだが、ラザールは眉をひそめた。


「どこかって、どこに行きたいんだ?」


彼らが会話するのを見守りながら、イヴェットは利き手の右手で自分のカップを持とうとしたのだが、それはかなわなかった。テーブルの下でスヴェンに手を握られたからだった。


イヴェットは過去にスヴェンに会った時や外出する時はいつも、素肌を少しでも隠そうと手袋をつけていたが、今日はそうしていなかった。彼女にとってはこの屋敷は自宅だし、兄たちが帰る前に一緒にいたのが同性のシルヴィとアリーヌだったからだ。手袋をつけることをすっかり失念していた。


スヴェンのごつごつした大きな手の感触と熱はイヴェットには生々しくて、彼女は驚きに息を呑み、とっさに自分の右隣に座っているスヴェンを見た。


彼もイヴェットと同じで利き手は右手なので、右手でカップを持ち、ゆったりとしたしぐさでお茶を飲んでいる。


彼の涼しげな青い瞳は友人たちを見ていた。動揺と恥ずかしさで一瞬で体に熱が発生してしまったイヴェットとは対照的に、スヴェンは落ち着き払っていた。


いつもと全く変わらない様子のスヴェンの横顔を見て、イヴェットはますます混乱した。彼に右手を取られていると自分の脳は認識しているのだが、はたしてそれは正しいのだろうか。現実に起こっていることなのだろうか。


思わずイヴェットは視線を落とし、自分の右手を見た。そこには確かにもう一つの自分のものではない手があり、イヴェットはその手の先を目で追った。


白いシャツのそでに肩先から始まる黒いベストの領域、そして再びえりの白が来てから、のどぼとけのある首がイヴェットの視界に入った。


その上には初めて会った時から恋焦がれたスヴェンの端正な横顔があった。自分の右手をつかんでいるもう一つの手は、確かに彼に繋がっている。


ところが、その横顔は完璧な鉄面皮を貫き、テーブルの下でイヴェットの手を握っているとは少しもにおわせていない。


もしイヴェットが何とも思っていない男性にこのようにされたら、彼女は慌てて自分の手を引くだろう。


しかし相手は自分の婚約者だ。それも、ただの婚約者ではない。数日前にようやく想いが通じ合ったばかりの、イヴェットにとっては人生で初めての存在だった。


こんな時どうすればいいのか、イヴェットには分からなかった。


婚約者同士ではあるものの他の人も同席している場なのだから、手を離すのが正解なのだろうか。恥ずかしくてたまらなくて、そうしたい気持ちもあった。


けれど同時に、そうしたくなかった。彼のほうから伸ばしてくれた手を、イヴェットから振りほどくことはどうしてもできなかったし、したくなかった。だってイヴェットは心のどこかでずっとそれを望んでいたのだ、きっと彼がイヴェットを裏切った時でさえ。


イヴェットの胸に喜びが湧き上がったのは事実だから、自分からも彼の手を握り返すことができたならいいのだが、しかしイヴェットは躊躇してしまった。そうすることがはしたないのではなかという疑念にとらわれてしまったのだった。


結局イヴェットはスヴェンの手から逃げることも彼の手を握り返すこともできないまま固まった。どっちつかずの中途半端な自分が何だか情けなかった。色恋事に慣れたスヴェンには、こんな自分はつまらないのではないか。そんな考えが一度頭に浮かんでしまうと、今までイヴェットを支配していた歓喜と動揺は急に姿を消してしまい、代わりに恐怖が台頭した。


イヴェットの心が不安一色に染め上げられる直前に、彼女の精神は救い上げられた。スヴェンがイヴェットの右手を握る力を強めたのだ。彼はそのまま指をしっかりとイヴェットの指に絡ませ、親指を動かしてイヴェットの人差し指を上下になぞったり、親指のつめを撫でたりした。


一度は冷えたイヴェットの体温が再び上昇した。イヴェットの胸はすぐに切なさでいっぱいになってしまい、彼女は必死に呼吸をしながらスヴェンの横顔をそっと盗み見た。


彼は相変わらずイヴェットではなくて友人たちのほうを見ていたし、まるで何事も起きていないように堂々としている、誰にも見られていないテーブルの下ではこんなに強くイヴェットの手を握っているというのに。


彼の手から感じる情熱と、彼の横顔から漂う落ち着き。恋愛経験のない初心なイヴェットにはどちらが本当のスヴェンなのか全く分からなくて、彼女の胸がますますかき乱された。


けれどスヴェンの手の感触や体温に、彼女の心は引っ張られた。


前者を信じたかったイヴェットは勇気を出して彼と繋がる自分の右手に力を込めた。


どうか……、どうか、あなたのお心が私の気持ちと同じでありますように……!!


イヴェットは自分でも気づかないまま心の中でそう祈っていた。


すると今まで前を向いていたスヴェンが急にイヴェットのほうに顔を傾けた。くちびるの端を少しだけ持ち上げて微笑した彼の表情がどこかなまめかしかったから、一瞬だけ彼と目が合った後、イヴェットは慌ててうつむいた。


顔を伏せた彼女には見えなかったが、スヴェンは再び顔の向きを前方に戻した。今までどおり、友人たちの会話に耳を傾けている体を装った。


ところが、スヴェンはテーブルの下で彼女の右手を握る力をさらに強めたから、イヴェットは自分の願いが通じたような気になって、思わず泣きたくなった。


彼女の今の感情を分類するのなら、それは幸福であろう。だが、それは今までの人生でイヴェットが幸福を感じた時に胸に起こったのとは違っていた。幸せなはずなのに息をするのも苦しくて、別に寒くもないのに体が小刻みに震え、暑いわけではないのに体中から汗がにじみ出て、頭がぼんやりしてしまう。


「遠乗りにも行きた――い!!」


「お前はいいけれど、イヴェット大公女とアリーヌ大公女は遠乗りなんて嫌じゃないか?」


「いえ、私は構いませんわ。……ただ、私は自分一人では馬に乗ることができないので、ラザールが私を連れていってくれるのなら、ですけど」


「…………分かった。明後日に医者が来る予定だから、医者がもう普段どおりの生活をしていいと許可してくれたら、遠乗りに行こう」


「やった―――!! じゃあ、遠乗りは決定ね!? あと、アリーヌは? 他にどこに行きたい?」


「そうね……。せっかくローゲに来たんだから、歌劇を観にいきたいわ」


兄妹とその婚約者たちが進めていく会話の流れに、イヴェットは全く集中できなかった。彼らが口にする言葉の意味をもちろんその瞬間には理解するのだが、イヴェットの耳には入るものの頭の中には留まらず、逆側の耳から出ていってしまうような感覚だった。


それはスヴェンが


「だったら、それは俺が手配しよう」


と急に彼らの会話に加わった時も同じだった。


「本当ですか!?」


目をきらきらと輝かせたアリーヌのはちきれんばかりの笑顔も、イヴェットには何だか霞がかっているように見えた。


「アリーヌ、歌劇が好きだったのか? 知らなかった……。俺は芸術を理解する才能がないからなぁ……」


「そう言うと思って今まで誘わなかったの!」


「私も実は兄上と同じかも……」


「確かに、お前と歌劇って想像できないな。そもそも、最初から最後までちゃんと座っていられるのか?」


「ニコラスったらひどいっ!! 座るくらいならできるわよっ!! ………途中で寝ちゃうかもしれないけど」


シルヴィの一言で笑いが起こったが、イヴェットの意識はその輪の中に加わることができなかった。


彼女が唯一認識できたのは、スヴェンと繋いでいる手の感触だけだった。それだけが今の全てがふわふわしてしまったイヴェットの中でただ一つ確かな感覚だった。


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