15
アリーヌはテスピニャにあるフォルニート大公家所有の別荘で一泊し、フォルニート城を出た翌日の午後に帝都ローゲのナルフィ家別邸に到着した。
イヴェットとシルヴィがアリーヌを玄関先で出迎えてくれた。
「アリーヌ!! 久しぶりっ! 元気にしてた?」
シルヴィがアリーヌに抱きついたので、イヴェットはおろおろした。
「シルヴィ、アリーヌお義姉様に向かってそんな口を利くなんて……」
「いいのよ、イヴェット」
まだラザールと結婚していないにもかかわらず、イヴェットはアリーヌのことを『お義姉様』と呼んでくれる。末っ子のアリーヌには少しだけくすぐったいけれど、アリーヌはイヴェットにそう呼ばれるのが好きだった。
では、馴れ馴れしいとさえいえるシルヴィの言動を苦々しく思っているかといえば、全くそうではない。いい意味で自分に気を遣わないシルヴィの態度や言葉遣いは、自分を兄の婚約者として認めてくれているようにアリーヌには思えたから、それはそれで嬉しかった。
アリーヌがシルヴィの体を抱きしめ返し、
「ええ、元気よ。シルヴィは? ……なんて訊く必要、ないわよね」
とからかうような口調で言うと、シルヴィはにやりと笑った。
「ええ、元気よ、元気。絶好調!」
「そういえば、スコル王国の王子様と婚約が決まったんでしょう? おめでとう!! その話もじっくり聞かせてもらわなきゃ!」
シルヴィは頬を少しだけ赤くして、
「ありがと」
と照れた様子だった。
アリーヌはシルヴィの体を離し、今度はイヴェットに向き直った。
「イヴェット、体は回復したの? 心配していたのだけれど、元気になったのならよかったわ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。すっかり本復しました」
イヴェットは両手で胸元を押さえ、そのままひざを折って頭を下げた。
「本当によかった」
アリーヌはイヴェットを抱きしめた。イヴェットのほうも腕を伸ばしてアリーヌに抱擁を返した。
「お義姉様、お茶の時間にはまだ少し早いですが、もしよかったらお茶にしませんか?」
テスピニャの別荘で朝食を食べたきりで小腹がすいていたアリーヌには、イヴェットの提案はありがたかった。
「ええ、ぜひ!」
アリーヌの返事を受けて、イヴェットは傍らに控えていた執事に、お茶と軽食の準備と、それを庭へと運ぶことを命じた。
三人はそのまま庭を目指して歩き始めた。
「ラザールは?」
「昨日まで試験で、今日これからここに来るはずです。もうこちらに向かっているかもしれません」
アリーヌの右隣を歩いていたイヴェットがそう答え、逆側にいたシルヴィが
「兄上だけじゃなくて、ニコラスとスヴェン王子も一緒よ」
と口を挟んだ。
「ニコラスって……あなたの婚約者の?」
「そう」
シルヴィは嬉しそうに大きくうなずいた。
シルヴィとイヴェットの婚約者たちに会えるなんて全く想像していなかったアリーヌは、思いがけず彼らに会えることになって、純粋にこの知らせを喜んだ。
「まぁ!! それは嬉しいわ」
アリーヌはふと、もう一人のナルフィ家の兄弟のことを思い出した。
「ところで、ビセンテも来るの? 彼ももう士官学校に入学したのでしょう?」
アリーヌは最近ずっとビセンテに会っていなかったから、久しぶりに彼にも会えるかもしれないと期待したのだが、イヴェットとシルヴィがそろって首を横に振った。
「学校でできた仲のいいお友達と旅行に行くそうです」
「学校の寮から直接旅に出るんだって。いいなぁ、私も何の気兼ねなく世界中を旅してみたいわ! 女っていうだけで自由を制限されて、本当に世の中不公平だわ」
三人はそんなことを話しているうちに中庭に着いた。
三人がガゼボに置かれていた椅子に腰を下ろしてしばらくすると、侍女がお茶と軽食を運んできた。それを受け取ったイヴェットがお茶をカップに注いでいる間に、アリーヌとシルヴィは最近ローゲで大人気のお菓子を提供する店について話し始めた。
「四季の果実亭という名前のお店で、どこかの宿の一階に入っているんですって。二人は行ったことある?」
アリーヌはシルヴィとイヴェットを順番に見やった。二人ともふるふると首を振った。
「何でも、とにかくいろいろな種類のお菓子が常備されているらしいの!!」
「素敵ですね」
イヴェットがアリーヌにカップを差し出しながら相槌を打った。
「行ってみたいわ!」
シルヴィが自分と同じ意見だったので、思わずアリーヌの心が弾む。
「ねーっ! 行けたらいいのだけれど……」
だが、アリーヌは現実を考えて意気消沈した。自分も将来の義妹たちも大公女なんていう堅苦しい肩書き持ちだから、自分たちには自由気ままに街に繰り出すなんて許されない。お金なんてものも持っていないから支払いもできないし、第一、その店について知っているのは名前だけで、正確な場所も分からないからそもそもたどり着くことさえできないだろう。
するとシルヴィがきらきらと目を輝かせた。
「兄上たちにお願いして連れていってもらうのはどう?」
それはいい考えね、と同意しかけたアリーヌだったが、そうする前にイヴェットが控えめにアリーヌとシルヴィの望みを打ち砕いた。
「でも、お兄様がお許しになるかしら……?」
兄の性格をよく知るイヴェットはシルヴィの案に懐疑的だった。
ラザールは道徳とか社会的規範といったものを重要視する。ティティスの貴族社会では、女性は身分が高くなればなるほど表に出ないほうがいいとされていた。高貴な身分の女性が軽々しく民衆の前に姿をさらさないほうがいいという考え方によるものだ。だからラザールはアリーヌたちがお菓子を食べにいくために街に出て店に足を運ぶということを快く思わないだろう。
シルヴィも兄のことをよく分かっているため、イヴェットの言葉の意味を瞬時に理解した。
「……あの頭が固い兄上だものね」
「……確かに、あのラザールが付き合ってくれるわけないわね……。ああ……、一度でいいから行ってみたいのに……」
アリーヌは今度は完全にイヴェットの指摘に同意した。諦めたくはないけれど、諦めなければならない。しかしそんなに簡単に諦めがつかない。アリーヌは葛藤から生じる憂鬱なため息を吐き出した。
シルヴィは腕を組んで、何か妙案がないか考えた。
「う~ん、とりあえず、私からニコラスに相談してみるわ。私たちから兄上に言うよりはましかもしれないし」
「……そうね」
期待すると願ったとおりの結果が得られない時に余計につらくなるので、アリーヌは期待しないように努めながらうなずいた。
「最悪、ニコラスが了承してくれたら、兄上抜きで行けばいいわ。姉上、スヴェン王子はどうだと思う? 兄上と同じ堅物なの?」
妹に訊かれたイヴェットは困惑顔になった。
「どう……かしらね……」
スヴェンとイヴェットの婚約が成立してから二年半以上経っているが、その間に彼と会ったのは数えるほどしかなかったし、その時もイヴェットは彼とほどんど会話らしい会話をしたことがなかった。加えて、一年前に例の件があって以来、顔を合わせることさえなかった。
だからイヴェットは、スヴェンに懇願されてもう一度彼との関係に向き合ってみようとは思ったけれども、彼のことについてはほとんど何も知らないままだったのだ。
「シルヴィ、ニコラス王子は一緒に行ってくれそうなの?」
ニコラスに会ったことがないアリーヌがシルヴィに尋ねたところ、
「多分大丈夫だと思うわ」
という肯定的な答えが返ってきた。
「じゃあ、もしもあなたが四季の果実亭に行くことができたら、いろいろ教えてね? お店の雰囲気とか、味とか」
「任せておいて!」
胸を張ってそう請け負ってから、シルヴィは両手で拳を握った。
「行けないかもと思ったら、かえって行きたくなっちゃうわね。私、ニコラスに頼み込んで、絶対行くわ!! そうしたら、二人にもお土産を買ってくるわね!」
障害があればあるほど情熱を燃やす性格のシルヴィにアリーヌは苦笑した。
自分は行けないかもしれないが、彼女なら行けるかもしれない。かすかな望みを見出したアリーヌはほっとして、イヴェットが淹れてくれたお茶を片手に目の前に並べられた軽食に手を伸ばした。