10
アリーヌを連れてナデージュが向かった先は、今でもフォルニート大公家の家族の団らんに使われている居間だった。
ちょうど午後のお茶の時間だったため、そこにはアリーヌの二人の兄、リシャールとニルスがいた。
彼らもナデージュのように結婚したのだが、リシャールの妻は出産のために実家に帰っているし、ニルスはナデージュと同じく城ではなく城下に住んでいるので、久々にそれぞれの配偶者がいない兄弟四人だけで顔を合わせる機会となった。
事情を知らないニルスは泣きべそをかいているアリーヌの姿を目にしてぎょっとしたが、長兄リシャールは妹が泣いている理由の察しがついていたから、特に驚くことはなかった。
「アリーヌ!? どうしたんだ!?」
「ラザールが帰ってしまったから、泣いているんだろう?」
リシャールに泣いている理由を言い当てられ、アリーヌは頬を膨らませた。
「ラザールが来てたのか。で、兄貴、どうしてラザールが帰ったらアリーヌが泣くんだ?」
ニルスに尋ねられたリシャールは大げさに肩をすくめた。
「アリーヌが意地を張ってラザールと会うことを拒否したから、堪忍袋の緒を切らしたラザールが帰ってしまったんだよ」
「え? あのラザールの堪忍袋の緒が切れるなんて……。アリーヌ、お前、一体どんな意地を張ったんだ?」
兄たちの口調は明らかにラザールに肩入れし、アリーヌが悪いと決めつけていたから、アリーヌは悔し涙をこらえながら声にならない悲痛な叫びをのどの奥から絞り出した。
「~~~~~~~~!!」
「大方そんなことだろうと思ったわ。くっだらない」
ナデージュの吐き捨てるような言い方にアリーヌは打ちのめされた。加えて、血を分けた兄弟の誰も自分の味方をしてくれないもどかしさが募り、アリーヌの精神はますますぐちゃぐちゃになった。
普段から自分を馬鹿にしてくる姉と兄たちを唸らせる一言が何かないかと必死で考えたが、アリーヌには何も思い浮かばなかった。
仮にそんな魔法のような言葉が思い浮かんだとしても、アリーヌに勝ち目はない。それをアリーヌは経験則から知っていた。二人の兄たちはともかく、姉ナデージュはとにかく口が立つのだ。姉を言い負かすことなどアリーヌは今までに一度もかなわなかったし、きっとこれから先も一生ないだろう。
アリーヌがわなわなと震えている間に、リシャールが事の顛末をナデージュとニルスに話して聞かせた。
リシャールが話し終えると、アリーヌは思いのたけをぶちまけた。
「ラザールのばかっ!! 帰っちゃうなんて……!! ひどいっ!!」
ところが、兄たちはやはりラザールの味方だった。
「寝たくらいで何だよ。泣くほどのことか?」
リシャールが呆れたように言うと、ニルスが腕を組んで首肯した。
「そうだぞ。イヴェットが病気になって、婚約披露パーティーが中止になって、ラザールだって大変だったはずだ。それなのにわざわざフォルニートまで来てくれたんだぞ? お前、そこをちゃんと分かってるのか?」
「それは……分かってるけど……」
といったん認めてから、アリーヌは兄たちに食ってかかった。
「でも、それとこれとは全く別のことでしょう!?」
アリーヌはでーんと大きく胸を張ったのだが、ナデージュはそんなアリーヌを歯牙にもかけなかった。
「そんなにぶりぶり怒らないで大きく構えていたら、あんたの株だって上がったのに」
城下街で暮らすようになり、庶民に囲まれて生活するようになってから、ナデージュの口調は変化した。はっきりした物言いは変わらないが、言葉遣いが荒っぽくなった。実はアリーヌは『あんた』と呼ばれることが何だか姉に見下されているような気がして好きではなかったので、むっつりと黙り込んだ。
「…………………」
その間にも、ラザールはまた新たな同情票を獲得した。
「意地を張って会わないようにするなんて、ラザールが気の毒だ。僕が彼でもナルフィに帰るね」
「俺も」
「私もそうするわね。だって、ここにいる意味がないじゃない?」
アリーヌのもどかしさがとうとう爆発し、彼女はむうっと唸って
「んもうっ!! どうしてお姉様たちは分かってくれないの!?」
と叫んだ。
今度こそ姉たちの同情を自分のほうへ向けたかったのだが、二人の兄は急に遠い目になった。
「もうさ、女の口から出てくるその台詞にはうんざりだ……」
「僕もだ……」
ニルスとリシャールは同時にため息をついた。
二人は低く沈んだ声で、まるで呪文でも唱えるように、ぶつぶつと日頃の不平不満を吐き出し始めた。
「自分だけが分かってもらえないようなふうに言うけれど、そっちだって俺のことを少しも理解しようとしないのに……」
「本当だよな……。自分は相手を理解しようとしないのに、相手に理解されることだけを望んでさ、それは不公平だよな」
「何かあれば、いかにも『私、怒ってます』って態度でさ」
「アレは精神的にこたえるよなぁ」
「ああ。で、しばらくすると『私がどうして怒ってるか分かる?』って意味不明な謎出しが始まってさ」
「知るかっ!! 口があるんだから、態度で示すんじゃなくて口で言えばいいのにさ。余計なことはぺらぺら無限に話すくせに……」
「でさ、分からないから一生懸命考えてさ、ひやひやしながら『こういう理由?』って訊いてさ、間違っていたら『どうして分からないの!?』ってまた怒られるし……」
「正解したら正解したで、『分かってるならどうしてもっと○○しないの!?』って責められるし……」
「あれ、本当に理不尽だと思わない?」
「思う思う。普通さ、正解したら、『ピンポ~ン!! 大正解☆』って褒められるところじゃない?」
「そうだよな! 正解しても間違えても、結局怒られるし……」
それまで互いを見やることもなく、独り言のように呟いていたニルスとリシャールだったが、ここにきて突然相手に目を向けた。
「ニルス、君のところもか?」
「兄貴のとこも!?」
二人はしっかりと目を合わせ、重々しくうなずくと、
「「同志よ!!」」
とがっちり抱き合った。
すっかり置いていかれたアリーヌはぽかんと呆気にとられ、ナデージュは冷めた瞳で二人の弟を見つめた。
「あんたたち……。こんなふうに陰でぐちぐち言うなら、本人に直接文句を言えばいいじゃないの!」
姉にそう言われて、リシャールとニルスは妻に不満をぶつける自分の姿を想像したのだが、すぐに顔をしかめ、ぶるぶる震えながら首を振った。
「いやいやいやいや……」
「そんなことしたら、どんな恐ろしいことになるか……」
ナデージュは震え上がる弟たちを細めた目で睨んだ。
「……あんたたちもたいがいだらしないわね……。それでも男なの?」
ナデージュの挑発するような物言いを、リシャールとニルスはあっさりと流した。
「僕とニルスの男らしさは全部姉さんに持っていかれました」
「異議な~し!」
気が弱い弟たちに対するいらだちよりも呆れのほうが勝ったのだろうか、ナデージュはすぱっと言い切る。
「じゃあ、一生そうやって妻を恐れて生きていきなさい。あんたたちにはそれがお似合いよ」
人間というものは切り捨てられるとすがりつきたくなる生き物なのだろうか、一瞬前には胸を張って開き直ったリシャールとニルスは、急に捨てられた子犬の目になった。
「姉さん……」
「姉貴……、冷たいな……」
ところが、ナデージュはやはり少しの情けも見せなかった。
「自分のために戦うことさえ放棄するような腰抜け、どこに行ったって成功しないわよ」
ふんっと鼻を鳴らした姉に、リシャールとニルスはがっくりと肩を落とした。
「あ~あ、半分でいいから、僕も姉さんの強さが欲しいよ」
「俺は四分の一でいい」
「願ってるだけじゃ手には入らないわよ。欲しいものは自分で手に入れるの」
欲しいものを手に入れるために薬まで盛った姉さんは、さすが言うことが違うなぁ……。
リシャールはそう思いながら感心した。
ああ……、姉貴が言うと、ものすっごい説得力だな……!!
ニルスは腕組みして内心唸った。
二人は心の中で納得しながらも、それでもやはりそれぞれの妻と対峙しようとは思えなかった。
妻と直接対決するくらいなら、『腰抜け』と雄々しい姉に馬鹿にされるほうが彼らにとってはよっぽどましだったのだ。そう思うほどに、彼らは妻の尻に敷かれていたのだった。