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帝国暦341年10月某日、ナルフィ大公国の跡取り息子ラザールは、北東の隣国フォルニート大公国に向かっていた。彼の婚約者アリーヌを訪ねるためである。
ナルフィから目的地のフォルニートまでは、二つの城下街を繋ぐフォル=ナル街道を馬車で移動すると二日かかる。二つの街のちょうど中間地点に位置するテスピニャという町で一泊しなければならない。
朝早くテスピニャを出発したラザールは、馬車の中で憂鬱だった。
空はすっきりとした秋晴れで、少しだけ冷たい空気が肌に心地よい。ティティス帝国を網の目のように走る街道はどこもちゃんと整備されているから、彼の旅は快適であるはずだった。
だが、彼の気分はここ数日ずっと晴れなかった。ラザールは彼の家族に関する重大な問題を抱えていたからだ。
ラザールには一人の弟と四人の妹がいる。自分のすぐ下の妹イヴェットは、ラザールが通う帝都ローゲの士官学校の学友でもあり隣国のアンテ王国の王太子でもあるスヴェンと婚約しているのだが、その彼がこともあろうにナルフィ城の侍女に手を付けたのだ。それを目撃してしまったイヴェットは、当然ながらひどく傷ついた。
ラザールは親友の裏切りに激怒した。それは彼の父ユーリも同じだった。
予定されていたスヴェンとイヴェットの婚約披露パーティーを中止することには成功したが、妹の心の傷を思うとラザールの溜飲は上がることはあっても下がることはなかった。
今イヴェットは弟のビセンテや乳兄弟であるマテオとアレクシアに付き添われ、ナルフィ大公国領最南にある港街シャルナルクにいる。婚約披露パーティーを中止するためにイヴェットが突然病を患ったことにし、また、療養のためにシャルナルクに向かったことにしたのだ。
弟たちがそばにいるからきっと大丈夫だ、と妹の心の回復を信じる気持ちもあったが、遠く離れた自分には何もしてやれないというもどかしさがラザールの希望を帳消しにしてしまう。
この事件があった後、父は帝都ローゲに赴いた。皇帝にイヴェットとスヴェンの縁談を白紙にしたいと直訴するためだ。
ラザールと父ユーリは、三人の妹たちシルヴィ、テレーズ、ソレーヌにはこの一件の詳細を教えないことを決めたのだが、彼女たちは当然ながら、姉イヴェットの婚約披露の機会が突然中止になってしまったことに驚き、ビセンテと一緒にシャルナルクへ行ってしまったイヴェットの病状について知りたがった。
父が上京してしまったため、ラザールが妹たちの疑問の窓口にならなければならなかった。彼は妹たちに、父やビセンテと一緒に考えた筋書きを伝えた。
それでも妹たちは納得せず、何度も同じ質問をラザールに投げかけた。
彼も同じ説明を繰り返したのだが、やはり彼女たちはのラザールの説明には理解を示さなかった。
ラザールは精神的に疲れ果てていた。親友が妹イヴェットを傷つけたという現実を受け入れることだけでも大変なのに、それに加えて中止になったパーティーの招待客への対応に追われたり、三人の妹たちから質問攻めに遭ったりして、彼は限界だった。
父ユーリがナルフィにいてくれれば自分にかかる負担はもっと軽くなったのかもしれないが、ユーリは帝都ローゲに行ったまま、まだナルフィに戻る気配はなかった。
そこへちょうど婚約者と面会する予定があったため、ラザールは逃げるようにナルフィ城を出た。
(ちなみに、婚約者アリーヌとの面会は、イヴェットとスヴェンの一件が起きるよりも前に彼女と約束していたものだった。ラザールとアリーヌの婚約は5年以上前に整えられた話なのだが、その時以来、二人は定期的に会う機会をもうけてきた。年に三、四度ほどだろうか。ラザールがローゲの士官学校に入学する前は主に彼がフォルニート大公国の彼女を訪ねたが、入学後は彼女がローゲに上京して在ローゲのナルフィ家別邸やフォルニート家別邸で会うことが多かった。)
三人の妹たちから逃れることができたととりあえずほっとしたのも束の間、ラザールは未来のことを考えて気が重かった。これからイヴェットとスヴェンの結婚話はどうなるのだろう。これから自分と彼の関係はどうなるのだろう。
明るい未来などこれっぽっちも想像できなかったから、ラザールはフォルニート城への道中、終始ため息をついた。
イヴェットとスヴェンの一件ほどではないが、ラザールにはもう一つ別の心配事があった。もう一人の親友ニコラスと妹シルヴィの関係だ。
シルヴィとニコラスは、イヴェットとスヴェンとは違って、順調に信頼関係を構築しているらしい。シルヴィのほうは照れくさいのだろうか、ラザールにニコラスについて話して聞かせることはなかったのだが、意外にもニコラスがラザールに堂々とシルヴィのことを話してくるのだ。
しかしラザールはこの二人の関係にあまり賛成できなかったので、ニコラスがのろけ話を振ってくるたびに耳を塞ぎたい気分だった。
ラザールは主に二つの理由で妹と親友の関係に反対だった。
一つは、自分たちの関係性だ。二人の交際が順調ならいいのだが、もし喧嘩や別れ話にでもなったら、ラザールにとっては大切な親友と大切な実の妹がいがみ合うことになってしまう。それを傍目で見るのはつらいだろうし、それが自分と親友、自分と妹との関係までぎくしゃくさせるようなことになるのではないかとラザールは恐れたのだ。
もう一つは、ニコラスの祖国が抱える事情だった。彼の出身国スコルは北隣のディオネ王国と半世紀に渡り揉めている。
今のところ大規模な戦争に発展するほど両国間の緊張が高まっているわけではないが、国境付近での小規模な戦闘はたまに発生しているようだ。けれどゆるやかに長く続く二国間の緊張がいつ最高潮に達するか予測不能だし、いつ戦争になるかも分からない。
もしニコラスとシルヴィがこのまま順調に関係を育み、結婚することにでもなったら、シルヴィはそんな不安定な国に身を置かなければならない。兄として、ラザールはこの点を非常に憂慮していた。
「ああ……」
他に誰もいない一人きりの馬車の中で、ラザールは思わず声をもらした。
問題というのはどうして一度に起こるのだろう………?
ラザールは二組の妹と親友の組み合わせ、つまりイヴェットとスヴェン、シルヴィとニコラスのことを考えながら、頭を抱えた。