第二王子レックス
わたしなどにわかるのだろうか。
ルサリィは与えられた部屋の窓から外を見ながらそればかりを考えていた。ルサリィに与えられた部屋は城の中でも高い位置にあり、窓から見下ろす景色は遠い。空と城下町、そしてはるか遠くにひとつの線のようなどこまでも続く濃い緑が見えた。この大陸の四分の一をも占める、大森林である。
朝、王子とはあれ以上話すことはできなかった。たしかにそれは当たり前だとルサリィは思う。一国の王子があんな時間に面会を許すなんて異例中の異例といってもよいだろう。だからこそルサリィは焦った。つまりはそれほど、王子がルサリィの働きに期待しているということなのだから。
やってきた従者においたてられるように部屋を出ながら、ルサリィは椅子に座ったままの王子を振り返った。ルサリィの視線を受けた美青年はその瞳を笑みの形に細め、口だけでこう言った。夜に、と。
連れてこられた部屋は思った以上に豪奢なものだった。それに狼狽える間もなく従者は立ち去り、かわりにルサリィを連れてきた黒髪の騎士が顔を出した。おそらくは休んでいないのだろう、若い顔にもさすがに疲労の陰があった。
「アレクサンドル王子は休めとおおせだ。侍女をつけるわけにはいかないが、かわりに俺を含む騎士三名が貴殿の護衛につかせて頂く。扉の前に誰かが居るから、用事があれば伝えてくれ」
「侍女の方がつかないのはもちろん構わないのですが、あの、護衛の方が三名もだなんて、それは……」
「王子の命だ」
黒髪の騎士は相変わらず取りつく島がない。ルサリィは質問したい事柄を飲みこんだ。このような相手にしつこく質問をしても嫌われるだけだということぐらいは理解していた。
「……わかりました。あの、騎士様も休んでくださいね」
「……」
黒髪の騎士が余計なお世話だといわんばかりに眉間に皺を刻む。そうして一瞬だけ何か言いたげにルサリィを見やったが、すぐに踵を返すと扉を閉めた。
ルサリィはとりあえず広いベッドに腰掛ける。荷物を足元に置くと、急にどうっと疲れが押し寄せてきた。慣れない馬の背に一昼夜も揺られていたのだから当たり前かもしれない。
なんとか上着を脱ぎ、傍らに置くとそのままベッドに倒れ込んだ。身体はとにかく疲れていて、休息を取りたがっていた。それでも頭の中にあるのは皇子のことだけだった。王子の求めることを、考えなければならない。思い浮かぶ顔は美貌の王子のものではなく、幼かった皇子のものだった。
ふと気が付いたルサリィは、窓から入ってくる光が橙色を帯びていることを知った。いつのまにやら、大分寝入ってしまっていたらしい。つらつらと見た短い夢はすべて幼いころの王子のものだったので、現状に一瞬だけ混乱した。ここは城で、王子はもう20歳の青年になっている。
ぼうっとしたまま室内を見渡す。豪奢なテーブルの上に水差しがあったので、近づいてそれをカップに注いだ。カップは薄い陶器製で、驚くほど軽くて美麗だった。自分などにはもったいないと思いながらも喉の渇きを潤すべくそれに口を付ける。
するとすぐさま、部屋の扉が叩かれた。
「お目覚めですか、南の魔女殿」
ルサリィは瞬く。黒髪の騎士のそれとは違う、明るい声音だった。
「……はい」
「入っても?」
「はい」
答えると、扉から栗色の髪の青年が顔をのぞかせた。
「南の魔女ルサリィ殿、おれは銅騎士のサマヤと申します。どうぞお見知りおきを」
サマヤと名乗った騎士は、黒髪の騎士と違いにこやかな性質のようだった。雀斑の浮いた顔に人好きのする笑みを浮かべていて、声もはきはきと明るかった。
「ルサリィ様、何か召し上がりますか? よろしければ持ってまいります」
「え、ええ。よいのですか、騎士様にそんなことを頼んでしまって」
「もちろんです。おれとバアトンと、あとヴィンセントさん。この3人にはなんでもおっしゃってください。ヴィンセントさんはちょいと頭が固すぎるんで、おれかバアトンの方が言いやすいとは思いますけど」
ひとりでもいいから侍女がつけられたらよかったんですけどねえ、とサマヤは言う。
「いえ、私などにわざわざ侍女をつけるなんて……」
「あー、いやいやそういうわけじゃないんですけど、まあいいや。ともあれおれとバアトンとヴィンセントさんだけは有難くもアレク様の信頼を頂いてるってことです。なんで、ルサリィ様は何かあればおれらにおっしゃってくださいね。逆を言うと、他の奴らは信頼しないでくださいってことなんですけど」
「え」
「気と付けてくださいね、宰相殿と、とくに第二皇子様には」
笑顔とともに紡ぎ出された物騒なものを含む言葉にルサリィはきょとんとする。サマヤはそんなルサリィにかまうことなく一礼すると、では飯をもってきますと踵を返した。
サマヤの持ってきた食事は美味しかった。四方の魔女様にこんなものでもうしわけないです、とサマヤは言っていたが、いつもは森で質素な食生活を送っているルサリィにとっては十分にごちそうだったのだ。
食器を片づけに行ったサマヤを見送るとルサリィには何もすることがなかった。夜に、とアレクサンドル皇子が言ったということは、少なくとも夜まではルサリィに用事はないということだ。そこで窓からの景色を眺めながら、つらつらと王子のことを、そして先ほどサマヤが言ったことを思いだしていた。
宰相と兄王子。
サマヤの口ぶりでは、彼はこの二人にはあまりよい印象を持っていないふうだった。ルサリィの乏しい情報では、今や王と第二王子が臥せっている今、宰相と第三王子がこの国の支えであるはずだ。それなのにどういうことなのだろう。
それに、第二王子。
サマヤは「とくに」第二王子と言った。それを思うとルサリィは首を傾げたくなる。彼は、先の戦で怪我を負って臥せっているとのことだった。
ルサリィが知る第二王子は、十数年前、ルサリィがアレクサンドル王子の傍に居た頃のことだけだ。第二王子レックスは今のアレクサンドル王子と似た面差しの綺麗な顔をした子供だった。金色の髪に、紫色の瞳をしていたと思う。アレクサンドル王子より5歳年上で、ルサリィがはじめて会ったのは彼が9歳のことだった。
その日、レックス王子は王と王妃、そして長兄とともにアレクサンドル王子の療養している小屋にやってきたのだった。ルサリィは突然の訪問に驚いたが、それでも嬉しかった。何故なら、アレクサンドル王子の元にこの家族が訪問するのを見たのは、この時がはじめてだったのだ。
ルサリィにひっついてきょとんと3人を見上げているアレクサンドル王子にルサリィは言った。アレク様、父君と母君と、兄様たちですよ。アレクサンドルさまのご家族でいらっしゃいます。
アレクサンドル王子は膿の滲んだ包帯まみれの顔の中、それでも一対のオッドアイを家族に向けて不思議そうにしていた。おそらくはほとんどあった事のない家族なのだ、とルサリィはその様子を見て悟る。もしかしたらこの病になったあとははじめてなのかもしれない、とも。
「アレク様」
それでも家族なのだ。ルサリィはアレクサンドル王子の背中をそっと家族に向かっておそうとしたとき、その声は降ってきた。
「これが、弟?」
それは金髪の兄王子の言葉だった。
「こんな臭くて、気持ち悪いのが、弟?」
それは嫌悪感に満ちた声だった。金髪の子供は鼻を抑え、まるで道端に落ちている塵でも見るような目で包帯まみれの子供を見下ろしていた。
「本当に蟲のようね。南の魔女殿、これは本当に治るの?」
次に声を出したのは、きらびやかな扇で自身の口と鼻を覆った王妃だった。ルサリィはぽかんとして一家を見上げる。きゅ、とルサリィにしがみついているちいさな手の力が強くなった。その手はこまかく震えている。
「……治ります。私が、かならず治して見せます」
「そう、それなら早くして頂戴。これでは外に出せない」
その言葉にあたたかな温度は感じられなかった。
ルサリィは縋るように視線をめぐらす。しかし、そこにいる王と長兄王子は何も言わなかった。ただ、ルサリィの傍に居る子供を汚物でも見るような瞳で見下ろしているだけだった。
「……行くぞ」
一家の逢瀬はほんの数分のものだった。
「はい、父上。ああいやだな、こんなんじゃあ服に匂いが着いてしまいそうだ」
「新しい服を父上にねだってみればいいじゃないか」
くすくす、あはは、と明るい声が小屋の前から去っていく。ルサリィは呆然とそれを聞いていたが、すぐにルサリィにしがみついている子供のことを思いだした。子供は泣いていた。声も出さずに、ルサリィのスカートに顔を埋めて小さく震えていた。
その時アレクサンドル王子は4歳になったばかりだった。ものごともわかりはじめている頃だった。すべてはわからなくとも、感情は伝わる。侮蔑されたこと、必要とされていないこと、嫌われていること。そんな、いろいろなことが。
ルサリィは慌てて子供を抱きしめた。ちいさな、ちいさな子供。病になったのはこの子のせいではなく、ただの偶然の結果だった。それなのにどうしてこんなに傷つけられなければならないのだろう。この子は必死に、生きているだけなのに。
ルサリィはだから、子供を抱きしめてずっとなにかを言い続けていたように思う。王子はいい子ですとか、優しい子ですとか、大切な子ですとか、そういうことを、たくさん。たぶんルサリィ自身も泣きながら。
そうだ。あんまり腹立たしくて、皇子が寝てしまってから傍の木の幹ををぽこぽこと蹴っ飛ばしていたのだった。もっとも、貧弱なルサリィの力ではかえって自分の足が痛くなるばかりだったのだけれど。
ルサリィは窓から顔を出して庭を見下ろした。城の隅、木々に隠れるようにしてルサリィとアレクサンドル王子が隔離されていた小屋の屋根が見える。そこから少し離れたところにある大木、それに八つ当たりをしていたのだ。大人げなかったとルサリィは思う。あとで大木に謝りに行こうと思いながら、ルサリィは息を吐いた。本当は、そう、本当はあの一家をすべて蹴っ飛ばしてやりたかった。四方の魔女の中でも温厚として知られる南の魔女ではあったが、そんな彼女でも怒ることはあるのだ。
だから、第二王子のことも嫌いだった。
その思いが過去系であるのは、アレクサンドル王子が治り始めてから第二王子レックスが頻繁に小屋にやってくるようになったからだった。病から回復する弟のことを素直に喜んでいたように見えたし、アレクサンドル王子も嬉しいのか、第二王子によく懐いていた。
「アレクは本当に美しくなったね」
第二王子は心底嬉しそうにそういって、アレクサンドル王子の頭を、頬を撫でていた。それをみてルサリィも喜んでいた。これがただしい兄弟の姿だよかった。そう思いながら。
「とても、きれいだ」
仲の良い兄弟、のはずだった。