王子の命令
窓から薄い朝の光が差し込みはじめる。夜明けが始まったのだと思うと同時に、ルサリィはそこではじめて王子が夜着を着ているのに気づいた。ルサリィは進められて腰かけたソファーからおろおろとしながら皇子をみあげる。王子は前の椅子に腰を下ろしながら、かすかに首を傾けた。
「どうした、ルサリィ」
「いえ、その、夜着だけでは薄着すぎます。なにか上に一枚羽織られた方がよろしいのでは……」
すると王子はその美しい面に苦笑を浮かべた。
「もう子供ではないのだから平気だ」
はあ、とルサリィは頷く。しかしルサリィの瞳からしてみれば目の前の立派な王子もただのか弱い愛しい子供に見えてしまうのだから仕方がなかった。
王子はそんなルサリィをみつめていたが、やがてゆっくりとその薔薇色の唇をひらいた。
「……よくぞ来てくれた」
「そんな、当然のことです」
ルサリィはあわててかぶりを振った。すると王子は再会して初めてほどけたふうの笑みを見せた。
「当然、か。そうだな、そなたとは約束をした。それをおぬしも覚えておったのだな」
それはあのころと変わらないかのようなあどけなくも幼い笑顔だった。それにふわりと胸の中があたたかなもので満たされる。でも、とルサリィは内心首をひねっていた。約束、それはどの約束のことだろう、と。
かつてのちいさな王子はルサリィとたくさんの約束を交わしていた。ひとりでお洋服を着れたらきいちごのパイを作ってあげますよ、とか、今日やってくるみなさんに笑顔でご挨拶ができましたら外で遊ぶ時間を少しだけ長くしましょう、とか。
「……進んで来てくれたこと、感謝する。おかげで無粋な真似をせずにすんだ」
「そんな、アレク様がお困りになっているなら、私はどこへなりとも参ります」
長い睫を伏せながらいじらしいことを言う子供を見ながら、ルサリィはさらに目頭があつくなる思いだった。やがて王子は瞳をあげ、熱のこもった真摯な視線をルサリィになげかけてきた。
「……話は聞いておろう。妃選定の儀が、来月の初旬に行われる」
「はい」
王子の言葉にルサリィは頷く。そうしてあくまで真剣にこう続けた。
「恐れ多いことながら申し上げますと、アレク様がお悩みのことも存じているつもりです。どの女性がよいか悩むのは当たり前のこと。一国の妃を選ぶのですから、アレク様がお悩みになるのも当然のことです」
「……」
途端に王子は口をつぐんだ。美しく整った眉がかすかにひそめられているのをみてルサリィは思う。ああ、やはり悩んでおられたのだ、と。
「私は少しばかりひとよりも長く生きておりますから、ひとを見る目は、その分くらいはあるつもりです。お妃さまが無事にお決まりになりますよう、精いっぱいの助力をさせていただくつもりです」
思わず話す言葉にも熱がこもる。
しかし王子は無言だった。あいかわらず口元は笑んでいるが、美しいオッドアイからはみるみるうちに熱が引いていく。ルサリィはそれを見て大いに慌ててしまった。なにか、失礼なことを言ってしまったのだろうかと自らの両の手を握りしめる。
静かな静かな沈黙の後、長いそれを破ったのは王子の押し殺したような声音だった。
「……私には意中の者がいる」
「えっ」
ルサリィは思わず目を丸くした。そうして目の前の王子をみつめる。
銀の髪の美貌の王子は、今や笑みは浮かべているもののわずかに憂いを帯びた表情をしていた。それはたしかにこどもの頃は見たこともなかった表情だった。
ルサリィはなるほど、と思った。もはや王子の中では「妃選定」の話はあってないようなものなのだろう。意中の者がいるのなら、先ほどの自分の言葉で気分を害されたのも理解できた。
「それでは、わたしは何故よばれたのでしょう。わたしはてっきり、お妃さまをお選びになる相談役に呼ばれたものとばかり……」
「わからぬか」
そう言われてルサリィはうろたえる。
やさしげな王子の声は、しかし先ほどのものよりも冷たいもののように聞こえた。
「も、申し訳ありません……」
「そうであろうな。蟲愛でる姫君とはよく言ったものよ」
ルサリィはぎくりとして笑顔の王子を見上げる。
「蟲愛でる姫君」、それは南の魔女の蔑称だった。蟲のためだけに生きる、蟲としか触れ合わない孤高の魔女の呼び名である。人よりも蟲の命を優先する外道である、と。
今の王子は、ついさきほどまで浮かべていた幼いころのような笑みは浮かべていなかった。やさしげであるのに表情のない、仮面のような笑みを口元に張り付けている。
蟲のためだけに生きる、とはあながち間違ってはいない。南の魔女は蟲のためにあるものだからだ。だからルサリィも人とのかかわりに乏しく、だからこそこんなに強い感情をぶつけられることに慣れていなかった。
王子は怯えるルサリィに気付いたようだった。目を逸らし、くすりと音を立てて笑う。その音は薄闇の中につめたくつもっていくようだった。
やがて、王子は言葉を紡いだ。
「……では、こうしよう。私が意中の者を籠絡する方法を教えよ」
籠絡。
ルサリィは思わずぽかんとした。長い間生きてきたルサリィだったが、それは色恋というものには無縁の世界の中のことだった。恋と言うものすらまともにしたことはなく、また、これまで誰もルサリィをそのような対象として見ることもなかった。ゆえに、男女の心の機微などちっともわからないのだ。
「え……そ、そんな、私などではさっぱり……」
慌ててルサリィは首を横にふる。
しかし王子はやさしげな笑顔のまま、こう断言したのだった。
「……いや、お前でなければわかるまい」