蟲の病
第三王子アレクサンドルが蟲の病を患ったとの報が入った時、ルサリィは驚いた。蟲の病と呼ばれるこの疾患は原因不明の疾患だった。過去の例は100年以上前。まさか、今の王族にそんなことが起こるとは思っていなかった。
かけつけたルサリィがみたものは、皮膚がただれ、膿み、その端から蟲の殻のように厚く重なる皮膚をまとう、痩せ細った幼児の姿だった。
子供の相貌はもはや判別できず、まぶたや唇まで悪臭のある浸出液でべとべとに汚れていた。かろうじて半分ほど開いている瞳の色は右が赤で左が碧。うつろなそれに光はない。聞けばほとんど食事も睡眠もとっていないとのことだった。皮膚のかゆみと痛みに泣きわめき、わずかな食事を摂っても吐き出してしまう。誰もいない隔離された部屋には腐臭と悪臭が満ちていた。
「何をしても効果がないのです」
城の医師は及び腰でそう言った。誰もが病の感染に怯えており、醜くなった病の王子をもてあましている風だった。ふたりの兄王子も、それに王も王妃さえも。
子供のあまりもの様子に思わずそのちいさな手をにぎりしめたルサリィに、子供はかすかに反応した。ちいさなちいさな声で、こう言ったのだ。
たすけて、と。
「久しいな、南の魔女ルサリィ」
かけられた声は記憶にあるものではなかった。甘やかだが低いそれは幼い子供のそれではなく、それでようやくルサリィは我に返った。
あわてて膝をつき、深く頭を垂れる。そうして深く被ったフードがルサリィの顔をすっかり隠してしまうことに安堵した。この地の大国の第三王子に、まさか自分の涙ぐんでいるみっともない顔などみせることはできない。
「はい」
そう答えるだけで声が震えた。
アレクサンドルはしばらく何も言わなかったが、やがてひそやかな衣擦れの音が近づいてきた。
「ルサリィ、フードをとって頭をあげよ」
「い、いえ、それは」
「あげよ」
ルサリィは逡巡したが、王子の命は絶対だった。フードをとるついでに滲んだ涙を拭きつつ、そろりと頭を上げる。目に入ってきたのは思ったより近い位置で屈んでいる青年の姿だった。手を伸ばせば届きそうな位置で、王子はルサリィをみつめていた。
薄闇の中、蜜色の明かりが満ちる。それに照らされる王子の美しい瞳の色にはやはりおもかげがあった。あの小さなころの、いとけない子供の。
もう限界だった。ルサリィの瞳からはついにこらえていた涙がぼろぼろと零れ落ちた。
あの子がこんなに大きく、立派になって。
安堵にも似た感情はただひたすら暖かな喜びに満ちていた。
涙で視界が遮られる。水の膜の向こう、王子はわずかに苦笑したようだった。
「……お前はやはり、変わらない」
「え、ええ。私は、森の精の血を引いておりますから、外見は……」
「それだけではない」
まあよい、と王子はつぶやいて立ち上がる。ルサリィは慌てて服の袖で涙を拭い、しゃっくりあげる喉を抑え込んだ。王子はそんなルサリィを黙って見下ろしているようだった。ああ、まったくみっともないところをお見せしてしまったとルサリィは思う。アレクサンドル王子がルサリィを城に招いた理由は分かっているのだ。だとしたらルサリィはもっと、年長者として、そして魔女としてどんと頼れるところを見せておくべきだったのに。
「……ルサリィ、お前は」
ルサリィのしゃっくりが収まるころ、アレクサンドルはぽつりとこうつぶやいた。
「私の頼みを、聞いてくれるだろうか」
ルサリィは瞬く。本来四方の魔女は誰の干渉も受けない存在だった。それを気にしているのだろうかとルサリィは思う。たしかに魔女としてはこの国の配下になった覚えはない。しかし礼はつくすつもりだった。この国はかつて大森林と、そしてそこに住む蟲を迎えてくれた存在だった。その恩義は代々の南の魔女にきちんと受け継がれている。
それにルサリィ個人としても、皇子の望むことであるならなんでも叶えてあげたかった。
「ええ。私に、できることであるなら」
そういうと王子はわずかに苦いものを含んだかのように微笑んだ。
「……そうであることを願おう、南の魔女ルサリィ」