一路、城へ
雨の訪問者は黒髪の騎士一人ではなかった。南の大森林は蟲の地であり迷いの森。そこから生きて戻りたいのなら道案内が必要となる。
「用意にはしばらく時間がかかります。騎士様に蟲狩りの族長の子ラウロウ、どうぞ中へ」
「自分は結構」
「ではラウロウ、中に入ってください」
頑なな騎士の後ろで小さくなっていた人物の名を呼ぶと、少年は驚いたようにルサリィを見た。表情は硬く、雨に濡れたせいか顔色も悪い。
憮然としたままの騎士の横から手を伸ばして 少年の手を取る。冷え切った手を引いて暖炉の前に座らせると、ルサリィは乾いた布とあたたかな茶を手渡した。
この南の大陸地においてクレフォレンの威光は強い。おそらくは騎士に無理やり道案内として連れてこられたのだろう少年の身体は寒さのためだけではなく震えていた。
ルサリィはちら扉に目をやる。閉じられた扉の向こうには先ほどと同じ表情の騎士がいるはずだった。濡れみずくではと不憫に思い乾いた布を渡したものの、おそらくはそれすらも使われてはいないだろうことは容易に想像できた。
「ごめんなさいね、私のせいで迷惑をかけたわね」
こっそりと馴染の蟲狩りの子にささやくと、ラウロウは目を丸くした。しかし何かを問おうとするまえにそれを制す。扉の方を指差すと、少年はそれで理解したようだった。騎士は扉の前に居る。そうしておそらくはルサリィ達の会話も聞かれている。
「ラウロウ、私は王子の命で王城に向かうことになったの。おそらくはすぐに帰ってこれると思うけど、あなたのお父さんにそう伝えておいて」
「はい」
「蟲狩りのことも、いつもと同じようであるなら南の魔女は何も干渉しないわ。あなたのお父さんならきちんとわきまえているはず。そうね……ひとまず一任すると伝えてくれる?」
「は、はい」
「……この森のことを、お願いね」
荷物をまとめ終えるころには、ラウロウの服はすっかり乾いていて頬には赤みも戻ってきていた。それにほっとしながら扉を開ける。黒髪の騎士は直立不動のまま、しかしやはり不機嫌そうにルサリィをみやった。渡した布に使った形跡はやはりない。
森を抜けるための小道を歩きだしながら、ルサリィはふと南の魔女の小屋を振り返った。何十年となく住み慣れた小屋。そうしてこれからも住み続けていくであろう小屋。
だというのに、何故だかそれが二度と帰ることのないものであるかのように思えたのだった。
森には馬が進むような道はない。あるのは蟲狩りの民が長い間かけて作ったほそい小道だけだった。ルサリィたちは一路、騎士が馬を預けてきたという村を目指した。
深い森にはあらゆる蟲が生息している。大きいとはいえ多くのそれらはおとなしいもので、刺激さえしなければ進んで人を襲うようなことはない。それに前もってラウロウが焚いている香には人を喰う蟲除けの効果もある。しかしそれを伝えても騎士の目には獰猛な獣のようなものとしてうつるようだった。腰に帯びた剣から手を離すことはなく、また、同じくルサリィやラウロウの挙動もひそやかに窺っている。
ほんのすぐそばをぞろぞろと這っていく腕ひとかかえほどもある蟲や、幾枚も羽を持ち鋭い歯をぎちぎちと鳴らしながら飛び回る蟲を見るたびにその柄は強く握られ、瞳には鋭い殺意が宿った。ルサリィはそれを見ながら、ああこれが普通の人間の反応なのだとあらためて知る思いだった。大森林を領地とするクレフォレンの騎士さえもこうなのだから、もちろん王子だってこのような反応なのかもしれないと心に刻み込む。
村に着くとラウロウと別れた。解放されて安堵したはずなのに顔を曇らせているのはおそらくはルサリィを心配してくれているのだろう。ありがたく思いながら馬上から手を振る。
雨はすでにやんでいた。
馬は一路城を目指している。14年前ぶり、二度と戻ることはないと思っていた場所だった。
ルサリィは馬をあやつる騎士にしがみついたままそれを懐かしく思った。城では嫌なことやつらいこと、腹が立つこともたくさんあった。けれどもそれは王子という存在ひとつですべてはかき消えてしまうほどささやかなことだったと今なら思う。
「――俺は」
ふいに黒髪の騎士が低く声を上げた。それは風に紛れてほとんど聞き取れないほどの声だった。
「俺はアレクサンドル王子の為になら剣になるつもりだ。南の魔女、その相手がお前であっても俺はためらうことはないだろう。……覚えておけ」
低い声は風にちぎれて後方へと飛んでいく。しかしルサリィにはちゃんと聞こえていた。それは王子の客人として城に招かれるルサリィにとって大概不遜な言葉であるはずだった。
けれどもルサリィは微笑んだ。
「アレク様がよい騎士をお持ちのようで安心しました」
アレクサンドル王子はどのように成長されたのだろう。噂話を耳にするたびに聞こえてくるものは良いものばかりだった。美しく聡明な第三王子。このようにまっすぐな忠誠をあずけている部下がいるのも喜ばしいことだとルサリィはくすりとする。自分への風当たりが強かろうと問題はない。それに、それは当然のことだろうからだ。
幼かった王子の病のことを知る者はすくない。そして、その王子を看続けていたルサリィのことを知る者も。
おそらく流れているのは、蟲の毒を使い幼い王子をかどかわそうとした魔女の噂。そうしてそれは文面にしてみればあまり違いがないのが皮肉なところだった。ルサリィが王子に薬として塗っていたのはある蟲の粘液であることは間違いなかったし、幼き日の王子はいつも生死の境をさまよっていた。
ルサリィの言葉を受けた騎士の背中がこわばる。もしかしたらルサリィの言葉を皮肉ととらえたのかもしれない。本当は、心の底からの感謝の言葉だったのだけれど。
まあいいとルサリィは再び空を見上げる。
どうせ滞在するのは妃選定を含む数日間。
その間少しでも王子の心を慰めることができるのならば、自分の噂のことなどとるにたらないことなのだ。