蟲愛でる魔女
南の大国クレフォレン。その第三王子、アレクサンドルの花嫁の選定の報が南の魔女ルサリィの耳に届いたのは運命の女神のきまぐれによるものだった。
ルサリィの交友範囲は狭い。南の大森林の奥深くに住む彼女に自ら会いに来るものなどほとんどなく、また、ルサリィ自身が外に出ることもせいぜいが半年に一度、近くの村へ買い出しに出る時のみであった。
そこで偶然耳にしたのがこの国の第三王子の花嫁選定の報である。黒い外套のフードを深くかぶり、人目を避けるように行動していた彼女が思わず小さくとはいえ声を上げてしまったのも無理はなかった。
何故ならクレフォレン第三王子アレクサンドルは、ルサリィの愛しい養い子だったからである。
養い子ことはいえルサリィの本当の子供ではない。もちろん血族でもなく、縁のある一族というわけでもなかった。ただ短くはない時の間、つきっきりでお育てしていたのだ。その期間はおよそ6年間。王子が2歳から8歳までの間だった。
あれから12年。王子も20の齢を数える年になった。もれ聞こえてくる噂話によるとあれから王子は健やかに育たれ、今や三国一の美しさを誇る白皙の青年に成長されたと聞いている。王子の話を聞くたびにルサリィの胸はこみあげてくる暖かなもので満たされた。それは時にその双眸を涙で滲ませるほどにただただ嬉しいことでもあった。
小さく、いとけない子供だった。奇病に犯され、ひとの何倍も苦痛をなめてきた子供だった。そうして優しくも聡い子供だった。
その王子がついに花嫁を迎えるほど立派に成長されただなんて。
ルサリィは噂話に耳を傾けながらもフードの下でこっそりと涙を拭った。ただひたすら嬉しく、そうしてほっとする心持であった。城を出た後、王子と一切の接触を禁じられていたルサリィには何もできなかったが、ことあるごとに何かに向かって祈っていた。魔女であるルサリィに信じる神などない。けれども何かに向かって、ただひたすらに子供の無事を願っていた。
あれから、12年。
ルサリィは滲んだ双眸を空に向けた。思い描くのはいとけなかった子供のことだ。今はきっと立派な青年になっているのだろう。背も伸び、自分を越えているのかもしれない。そう思うと知らず口元に笑みが浮かんだ。子供が口癖のように言っていた言葉を思い出したのだ。
おまえは、ぼくのものなんだろう?
はいそうですよとルサリィは答えていた。それは子供がさびしいときに紡がれる口癖のようなものだった。隔離された小屋の中、そのとき子供の傍に居たのはルサリィ一人だけだったから、子供はルサリィがいなくなることにいつも怯えていたように思う。だから子供の望むがままの答えを言の葉にのせていた。
ええそうですよ、ルサリィはあなたさまのものです。ですからずうっとおそばにおりますよ。
そうすれば子供は微笑んだ。安心したように病のせいで蟲の殻のようになったかたい皮膚をぎこちなく動かして笑っていた。
じゃあぼくが大きくなったら、ルサリィよりも大きくなったら、きっとおまえを妃にするから。
だから、おまえはそれまで、待っていなくてはだめだよ。幼い声で子供はそう言っていた。何度も何度も。
それはルサリィにとってとてつもなく不遜な申し出であったが、それに頷かなければ王子はけして眠ってくれなかった。
ああ懐かしいとルサリィは思う。
森の精霊の血の入った自分には10年などささいなこと。けれども純粋な人の子にとっては大きな時間のはずだった。
ふいに強い風が吹いて、黒いフードをさらった。
そこから現れたのは12年前とほとんど変わることのないひとりの少女の姿だった。