森の精の歌
(3)
南の魔女には森の精の血が流れている。その事実を知るものは多くはなかったが少なくもなかった。何しろ森の精が人間の形をとった時の姿は特徴的なのだ。白い肌にわずかに尖った耳、それに何より髪の色が新緑を透かしたかのような美しい緑色はいやがおうにも目立つ。この南の大陸では緑色の髪の人間などおらず、だからこそ少なくともルサリィの姿を見た人間は南の魔女には森の精の血が流れていることを察することが出来るのであった。
南の魔女として生きているルサリィにとって、それは悪いことばかりではなかった。ルサリィは魔法など使えないが、森の精はいくつかの不可思議な能力を有している。もしも親というものがルサリィの傍にいたのなら使い方などを教えてもらえたのかもしれないが、あいにくルサリィは捨て子であった。赤子であったルサリィを拾って育てた先代の南の魔女は、自身の有していたわずかな自分の魔法をルサリィに教えようとしたがルサリィには使うことが出来なかった。魔法は生まれ持った資質が大きく作用する。少なくともルサリィには南の魔女の魔法を受け継ぐことはできなかった。
ルサリィが魔女より受け継いだのは膨大な南の森の知識に蟲の知識、それだけである。しかしルサリィはほんの小さなころ、歌を歌っていると自分の歌に特定の蟲が反応することに気が付いた。反応するといっても蟲が寄ってくるとか逆に去っていくとか単純なものだったが、それを知った南の魔女はたいそう驚いていたから魔法というより森の精の血が成せる技だったのだろう。
とはいえ蟲を操れるとか命令できるとかいうものではなく、あくまで「少しだけお願いが出来る」という程度のものだった。その「お願い」を蟲が必ず聞いてくれるということもなく、だから魔女として役に立つかと言えばそうでもなかった。攻撃的な蟲を追い払うためや、逆に薬になる粘液をもつ蟲を呼び寄せるとか、どちらかというと森での生活面で役に立ってはいたけれど。
幼かったアレクサンドル王子に塗っていたのもある特定の蟲の粘液だった。炎症やかゆみを抑え、傷口を防ぐ効果のある粘液を持つ蟲は、幸いルサリィの歌と相性がよかった。城の片隅の小屋の中でアレクサンドル王子につきっきりだったルサリィに森へ蟲の粘液を取りに行く余裕はなく、だからこそ蟲の薬がきれかかった時には自身で補充するしかなかった。
アレクサンドル王子が痒みと痛みの余り泣きながらルサリィの膝の上で浅い眠りに入ったころ、ルサリィはそっと歌を歌い、蟲を呼んだ。目覚めた王子はやってきた蟲を見て、包帯まみれの顔の中の碧玉と紅玉の瞳を見開いて驚いていた。気味の悪い蟲は普通の人間には嫌われる。だからこそ薬の正体をルサリィは王子には隠していたのだが、王子は驚くほどすんなりとそれを受け入れた。それどころかちっとも蟲を怖がらない子供に、ルサリィこそ驚いたものだ。それを問うと、王子は笑ってこう言った。
「ルサリィがこわがっていないのだ。だからこれは、こわいものではないにきまっている」
ルサリィは部屋の窓を開け、その彼方に広がる大森林の線をみやった。この国は北部を大森林に覆われている。高い位置にあるこの部屋からはその広大さが見て取れて、ルサリィは大きく息を吐いた。森から吹く風はルサリィの新緑の長い髪をゆるやかに遊ばせていくのがここちよい。
アレクサンドル王子の花嫁が決まったらルサリィはあの森へ帰る。そうして、これまでと同じように王子の幸せを願いながら蟲と生きていく。それは当たり前のことである。それなのに、ルサリィはかすかに瞳を伏せた。
誰よりも愛しい子供との別れはやはり寂しい。けれどもあの頃と違って王子を大切にしてくれる人の存在がちゃんとあることをルサリィは知っていた。少なくとも三人の騎士は王子を何よりも大切にしてくれているようであったし、花嫁として選ばれるはずの女性はきっと王子を大事に思ってくれるだろう。願わくば、それが王子の意中の女性であればよいのだけれど。
王子の相談役であるのに、ルサリィはあいかわらず「意中の女性」の名前すら知らされてはいなかった。けれどもアレクサンドル王子の態度からその女性への深い愛情はたしかに感じられた。きっとその真摯な思いは彼の女性に届くだろう。届いて欲しいと素直にそう思う。ほんの少しばかり寂しい気がするのは、おそらくはルサリィが小さな王子の手をまだまだ引きたがっているからに違いがないだろう。自分が王子の親というのは恐れ多く、かつ大変おこがましいことだが、それでもルサリィは王子が可愛かった。可愛いから、だから、寂しいのに違いがない。
ルサリィはひとつ頭を振る。あまり考えてはならないことだと本能的に思ったのだった。可愛い、だけで。理由はそれだけでよいことだ。
ふいに窓から吹き込んでくる風の向きが変わった。一路、風が森へ向かうのに気づいて、ルサリィは窓を開けた理由を思い出した。あの悲しい子の、ささやかな願いを。
ルサリィが森の精の血をひいていると改めて思い知ったのは、「あの子」に会ったからだった。かつては栄華を極めた一族の、そして今では魔王の血族として忌み嫌われている一族の子。その一族には特殊な力があり、そうしてそれは確かに恐ろしいものだったのかもしれないと身に染みて思う。
「魔王は手強いやつだったよ。あやつはあまたの精霊の寵児だったからな」
いつか西の魔女が苦々しく語っていたことを思い出す。生きているだけで精霊を惹きつける一族。生き残りは今では迫害され細々と隠れ住んでいるが、多くは奴隷として売られているという。
「私はピアと申します」
今朝、ルサリィの部屋にやってきた少女はそう名乗った。肩までの長さの黒髪に大きな金色の瞳をした褐色の肌の少女だった。年の頃は14か15か。むき出しの右腕には不可思議な紋様が刻まれており、それは何故かルサリィの意識に強く残った。
「……あなたは、オグル族?」
思わず問いかけると、少女は素直に頷いた。ルサリィは大きく息を吐く。この少女の声を聞いた時から胸の中に溢れてきた「好意」の感情にその答えを見つけてほっとする気分だった。おそらくは森の精の血がそうさせているのだろう。そしてその感情に支配されないのならば、自分の中の森の精の血は思ったほど多くはないのかもしれない。そうとも思った。
「南の魔女様、お願いがあるのです」
ピアは小さな声でそう言った。ルサリィの中にこの少女に対する好意の感情はあったが、それはもちろん知り合いへの好意や……アレクサンドル王子への好意とは比べるまでもないささやかなものであった。だから断ることはできた。しなかったのは森の精の血が原因ではない。ただ、その願いが懐かしくも悲しいものだったからだ。
「私の主さまの顔の傷が治らないのです。どうか治る薬をくださいませんでしょうか」
眼下の森を見わたしながらルサリィは息を吸い込んだ。音はそれほど大きくなくとも、不思議なことに蟲にはこの声が届く。
ちいさな歌が、流れた。




