軍事国家の姫君
(2)
サマヤという名の騎士が扉を締めて去ってゆくのを見届けて、シャルロット=イル=デ=ランゴバルトは頬に落ちかかる艶やかな黒髪を煩わし気に手で払いながら自身の唯一の従者に目をやった。
「……で、ウールヴ。成果はどうだったのかしら」
「はあ、賓客が一人いるみたいですねえ」
ウールヴと呼ばれた男はへらりと笑い、肩をすくめながら答えた。
ウールヴとはシャルロットが恩を押しつけながら拾った時に付けた名前である。茶色の髪に中肉中背、細い目をした薄い顔立ちの男で、少年のように若くも見えるし壮年のようにも見える不思議な男だった。
「しかもとびっきりの賓客です。俺たちの世話を任されたあのサマヤって騎士、おそらくはアレクサンドル王子の信が厚いと見てよいでしょう。そのサマヤ君がわざわざ食事を部屋に運んでいるのだから、間違いなくアレクサンドル王子の賓客でしょうねえ」
「この花嫁選定の時期にお客様……女性かしら。姿は見たの?」
シャルロットの形の良い眉がかすかに細められる。
「いいや。なんとか部屋の前まで行ったんですけどねえ、サマヤ君が思ったより勘が良くて駄目でした。けれど十中八九女性だとは思いますがね」
「根拠のない推測ほど無駄な物はないわ。根拠を言いなさい」
美貌の王女はぴしゃりと語尾を強めたが、長年傍に置いている従者は慣れた風に続けた。
「へいへい。サマヤ君の下げていた食事の皿ですが、男性用とみるには小さすぎました。カップに口紅はついておりませんでしたからご貴族の令嬢でもなさそうですが。あとは部屋の扉を閉めた時に香る匂いですかね」
「……そう。誰かはわからないけれどわたくしには最大の敵がいるようね」
シャルロットはこぼすようなため息を吐くと、ソファにもたれるように腰掛けた。深紅のドレスの裾に皺が出来そうな仕草に、ウールヴがおやと声を出す。
「シャルロット様、お疲れなら少しお休みになった方が」
「いらないわ。今からこそがわたくしの戦いなのだから」
その言葉の意味を知る男は笑みを浮かべたまま口を噤む。王女は豊かな黒髪の中に埋もれるように身体を沈ませながら瞳を閉じた。
「……今からがわたくしの出番よ。ウールヴ、ここまでよくやってくれました。貴方こそ少し休みなさい」
「いえ、俺は……」
「貴方がここまでほとんど眠りもせずにいたことは知っているわ。命令よ、少し休みなさい」
王女がついと腕を上げ、自分の隣を指し示した。この部屋は客間で寝台はない。従者ははあと呆れた声を出す。
「シャルロット様、ここまでの旅路は兄妹として偽装するためにも必要だったので同室でも隣に座っても仕方がなかったのですが、さすがにもう無理ですよ」
「兄と妹だったら隣に座ってもよくて、姫と従者だったらよくないと?」
「そりゃあそうでしょう。嫁入り前のお姫様が何を言っているんですか」
「ふん、つまらない答えね。相変わらず面倒くさい男だわ」
シャルロット王女は従者の薄い顔をじとりと睨む。ウールヴは相変わらずの笑顔を浮かべたまま、それでもやはり扉の前から動こうとはしなかった。けれどもシャルロットの甘えを感じ取ったのだろう。主人の欲しい言葉を差し出すために口を開いた。
「アレクサンドル王子の心を射止めるためにこんなところまでやってきたのでしょう? 大丈夫、お美しいシャルロット様ならきっとやれますよ」
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「シャルロット王女殿下との面会のお時間が決まりました」
執務室に入ってきたヴィンセントの言葉に、アレクサンドルの書類の束より目線を離さずにそっけなく答えた。
「して、何時だ」
「王女殿下も長旅でお疲れでしょうし、昼餉の後を予定しております」
「そうか」
短く答えると、アレクサンドルは片手を挙げて部屋付きの侍女を全て下がらせる。そうして執務机の上に散らばっている書類の上にゆっくりと頬杖をついた。
「……宰相の耳には入っているか?」
「はい。何しろ正門より堂々と名乗っておられましたから。城内のもので知らぬものはおりませぬ」
黒髪の騎士は表情をわずかに苦くして首肯する。正門に突如現れた少女が差し出した書簡には確かに隣国ランバルト国王の署名があったのだ。王女が着用するにはいささか不釣り合いなフードをおろし、朗々と名乗りを上げた少女は自らをシャルロットであると宣言した。そうしてアレクサンドル王子との面会を名指しで希望してきて来た。
アレクサンドルは頬杖をついた指をこめかみにあてる。白銀の髪がヴェールのように王子の稀なる美貌の上を流れた。
「誤魔化しきれんか」
「無理でしょう」
「……シャルロット王女殿下の要件はなんであると思う」
ヴィンセントは黙って片眉をあげた。このように王子が尋ねてくる時はほぼ自身の中で回答が形作られている時だと長年王子の傍に仕えてきた騎士は察していた。だからこそ自分の心中を正直に告げる。
「王女の申し出は民にとっては非常に喜ばしいことでありましょう」
「そうだな。そしてお前の父親もそう考えるであろうよ」
ヴィンセントは頭を垂れる。アレクサンドル王子の心中は察するに余りあるが、それでも進言せずにはおれなかった。
「……この国には先の戦の影響が色濃く残っております。民が安寧を求めるのは当然のことかと」
「先の戦でランバルトに殺された民も多い。それでもか」
「はい。この国の民は戦に慣れておりません」
「……そうであろうな」
アレクサンドルとてよく理解している事柄なのだろう。けぶるような銀の睫毛を伏せながら物憂げに答える声に色はない。
目線の先にあるのは白百合である。かぐわしく香りを放つそのうちの1本はかの魔女の元にあるはずだった。
「……あれは、どう思うであろうな」